詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(139)

2018-11-24 09:59:04 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
139  悲しみ

 老人と赤ん坊を対比させている。

昼寝から帰ってくるたび
世界が新しく見えるのは なぜだろう
眠りの中で自分が老いたぶんだけ
世界が若くなった と思いたいのか
ほんとうは そのぶん世界は老い
自分も 確実に老いている
そのことを 曇らされず知っているから
目覚めた赤子は 激しく泣くのだ

 「意味」はわかる。けれど、「悲しみ」はだれのものを指して言っているのか。老人(高橋)の悲しみか、赤子の悲しみか。高橋は赤子になって悲しんでいるのか。
 ことばは、不思議だ。
 「悲しみ」は高橋にも赤子にもあり、それは「悲しみ」と呼ばれるがそれぞれ別なものである。けれど「悲しむ」という動詞で考えると、「ひとつ」のものに見えてしまう。悲しみにはいろいろ種類があるかもしれないが、悲しむという動詞はひとつ。
 自分が老いたことを知らず、若くなったと思うのは「悲しい」ことである。自分が老いたと知ることも「悲しい」ことである。どちらの「悲しみ」であれ、ひとは「悲しむ」という動詞を生きる。
 これは、奇妙なことだ。
 動詞が「ひとつ」だから、高橋は老人でありながら、同時に赤子も生きてしまう。

 この詩では、もうひとつ「思う」と「知る」の違いにも目を向けなければならない。
 「世界が若くなった と思いたい」の「思う」は、「知る」を超えている。「知っている」けれど、それを知らないことにして「思う」。「こころ」は、どこかわがままなところがある。
 赤子はまだ「思う」ことができない。「知っている」けれど、それを否定してこころを動かすということを知らない。
 そう考えると、さて、「悲しい/悲しむ」はどうなるのだろうか。どういう「姿」をとるだろうか。
 こういうことは考えなくてもいいのかもしれない。知らなくてもいいのかもしれない。わからないまま、放り出しておけばいいのかもしれない。



つい昨日のこと 私のギリシア
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(138)

2018-11-23 10:26:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
138  蝉の夏 田原に

 中国では、脱皮する前の蝉を食べる--という話を高橋は田原から聞いたらしい。そこからこんな具合にことばを動かしている。

土から出て幹を登る蝉を採り 袋に入れる
母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ
五十歳の君の中には いまも何百匹何千匹が
脱皮前の異形で 上へ 下へ 這いまわっている
君の中の無数の沈黙を脱皮させ 飛び立たせてやれ
存分に鳴かせてやれ それが彼らと君の夏の完成

 「無数の沈黙」と「存分に鳴く」が対比される。その瞬間に夏がなまなましく動き始める。ことばでしかとらえることができない世界が出現する。この「ことばの構図」は完結していて強烈だが、また予定調和の「論理」という感じもする。
 しかし、私にはなんとなくうるさく感じられる。
 私は、そういう「論理」よりも、

母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ

 この一行の「音立てて」が好きだ。蝉が煎られる音なのだが、まるで蝉の鳴き声そのものに聞こえる。
 食べられる前に、蝉はもう存分に鳴いている。それこそ「無数の沈黙」を鳴いている。「脱皮させる」のではなく、「異形のままの無数の沈黙」の「鳴き声」の方がはるかに強烈だ。
 脱皮させてはいけない。
 そういう「論理的な夢」は高橋にまかせておいて、田原には「鉄鍋の音」そのものを書いてもらいたい。
 閻連科は『年月日』でトウモロコシを通して音の神話を描いたが、田原には蝉を主役にもうひとつの神話を書いてもらいたい、と思った。






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高橋睦郎『つい昨日のこと』(137)

2018-11-22 09:33:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
137  鬼能風に

 誰の死を描いているのか。「能」を手がかりにすれば能役者か。愛煙家。死因は肺がんかもしれない。
 後半部が生き生きしている。「批判」というか、あきれ返っている。批判を含むから生き生きしているといえるし、批判は嫉妬から生まれるから生き生きしているのかもしれない。

しかも 根っからの頑健を信じて 疑いもしなかった
それというのも いつでも勃起する それだけの理由で
なんたる妄信 世には疲れ勃ちということもあるのだよ
ついでにいえば 臨終の一物は 染色体を後に残そうと
死神に抗って むなしく勃ちつづける というではないか

 「それというのも」というのは死んだ能役者のことばではなく、引用している高橋が言いなおしたことばだと思う。頑健を自慢するひとは「それというのも」という理由をみちびくことばなど必要としない。「おれは頑健だ。いつだって勃起する」と直接事実を語る。頑健「即」勃起。「即」はことばを必要としない。だからこそ「即」である。これを「それというのも」と言いなおすと、「事実」ではなく「論理」になる。「論理」だから批判に変わる、妬みに変わる、とも言える。
 未練がましく「ついでにいえば」という論理の追加(補強)がある。補強など必要としないのが「事実」というものなのに。
 高橋は、こうつづけている。

今のきみが纏っているのは 死出三途の川霧か タバコの煙か
(カロン カロン あれは渡し守の 疾く帰れの警告の鈴音)
慌ててきみが沈む河水さえ ニコチンの脂で吐気がしそうだ

 「吐気がする」というのは、追悼のことばとはいえないだろう。ふつうはこんなふうなことばをつかわない。しかし、そういうことばでもつかわないと、高橋は「きみ」を死の国に追いやることができない。
 愛が憎しみを生む。ここにも嫉妬が隠れている。そのために、ことばに不思議な強さがある。






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高橋睦郎『つい昨日のこと』(136)

2018-11-21 09:49:18 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
136  無際限の墓

 「意味」が強い。「意味」ではなく、その「強さ」の方を感じ取ればいいのかもしれない。

死んだ彼は焼かれて遺灰になり 海に撒かれた
地球を覆う海ぜんたいが 彼の墓になった
太陽の熱が海水を吸いあげれば 天空も墓
吸いあげた水が雨と降れば 野も山も墓
彼は宇宙になった 否 宇宙が彼になった

 最終行の「否」が「強さ」を強調している。この「否」はなくても「意味」はつうじる。つまり、言い換えると、この「否」は「即」である。

彼即宇宙 宇宙即彼

 この「彼即宇宙」から「宇宙即彼」の「言い換え」の瞬間、「否」が入り込んでいる。強烈な接続を「否」ということばで切断する。切断することで、そこには決して切ることのできない「接続」があることを示す。
 ここからさらに、こんなふうに「誤読」を重ねてみる。

彼即死 死即彼

 「彼」と「死」の関係は、こう言い換えることができる。そして、そう言い換えた瞬間「死即生/生即死」ということばがやってくる。「宇宙」が「墓/死」と呼ぶとき、「宇宙」はまた「生」そのものとして「彼」を高橋の眼前に呼び出す。
 だから、詩を書かずにはいられない。
 「彼」が誰を指すのか私は知らないが、高橋にとって重要な人だったのだ。「名前」を言う必要がないくらい、高橋の「肉体/いのち」そのものに組み込まれた人だったのだ。







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高橋睦郎『つい昨日のこと』(135)

2018-11-20 00:19:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
135  雪崩 那須スキー場献花台前にて

きみたち十七歳の七人 引率の若い先達を入れてつごう八人を
突然の雪の塊が襲い 呑みこんだ 誰もが予想しなかったこと

 と、事故のことを書いている。その「誰もが予想しなかった」を、高橋は、こう展開する。

おそらく 雪塊だってそう きみたちの匂い立つ若さを見て
急に惜しくなったのだ 数年のうちにむくつけき大人に
ついには無残な老人にしてしまうのが なんとも忍びなくて
そこで思わず知らず 走り寄り 覆いかぶさってしまったのだ

 雪、雪崩に「意志」を与えている。しかし、それは高橋の「意志」である。「思い」である。
 自然は非情、情けなど持っていない。意志なんかも持っていない。だからこそ美しい。人間の情けも意志も無視して動いているから、私たちは、人間そのものになる。その瞬間に、美しさが響きあう。
 自然に「意志」や「情」を与えてはいけない。自分の考え(欲望)を代弁させてはいけない。
 「思わず知らず」ということばがあるが、「何も思わず、何も知らず」を貫かないと自然とは言えない。

 詩は「人情」を描くものかもしれないが、「人情」が「論理」として動き始めると、窮屈で味気ない。

いずれにしても きみたちはとこしえに浄らかな十七歳

 この最終行は「論理的結論」ではある。しかし、それは「とこしえに浄らかな」ものというよりも、淫らとしか言いようがないものだ。








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高橋睦郎『つい昨日のこと』(134)

2018-11-19 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
134  怠惰

北にも 南にも 微笑の影で牙を剥く国国
東には つねに虎視眈々と侵入の機を伺う大国
海上はるか西には まさに勃らんとする僣主たち
その緊張の中で アテナイの詩は磨かれ 輝いた
とすれば 今日の私たちの怠惰は 謗られて当然
四方をひしひし 怖ろしい敵に囲まれながら
自己満足か仲間向けの非詩を 濫作するのみ
<・blockquote>
 古代アジアと現代日本を対比しながら、現代の日本の詩を批判している。「論理」が動いている詩である。「とすれば」ということばが「論理」を際立たせている。
 アテナイの「詩」に、現代日本の「非詩」が対比されている。「詩」とは書かずに「非詩」とわざわざ否定している。これも「強調」である。
 こういう「論理の強調」(観念の強調)は、味気ない。
 論理や観念を読みたくて詩を読むわけではない。むしろ、論理にならないもの、観念に抽象化されないもの、「具体的」なままの存在に触れたくて詩を読む。







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高橋睦郎『つい昨日のこと』(133)

2018-11-18 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
133  花冠

どんな理屈を捏ねようと 白昼の群集の中でのきみの自爆は美しくない
きみに何の縁もゆかりもない無辜の人びとの笑顔を巻き込んだからには
きみの匂い立つ盛りの若さを犠牲にしたとしても 涼しい木蔭は約束されまい

 「涼しい木蔭」はコーランが約束する「天国」の描写のひとつだから、ここに書かれている「自爆テロリスト」はイスラム教徒ということになるだろう。
 書かれている「意味」はわかるが、私はこういう「倫理」を詩や小説で読むことは好きではない。
 もっとわけのわからないものに触れてみたい。自爆テロリストを擁護するわけではないのだが、「文学」なのだから、「あ、そんなことをしたら自爆テロが失敗する。もっときちんと準備しなくちゃ」というような感じで、テロリストのことを心配してみたりしたい。テロリストになってみたい、と思う。

 一方、

地獄に送るにふさわしい黒い花冠だって 無ければなるまいからだ

 「地獄」「黒い花冠」か。この組み合わせは、とても美しい。「地獄」が「黒い花冠」によって、美しいものに変わる。
 うーん。
 もしかすると、高橋は、自爆テロリストを「倫理的/論理的」には批判しているけれど、どこかでそれとは違った視点で見ていないか。私は何かを見落としていないか。そういうことを考えてしまう。

 こういうことは突き詰めずに、「保留」したままにしておく。その方がいいだろうと思う。いつか詩を読み返すときのために。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(132)

2018-11-17 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
132  独裁者は

 「独裁者」が誰のことを指しているのか、私にはわからない。
 独裁者は、
 
夜半の誰もいない執務室で ひとり呟いている
誰か俺を殺してくれ 殺してらくにしてくれ と
しかし 呟きを聞いてしまった不寝の番は殺される
毎夜毎夜 一人ずつ殺される 両耳ずつ塩漬けにされる

 「耳」が切断され「塩漬け」にされるというのは、不気味で、強い。さすがに「独裁者」はやることが違うと感動してしまう。
 でも、

塩漬けされた耳たちは眠らない 眠らない耳たちに囲まれて
独裁者は不眠 何千日 何十年も 苛苛と不眠つづき
終わることのない不眠の中で 死への渇望はますます募る

 こう「論理的」に転換してしまうと、「結末」が「推理」できてしまう。
と書きながら、突然、三島のことを思ったりする。三島の華麗な文章は、とても「論理的」ではないだろうか。華麗さを「論理」で押さえている。記憶の中にある三島の印象で書いているので、どこがどういう具合にとは言えないのだが。「論理的」だから「人工的」という感じにもなる。
そして、この「論理的/人工的」という部分で、高橋と三島は重なり合うかもしれないなあと思ったりする。「野蛮」がない。「暴力」がない。







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高橋睦郎『つい昨日のこと』(131)

2018-11-16 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
131  一人が立つには

彼が殺したのは生みの父ではなく 年の離れた兄
場所は 人気のない曠野の三又みちではなく
国際都市の 旅行客でごった返す空港ロビー
それも みずから刃ものを握って ではなく
行きずりの女に持たせた毒薬を噴射させて

 これは北朝鮮の指導者を描いている。「時事詩」と言えるかもしれない。しかし、もしギリシア悲劇作家が現代も生きているとすれば、このできごとも劇にしただろう。いまさら「人気のない曠野の三又みち」はない。やはり、「国際都市の 旅行客でごった返す空港ロビー」の方が劇に向いている。古代ギリシアが「空港ロビー」を舞台にしなかったのは、当時、空港ロビーがなかったからにすぎない。
 そう思って読むと、これはもう完全に「ギリシア悲劇」である。

一人が立つには 他の何人もが倒されなければならぬ

 「ならぬ」の断定が「強い」。この「強さ」は集団(国家)が引き起こすのではなく、個人が噴出させる「強さ」である。

場所はまっぴるまの雑沓でなければ 早朝の暗がり
手段は何でもよい 結果が確実でさえあれば

 「確実」。これこそがギリシアの神髄だろう。
 「集中力」が、あらゆる「確実」を生み出す。

 ふと、ギリシア悲劇のカタルシスを思う。「犯罪」を肯定することはできないが。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(130)

2018-11-15 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
130  愚者ばんざい

愚者ばんざい
愚者の王が選ばれた
国民は愚者の国民になった
国家は愚者の国家になった
愚者の時代は少なくとも四年
国民がさらに望めば八年

 「四年」「八年」を手がかりに読めば、これはアメリカ合衆国とトランプ大統領のことを書いているのだろう。
 しかし、

愚者は何でもし放題
しかも何の責任もなし
これほど楽しいことはない
愚者の国は毎日がお祭り
ひたすら滅亡へ歌え踊れ
愚者ばんざい愚者の国ばんざい

 この部分を読むと、日本の姿を語っているとも読むことができる。
 だれも責任をとらない国。第二次世界大戦で、ドイツはヒトラーを裁いた。しかし日本は天皇の責任を追及しなかった。ここから始まった無責任体制は、いま、安倍の元でさらに拡大している。安倍は責任をとらない。かわりに公務員が自殺に追い込まれる。

 もう、日本は滅んでしまっている。
 私は「ばんざい」ということばで皮肉りたくはない。
 「云々」も読めない安倍は、「ばんざい」を風刺とは受け取ることができないだろう。「称賛」と受け取るだろうから。












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高橋睦郎『つい昨日のこと』(129)

2018-11-14 12:43:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
129  叔父に

 二十歳で戦死した叔父のことを書いている。

詩を愛したあなたは 一篇の詩も残さなかったが
あなたの二十歳の死こそが 書かれた詩以上の詩

 「詩」が何度も繰り返されている。この繰り返しを読みながら、私は、つまずく。ことば(文法)として奇妙なところがあるわけではないが、つまずく。

書かれた詩以上の詩

 この部分の、最初の「詩」に。
 「書かれた以上の詩」と、どう違うか。なぜ、書かれた「詩」と、高橋は書くのか。明確にするために、強調するために。
 そう「理解」することは簡単である。
 だが、私は、やっぱりびっくりする。
 「詩(書かれた詩)」というのは、高橋にとっては、とても重要なのだ。「書かれた詩」と書かないと、高橋のことばは動かなかったのだ。「詩」への思いが非常に強い。その「強さ」に触れて、私はつまずく。
 このあと、詩は、こう展開する。

あなたの死が真正の詩だ と信じるためにも
あなたの駆り出された戦争が 過誤だったとは
思いたくない むしろ過誤ゆえにこそ真正だったのか
過誤でない戦争 過誤でない死など どこにもない
これは古代ギリシアでも 現代日本でも同じく真実/

 この「論理」のポイントは「過誤」をどう評価するか(哲学として引き受けるか)といことにある。「過誤」のなかには「過誤」でしかつかみとれない「真実」がある、ということは、私も信じる。けれど、それを「他人の死」と結びつけることには、私は、抵抗がある。
 「死」は、それぞれが個人で引き受けるしかない。
 「他人の死」は、どうあがいても引き受けられない。「他人」になりかわって「死ぬ」ということはできない。この「事実」は「過誤」ではない。絶対に「過誤」ではないことが、この世にはある。それを「レトリック」で隠してはいけない。
 こういう感想は、詩に対する感想とは言えないかもしれないが、そうであっても私は書いておきたい。「事実」を隠すために詩を書いてはいけない。
 戦争による死は、殺人だ。国家による殺人を「詩」と呼んではいけない。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(128)

2018-11-13 08:02:08 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
128  夢の後に

夢の中の私は逃げる若者だったが 目覚めた私は疑いもなく老人
ほんとうは 疎まれても拒まれても追いつづけた老人こそが私

 夢はいつでも「意味」に変わる。象徴はいつでも「意味」に変わる、と言い換えてもいい。
 高橋は、こんなふうに「意味」にする。

追っかけられて逃げつづける若者はPoésieではなかったか

 「意味」はわかるが、高橋が詩人だけに、若者を詩にたとえるのは、いささかつまらない。「意味」になりすぎる。「詩」ではなく「Poésie」と書くところが、さらにつまらない。フランス語で書くことで「意味」を追加している。「意味」をうるさくしている。どこかに「意味」を裏切るもの、「意味」を破壊するものがないと、詩を読む楽しみがない。
 「比喩」は「意味」を引き連れているが、同時に「意味」を破壊し、知らなかったものを教えてくれるものであってほしい。

「物事を見抜く若き見者よ、次に語るのはあなただ……」
それは まかり間違っても 私に向けられた言葉ではない

 簡単に引き下がらずに、「若き見者(ランボー)」になってもらいたい。「老人」のあきらめに触れたくて詩を読むわけではない。少なくとも、私は。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(127)

2018-11-12 08:50:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
127  作法

 三島由紀夫を描いている。

かねてギリシア党を標榜するあなたにして
あの自裁は すこしもギリシア的とは思えない

 否定で始まり、否定で終わる。

腹をかっさばいたのち 首を断ち落とさせるとは
よろず潔さを旨とする蛮風の風上にすら置けない

 しかし、ほんとうに否定しているのか。
 途中の行は、こうである。

あなたの時代錯誤の血なまぐさい作法は
ギリシア人も ローマ人も 目を覆うだろう蛮風

 ここには「否定」の「ない」がない。「蛮風」には「批判」のニュアンスはあるかもしれないが、「ない」ということばが直接でてこないので、それは「批判」というよりも「ドラマチック」に見える。「劇」に見える。
 何かが、身動きがとれずに、破裂した。
 一種の「カタルシス」がある。

それも公の義のためでなく 私の美のために

 「美」が出てくる。「美」は「カタルシス」のひとつだ。何かが壊れ、それを凌駕する形で何かがあらわれる。「綺麗は汚い 汚いは綺麗」(シェイクスピア)が成り立つ瞬間。
 「蛮風」が「目を覆うだろう蛮風」と「よろず潔さを旨とする蛮風」に二種類の意味をもっていることにも、この詩を読むときは、気をつけなければならない。「蛮風は汚い(目を覆うしかない) 蛮風は綺麗(目を見開いて見てしまう)」「公の義は綺麗 公は汚いを義で隠す 私は野蛮を隠さない 私の蛮風は綺麗」と、ことばを動かして読み直すと、高橋が三島をどれだけ愛していたかがわかる。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(126)

2018-11-11 09:37:01 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
126  醜よみがえる

 「綺麗は汚い 汚いは綺麗--W・シェイクスピア」ということばが「前書き」のようについている。シェイクスピアのことばからギリシアを見直している。

美しさを求めつづけるあまりに 醜さを追放したのは ギリシアの行き過ぎ
追われた醜さは怨霊となり 物怪となり 古家の暗がりや地下の闇に潜んだ
気も遠くなる永い時を経て彼らは蘇った 蘇ったのみか美しさを追放しはじめた
いまでは自分たちこそ真の美しさ これまで美しさを名告ったのは化粧した醜さと
強弁してはばらない 対する昔ながらの美しさは いまや青ざめて力がない

 「論理的」な「意味」の詩である。しかし、この詩のどこにギリシアがあるのか。否定されているだけなのか。
 四行目の「真の美しさ」の「真」がギリシアだ。「真」を求めてしまう、「真」に集中してしまうのがギリシアだ。シェイクスピアも「真」を追い続けるとき、ギリシアになる。
 高橋も、「美しさ」と「醜さ」の関係を追い掛け、その果てに「真」にたどりつく。
 しかし、「真」といっても、それは永遠に「真」であるかどうかはわからない。
 いま、ここで「真の美しさ」と呼ばれている「醜さ」も「化粧」したものの姿かもしれない。
 高橋は「真」に対して「化ける(化かす)/装う」を対比させているが、この「化ける(化かす)」というのは「運動(動詞)」である。「真」も「真を求める」という「運動(動詞)」である。
 「真」であるかどうかは、そのときどきによって変わる。しかし、そこに「運動(動詞)」があるということだけは変わらない。
 この「動く/変わる」ときの「エネルギー」の集中力がギリシアだと私は思っている。高橋が考えていることとは違うかもしれないが。

 「強弁する」も「動詞」、「青ざめる」も「動詞」。どこに集中していくかは別にして、集中していけば、そこに「何か」があらわれる。
 シェイクスピアも「綺麗は汚い 汚いは綺麗」とことばを往復させている。動き回るときだけ、存在するものがある。「変わる瞬間」に、突然、あらわれる「見えない」ものが「ある」。
 「真の」ということばをつかうしかなかった、その瞬間に、この詩には「言語化」されていないものが動いている。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(125)

2018-11-10 08:06:59 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
125  ジャコメティの歩く人

 ジャコメティとギリシアは関係があるのだろうか。ジャコメティはギリシアから学んだのだろうか。

考えたあげく 表情も筋肉も殺ぎに殺ぎ 歩く人の線だけになり
ついには動きの気配だけになるだろう それが二千六百年前の
古拙と呼ばれる最初の笑み 最初の踏み出しの含んでいたもの

 「動きの気配」の「気配」を「精神」と読み直してみたい。ギリシアの彫刻には「気配」というよりも「精神」を感じる。「集中力」と言ってもいい。
 ジャコメティの彫刻はどうか。私はあまりジャコメティの彫刻を知らない。だから、いいかげんなことを書くしかないのだが、「殺ぎに殺ぎ」の果てに残るのは、やはり「精神」ではないのか。もちろん「肉体」とは違って、そんなものは「ない」と言うこともできるだろう。しかし、「肉体」をつらぬく「何か」、完全に「殺ぐ」寸前に「残っている」と感じられる(錯覚することができる)ものがあるとすれば「精神」と呼んでもいいような気がする。
 「考えたあげく(花冠が得る)」は、その出発点である。「考える」という動詞が最後まで動き、その動きが残る。
 一方、「気配」は、どうか。私は「肉体」の内部にあるものとは思わない。「肉体」の外にあるのが「気配」、「肉体」からはみ出して動いているのが「気配」と感じる。「気配」を追い掛けて「肉体」が動く。
 「精神」が内部から「肉体」を動かすのに対し、「気配」は「肉体」を外から誘っている。

 高橋は、違う、と言うだろう。
 それは、しかし、仕方のないことだ。
 書いた人と、読んだ人が「ことば」のなかで必ず一致しなければならないということもないだろう。

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