覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(4)(ナナロク社、2017年10月15日発行)
「対詩」というのは、どうはじめるのか。146ページから、「作者による解説」というのが書いてある。「封印を解くように」という「対詩」に対する解説。谷川の詩から始まる。
そうか、じゃんけんか。しかし、じゃんけんで先か後かが決まったとして、それから詩を考え始めるのだろうか。谷川は「詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って」と書いている。先であることが決まってから、そう思ったのか。そうではなく、「対詩」をやる過程で、そうしたいと思うようになった。その意識を反映させた、ということだろう。
まだるっこしいことを書いてしまったが、「解説」を読む前に私が感じたのは、あ、この詩は瞬間的にこの場でできたのではなく、用意してきたものではないのか、ということだった。「金銭」をどこかで書きたい。そう思って「金銭」が出てくる詩を谷川は準備して、「対詩」の場にやってきたということだろう。
この詩には谷川の「対」の感覚、谷川の詩のひとつの特徴があらわれている。ひとりで「対」を演じている。
まず、「エリオット」が出てくる。「貨幣」ということばも出てくる。二行目は銀行員であるエリオットのことばである、と読むのが普通である。三行目以下を読むまでは。
朗読で聞くときは三行目以下はまだ存在しないから、二行目はエリオットの「ことば(思い)」としか理解できない。
しかし、これに対して、
こうつづけると、どうなるか。「彼」をエリオットと理解することもできる。「散文(小説)」ならば、普通はそう考えるかもしれない。エリオットはたしか眼鏡をかけていたし、アメリカからイギリスへ海を越えて移り住んだ詩人でもある。「海岸」(海)が挿入されているのも、エリオットを連想させるかもしれない。
しかし、谷川は「彼」をエリオットとは考えていない。別のひとと考えている。エリオットと貨幣(金銭)について考えている男。
エリオットと彼が「対」になっている。
「対感覚」が谷川の特徴(ことばの癖)だから、それがついつい出た、と言えるかもしれないが、「対感覚」のあることばを用意することで、「対詩」の動きを誘い出そうとしている。そういう「もくろみ」が準備された詩である、と私は感じた。即興ではなく、あらかじめ推敲し、完成させた詩だと思った。
「駒沢通りDenny’sⅠ」の始まりの谷川の詩も、「用意してきた詩」だろう。ここにも「対感覚」があふれている。
「意味と無意味」という「対」に対して、「幼児」が「対」になっている。「意味と無意味」というようなことを「幼児」は考えない。つまり、そこに「切断」がある。「切断」が「対」の絶対的条件である。その「切断」をうながすものに「山々」がある。(ついでに書いておけば「エリオット」では「海(岸)」が「切断」をうながしている。)「意味と無意味」が「意識」であるのに対して「山々」は「自然」。そして「山々」が自然なら「幼児」も「自然」だろう。「幼児」と谷川は書いているが「あかんぼう」のことだろう。明確な「意味と無意味」を言うことができず、そういうものが「肉体」のなかで区別されずに動いている「あかんぼう」。「意味と無意味」が「未生」の状態を指している。
ここでは「意味と無意味」たに対して「未生の意味と無意味」が「対」になっている。こんなにすっきり(?)とした「対」なのは、この詩が瞬間的につくられたからではなく、始まる前に「用意された」詩だからだろう。
こういう「対感覚」の強い詩が、長い「対詩」の展開のなかでも出てくる。
「デッドエンド」と「エンドレス」という「対」。「小学3年」の思いと「大人」の思い。最終行の感想は「小学3年」のときには思えない。「大人」になってはじめて抱ける思いである。
「天文学(遠い巨大な世界)」と「家計簿(身近な世界)」という「対」が「明日の予定(身近)」「未来の予定(遠い)」と「対」になっている。
シングルマザー(女性)が出てくるが、これはいつもの谷川の自己を他者に託す方法である。谷川は身近な存在ではなく、遠い存在、女性とか、子どもに自己を託すのが得意である。離れているから「対」になりやすい。「対感覚」を動かしやすいのだろう。
そんなことを思いながら読んでいくと、133ページで、突然違った感じ、とても不思議な「眩暈」のようなものに襲われる。
「対詩」は、こう展開する。
後の方の詩には「対」がある。「カクテル(飲み物)」と「ピザ、丼、パスタ(食べ物)」、「百年(時間)」き「太陽、月、星(宇宙/空間)」、「孤独(ひとり)」と「ライブハウス(複数)」。
これも「手が込んでいる」から「用意されてきた詩」っぽい。でも、谷川の詩かなあ。谷川の詩とは違った響きがあるなあ、と思った。
そうしたら。
「解説」を読んでわかったことなのだが、長い「対詩」は一気につくられたものではなく、複数の回にわけて書かれている。途中で「中継(休憩)」がある。「一日」ではなく、複数の日にちにわかれていることもあるのかも。つまり「中断(休憩)」あいだに、ひとりで詩を考える時間もあるということになる。
だから、「再開」するとき、ふいに「用意されてきた詩」があらわれることになる。その「用意されてきた詩」というのは、全体の中ではすこし「リズム」が違う。
まったく新しいシリーズでは、「発句」のようなものなので、その「新しさ」は気にならないが、途中だと、なんとなく「あれっ」と思う。
そして、いま引いた例では、「おしまいは」は覚の作品(一回のつながりの終わり)であり、「百年の孤独」もまた覚の作品なのである。そのために、「飛躍」というか「切断」の感覚が、いつもとはなんとなく違う。「対」の感じもなんとなく違う。
本で読むと、谷川と覚の詩は活字が「青」と「黒」に色分けされているし、末尾に「俊」「覚」という文字がそえられているのだが、私は目が悪くて、この色の違いは「印刷の濃淡」くらいにしか感じられないし、「俊」「覚」という区別もいちいち意識するのがめんどうくさくて読みとばす。だから、よけいにつまずくのだと思う。
直前に「中断(休憩)」があったのかなかったのか、「解説」ではわからなかったが、次の詩も印象に残った。
「落雷」という自然現象と「音楽」という芸術の「対」が、「音楽」のなかで「フォルテッシモ」「ピアニッシモ」という「対」を呼び寄せ、その「対(ふたつのもの)」のあいだに「無限」を生み出す。それは「ココロ」と「カラダ」という「未分節の対」のなかに「昂り」を生み出す。
谷川の詩には「意味」の「対」があり、その「対」をあらわすことばが、ことば同士で響きあう音楽(和音)になる魅力がある。
*
谷川の詩(ことば)と覚の詩(ことば)には似たものがある。共通の「音楽」があると感じるけれど、そのひとつひとつを交互に読んで、そのとき感じたことを書こうとすると、なぜか谷川の詩についての感想が多くなった。
あ、私は覚の詩よりも谷川の詩が好きなんだなあ、とあらためて思った。
ふたりは似ているけれど、違う、ということを実感できた。
この詩集は、ふたりが聴衆の前でライブで詩をつくり、読むという形で生まれている。私はそれを本で読んで感想を書いた。
実際にライブで朗読を聞いたならば、また違った感想になるかもしれない。
本で読むと(特に目の悪い私には)、ふたりのことばをいちいち区別して読むのがめんどうで、ふたりを意識せず、ただそこにある「ことば(活字)」として向き合ってしまう。活字によって展開される「ひとつづきのことばの運動」(一篇の詩)として読んでしまう。
このとき、私は何かを読み落としていると思う。そのことを、書き添えておきたい。
というのも……。
この感想を書き始めたとき、谷川俊太郎とねじめ正一の「詩のボクシング」について書いた。「テレビ」と「ラジオ」の作品について書いた。あの「対戦」をテレビで見たとき、私は谷川俊太郎が「ずるい」と思った。これは、ねじめに会ったとき、そういった。こんなふうに。
「あんなふうに意味にしてしまうと、意味の方が絶対に勝つ。ひとは意味にならないものよりも意味の方を理解しやすい。あれでは現代詩のボクシングにならない。あの勝負、おかしくないですか。ずーっとねじめが勝っていたのに、最後に意味のまとまりをことばにできずにねじめが負け、意味を語った谷川が勝つというのは、現代詩にとってとても変なことじゃないですか。あんな勝ち逃げはずるくないですか?」
本(活字)ではなく、ライブで「声(消えていくもの)」と向き合っていれば、違った感想になるかもしれない。覚の詩の方がおもしろい。新しい、と感じるかもしれない。ライブでは好きな時間に、好きなリズムでことばに接するということができないので、そのときの私の体調なども影響するだろう。直前に何を食べたかまで、きっと影響する。
そんなことも思うのだった。
*
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「対詩」というのは、どうはじめるのか。146ページから、「作者による解説」というのが書いてある。「封印を解くように」という「対詩」に対する解説。谷川の詩から始まる。
エリオットだって銀行員だった
貨幣は人生を決定する大きな要素だ
海岸のデッキチェアでそう書いて
彼は眼鏡を拭いた
誰から始めるかは普通じゃんけんで決める。詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って、「彼」という人物を登場させたが、小説と違ってこの「彼」を、物語の主人公にするということは考えていない。
そうか、じゃんけんか。しかし、じゃんけんで先か後かが決まったとして、それから詩を考え始めるのだろうか。谷川は「詩ではあまり扱われない金銭をどこかで出したいと思って」と書いている。先であることが決まってから、そう思ったのか。そうではなく、「対詩」をやる過程で、そうしたいと思うようになった。その意識を反映させた、ということだろう。
まだるっこしいことを書いてしまったが、「解説」を読む前に私が感じたのは、あ、この詩は瞬間的にこの場でできたのではなく、用意してきたものではないのか、ということだった。「金銭」をどこかで書きたい。そう思って「金銭」が出てくる詩を谷川は準備して、「対詩」の場にやってきたということだろう。
この詩には谷川の「対」の感覚、谷川の詩のひとつの特徴があらわれている。ひとりで「対」を演じている。
エリオットだって銀行員だった
貨幣は人生を決定する大きな要素だ
まず、「エリオット」が出てくる。「貨幣」ということばも出てくる。二行目は銀行員であるエリオットのことばである、と読むのが普通である。三行目以下を読むまでは。
朗読で聞くときは三行目以下はまだ存在しないから、二行目はエリオットの「ことば(思い)」としか理解できない。
しかし、これに対して、
海岸のデッキチェアでそう書いて
彼は眼鏡を拭いた
こうつづけると、どうなるか。「彼」をエリオットと理解することもできる。「散文(小説)」ならば、普通はそう考えるかもしれない。エリオットはたしか眼鏡をかけていたし、アメリカからイギリスへ海を越えて移り住んだ詩人でもある。「海岸」(海)が挿入されているのも、エリオットを連想させるかもしれない。
しかし、谷川は「彼」をエリオットとは考えていない。別のひとと考えている。エリオットと貨幣(金銭)について考えている男。
エリオットと彼が「対」になっている。
「対感覚」が谷川の特徴(ことばの癖)だから、それがついつい出た、と言えるかもしれないが、「対感覚」のあることばを用意することで、「対詩」の動きを誘い出そうとしている。そういう「もくろみ」が準備された詩である、と私は感じた。即興ではなく、あらかじめ推敲し、完成させた詩だと思った。
「駒沢通りDenny’sⅠ」の始まりの谷川の詩も、「用意してきた詩」だろう。ここにも「対感覚」があふれている。
ランチタイムのざわめきの中に
もつれている意味と無意味
はるか遠くにたたずむ山々に向かって
幼児がむずかっている
「意味と無意味」という「対」に対して、「幼児」が「対」になっている。「意味と無意味」というようなことを「幼児」は考えない。つまり、そこに「切断」がある。「切断」が「対」の絶対的条件である。その「切断」をうながすものに「山々」がある。(ついでに書いておけば「エリオット」では「海(岸)」が「切断」をうながしている。)「意味と無意味」が「意識」であるのに対して「山々」は「自然」。そして「山々」が自然なら「幼児」も「自然」だろう。「幼児」と谷川は書いているが「あかんぼう」のことだろう。明確な「意味と無意味」を言うことができず、そういうものが「肉体」のなかで区別されずに動いている「あかんぼう」。「意味と無意味」が「未生」の状態を指している。
ここでは「意味と無意味」たに対して「未生の意味と無意味」が「対」になっている。こんなにすっきり(?)とした「対」なのは、この詩が瞬間的につくられたからではなく、始まる前に「用意された」詩だからだろう。
こういう「対感覚」の強い詩が、長い「対詩」の展開のなかでも出てくる。
デッドエンドなんて嘘だと思った小学3年のころ
地獄だって天国だってあるじゃないか
時間も空間もエンドレス
子どもの宇宙は大人の宇宙よりもはるかに巨大だった
「デッドエンド」と「エンドレス」という「対」。「小学3年」の思いと「大人」の思い。最終行の感想は「小学3年」のときには思えない。「大人」になってはじめて抱ける思いである。
天文学の本の隣に家計簿が立っている
シングルマザーで生きるのを選んで3年になる
明日の予定はスマホに入っているが
未来の予定は空白のまま
「天文学(遠い巨大な世界)」と「家計簿(身近な世界)」という「対」が「明日の予定(身近)」「未来の予定(遠い)」と「対」になっている。
シングルマザー(女性)が出てくるが、これはいつもの谷川の自己を他者に託す方法である。谷川は身近な存在ではなく、遠い存在、女性とか、子どもに自己を託すのが得意である。離れているから「対」になりやすい。「対感覚」を動かしやすいのだろう。
そんなことを思いながら読んでいくと、133ページで、突然違った感じ、とても不思議な「眩暈」のようなものに襲われる。
「対詩」は、こう展開する。
おしまいにはたったひとつの光に
からだごとめりこませて
左胸にひとつずつ
わたしたち太陽を波打たせて
百年の孤独といちじくリキュールのカクテルは
ポエタと名づけよう
太陽のピザ 月の丼 星屑のパスタ
新しいライブハウスは生誕の興奮に沸いている
後の方の詩には「対」がある。「カクテル(飲み物)」と「ピザ、丼、パスタ(食べ物)」、「百年(時間)」き「太陽、月、星(宇宙/空間)」、「孤独(ひとり)」と「ライブハウス(複数)」。
これも「手が込んでいる」から「用意されてきた詩」っぽい。でも、谷川の詩かなあ。谷川の詩とは違った響きがあるなあ、と思った。
そうしたら。
「解説」を読んでわかったことなのだが、長い「対詩」は一気につくられたものではなく、複数の回にわけて書かれている。途中で「中継(休憩)」がある。「一日」ではなく、複数の日にちにわかれていることもあるのかも。つまり「中断(休憩)」あいだに、ひとりで詩を考える時間もあるということになる。
だから、「再開」するとき、ふいに「用意されてきた詩」があらわれることになる。その「用意されてきた詩」というのは、全体の中ではすこし「リズム」が違う。
まったく新しいシリーズでは、「発句」のようなものなので、その「新しさ」は気にならないが、途中だと、なんとなく「あれっ」と思う。
そして、いま引いた例では、「おしまいは」は覚の作品(一回のつながりの終わり)であり、「百年の孤独」もまた覚の作品なのである。そのために、「飛躍」というか「切断」の感覚が、いつもとはなんとなく違う。「対」の感じもなんとなく違う。
本で読むと、谷川と覚の詩は活字が「青」と「黒」に色分けされているし、末尾に「俊」「覚」という文字がそえられているのだが、私は目が悪くて、この色の違いは「印刷の濃淡」くらいにしか感じられないし、「俊」「覚」という区別もいちいち意識するのがめんどうくさくて読みとばす。だから、よけいにつまずくのだと思う。
直前に「中断(休憩)」があったのかなかったのか、「解説」ではわからなかったが、次の詩も印象に残った。
隣家の松の木に落雷したとき
恐怖だけではないココロとカラダも昂(たかぶ)りがあった
音楽のフォルテッシモではない
ピアニッシモでもない自然の音の限りないひろがり
「落雷」という自然現象と「音楽」という芸術の「対」が、「音楽」のなかで「フォルテッシモ」「ピアニッシモ」という「対」を呼び寄せ、その「対(ふたつのもの)」のあいだに「無限」を生み出す。それは「ココロ」と「カラダ」という「未分節の対」のなかに「昂り」を生み出す。
谷川の詩には「意味」の「対」があり、その「対」をあらわすことばが、ことば同士で響きあう音楽(和音)になる魅力がある。
*
谷川の詩(ことば)と覚の詩(ことば)には似たものがある。共通の「音楽」があると感じるけれど、そのひとつひとつを交互に読んで、そのとき感じたことを書こうとすると、なぜか谷川の詩についての感想が多くなった。
あ、私は覚の詩よりも谷川の詩が好きなんだなあ、とあらためて思った。
ふたりは似ているけれど、違う、ということを実感できた。
この詩集は、ふたりが聴衆の前でライブで詩をつくり、読むという形で生まれている。私はそれを本で読んで感想を書いた。
実際にライブで朗読を聞いたならば、また違った感想になるかもしれない。
本で読むと(特に目の悪い私には)、ふたりのことばをいちいち区別して読むのがめんどうで、ふたりを意識せず、ただそこにある「ことば(活字)」として向き合ってしまう。活字によって展開される「ひとつづきのことばの運動」(一篇の詩)として読んでしまう。
このとき、私は何かを読み落としていると思う。そのことを、書き添えておきたい。
というのも……。
この感想を書き始めたとき、谷川俊太郎とねじめ正一の「詩のボクシング」について書いた。「テレビ」と「ラジオ」の作品について書いた。あの「対戦」をテレビで見たとき、私は谷川俊太郎が「ずるい」と思った。これは、ねじめに会ったとき、そういった。こんなふうに。
「あんなふうに意味にしてしまうと、意味の方が絶対に勝つ。ひとは意味にならないものよりも意味の方を理解しやすい。あれでは現代詩のボクシングにならない。あの勝負、おかしくないですか。ずーっとねじめが勝っていたのに、最後に意味のまとまりをことばにできずにねじめが負け、意味を語った谷川が勝つというのは、現代詩にとってとても変なことじゃないですか。あんな勝ち逃げはずるくないですか?」
本(活字)ではなく、ライブで「声(消えていくもの)」と向き合っていれば、違った感想になるかもしれない。覚の詩の方がおもしろい。新しい、と感じるかもしれない。ライブでは好きな時間に、好きなリズムでことばに接するということができないので、そのときの私の体調なども影響するだろう。直前に何を食べたかまで、きっと影響する。
そんなことも思うのだった。
対詩 2馬力 | |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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