詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(180)(未刊・補遺05)

2014-09-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(180)(未刊・補遺05)2014年09月17日(水曜日)

 「混乱」という作品は、私にはよくわからない。詩のためのメモのようにも思える。

わが魂は真夜中になると
混乱し麻痺する。その上、
   魂の生命は生命の外側で生きさせられる。

 三行目は「魂の生命は(肉体の)生命の外側で生きさせられる。」という意味だろうか。「魂の生命」と「肉体の生命」とが対比させられている。「生きさせられる」と書いているのはどうしてだろう。「肉体」は「魂」を拒んでいるのか。「魂」が「肉体」から離れて自由に生きようともがいていることを逆説的に書いているのだろうか。

そしておそらく来ないだろう暁を待つ。
待ち、駄目になり、退屈の余り死にそうになって、ようやく
   私の生命の中に取りこまれ、生命とともにあるようになる。

 「私の生命」と「私の(肉体の)生命」だろうか。「私」は「肉体」であり、「魂」は「私」ではないのかもしれない。いや、そんなことはない。一行目「わが魂」と書いている。「私」と「わ」という、ふたつの「主語」がこの詩では動いている。「魂の生命」と「魂ではないものの生命」が。

 どう読み進めていけばいいだろうか。

 二行目の「混乱し」「麻痺する」ということばを手がかりにすれば、「魂」ではない「生命」は混乱したり麻痺したりしないことになる。「魂」はまた、待つことが苦手であり、退屈すると死にそうになる。「魂」ではない「生命」は退屈したり、麻痺したりしないということか。
 わかりにくい「二元論」である。
 わかりにくいのは、もしかするとカヴァフィスが「二元論」を信じていないからかもしれない。
 あるいは、この「魂」は「魂」ではないものを、「魂」があこがれているものの方へつれていきたいのかもしれない。けれど、「魂」ではないものの方が頑固で(?)粘り強く(?)、「魂」が屈するのを見届けている。
 「魂」は、敗北しながら「魂」ではないもの(肉体)の内部を生きるしかなくなる。内部で生きることを拒まれ、外側で生きることを強制されていたのに、その外側で自由に生きるのではなく、外の「周辺」をうろうろしながら生きるように求められている--そういう「矛盾」したことが書かれているのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(179)(未刊・補遺04)

2014-09-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(179)(未刊・補遺04)

 「永遠」は古代インドの叙事詩「バガヴァッド・ギーター」に題材をとっていると中井久夫は注釈に書いている。

インドのアルジュナは、人々の側に立つ優しい王、
殺戮を憎む王だった。一度も戦争を仕掛けなかった。
そこで、恐ろしい戦争神はご機嫌斜め。
(神の栄光は目減りし、神殿には人が寄らなくなった。)

 一行目と二行目は「事実」の描写になるのだろうか。そのあとの展開がおもしろい。「そこで、恐ろしい戦争神はご機嫌斜め。」はやはり「事実」の描写なのかもしれないが、「主観」を「ご機嫌斜め」という具合に「俗語」で語るのが愉快だ。「神」がとても人間臭くなる。「そこで」というつなぎことばもおもしろい。理由を受けるのだから、「それで」(戦争を仕掛けなかったので)ということばが自然なのだろうが、「それで」では「心情(心理)」になりすぎるかもしれない。「心理」をあたかも「事実」のように、外から描写しているのが、また「神話的」な感じで、さっぱりしている。
 四行目の「目減り」ということばもリアルな感じがする。経済活動、取り引きという感じだ。神と人間は「信仰」というより「取り引き」なのか。生々しく、俗っぽく、人間っぽい。神が神ではなく人間と対等になっている。
 だから、つづく五行目。

怒りにあふれて神はアルジュナの宮殿に足を踏み入れた。

 この「怒り」ということばがいきいきしてくる。まるで人間の反応である。そして、人間そっくりに、宮殿に「足を踏み入れた」。天から下りてくるというよりも、地上を歩いて、門を開ける、ドアを開ける感じがする。

王はおののいて神に言上。「大神さま、
お許し下さい。私には一人のいのちも奪えませぬ」
神は叱りつけた。「おまえはわしよりも正しいと思いおるのか。言葉に迷わされるな。
いのちなど奪わぬ。生まれた者がそもそもなく、
死ぬ者も全然おらぬ。わかったか」。

 「言葉に迷わされるな」とは「間違うな」という意味だろう。「迷って、違った言葉をいうな」。なぜなら、ことば(世界のあり方)は神がつくるものであって、人間が判断することではないということなのだろう。
 人間は何もしない。するのは神である。人間にすることがあるとすれば、神を理解すること。最後の「わかったか」は、その念押しだ。
 神の「主観」がいきいきと描写されている。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(178)(未刊・補遺03)

2014-09-15 08:35:45 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(178)(未刊・補遺03)2014年09月15日(月曜日)

 「長所」はユリアノスの秘書だったヒメリオスのことばを踏まえてアテネ人の長所を書いている。二連構成の詩だが、詩の行頭が二行目だけ飛び出るような形。引用は、行頭をそろえた。

どの土地にもその特産がある。
馬と騎手はテッサリアにかなわず、
いくさの時はスパルタ人がすぐれる。
ペルシャはその

立派なご馳走が有名。
頭髪となるとケルト。髭はアッシリア人じゃ。
だがアテネのすぐれた標徴は
その言語と人である。

 カヴァフィスは史実を題材にした詩をたくさん書いている。この詩も、「テッセリア人」と「アテネ」については、ヒメリオスの「論理」(意味)とまったくかわらない。意味が同じなのに、なぜ、カヴァフィスは、そういうことを書くのだろう。
 はっきりとはわからないが、同じ「論理/意味」を書いているということから、ふたつのことが推測できる。
 ひとつは、その「論理/意味」に同意している。だから、そのまま書く。別につけくわえることはない。
 もうひとつは「論理/意味」はどうでもいいと思っている。反対意見があるわけではないが、その「論理」を絶対的に正しいとも信じていない。同じことをことばのリズム、音の響きをかえていうとどうなるのか、それを確かめたい。
 カヴァフィスは、たぶん後者だ。
 別の言い方、別の音で、「論理」はどんな具合に「肉体的」(主観的)になるか。「意味」ではなく、そのことばを語っている人そのものになるか。ことばは「意味」ではなく、その「人」なのである。「人」を感じさせないことばはことばではない。
 アテネのすぐれたものは「言語と人」と一セットで語られるのは、そういうことを意味していると思う。ソクラテスを想像するといいかもしれない。ソクラテスの「ことば」はソクラテスといっしょに動く。「哲学」は「意味」だけで動いているように見えるかもしれないが、「意味」により「人間」そのものが動いている。「ことば」を通して「意味」以上に「人間」が見えてしまう。
 カヴァフィスは「人間」が見える詩を書きたいとここでは静かに語っているのかもしれない。中井久夫は詩人の意図を口語、「頭髪となるとケルト。髭はアッシリア人じゃ。」の「……となると」「……じゃ」という口調で伝えている。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)

2014-09-14 09:41:39 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)2014年09月14日(日曜日)

 「雨」は長い作品である。途中から女がでてきて、誘われるように子ども、老人も登場するのだが、人間が出てくる前の部分が美しい。

小さな中庭。
やせた木が二本。
そこに水は
田園風景のパロディをつくる--。
水はふるえる枝にしたたり、
枝は地肌を露わにし、
水は根にしみとおる、
樹液の涸れかけた根に。
水は葉にながれ
雫が糸とつらなる。

 「田園風景のパロディをつくる--。」は中庭を小さな田園風景に変えるということなのかもしれない。「パロディ」のことばが、「田園」そのものを否定しているようで、何かちぐはぐな印象を与える。(ちぐはぐなものを私は感じてしまう。)
 けれど、この「パロディ」という観念性が強いことばを取り除くと、雨と自然の交流は美しい。リッツオスの刈り込まれた描写を思い出すし、俳句も思い出してしまう。
 「いま/ここ」にあるものが、あるがままに共存して生きている。
 この美しい書き出しをさらに際立たせているのが「やせた木が二本」の「二」という数字だろうと思う。「二本」あることで、そこに「対話」がはじまる。
 水は雨になって、上から下へと動いていく。一方、実際に下までたどりついてしまうと、雨はさらに地中にまではいりこむ。そしてこの水は地中までしみ込んでしまうと、こんどは根に吸い上げられ、木の導管をとおって枝のすみずみにまでひろがる。そういう対話が自然に動いている。動きが対話になっている。
 この「二」が最後で「一」に変化していくところもおもしろい。「対話」が自分一人の思考に変わっていく感じ、思考を深めていく、感覚を研ぎ澄ましていくという感じに似ている。

窓の表面のあちこちに
雫が流れ
ほそい流れがひろがって
上るかに見えてたれ下がり行き、
一つ一つがしみとなり、
一つ一つが曇りをつくる。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(176)(未刊・補遺01)

2014-09-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(176)(未刊・補遺01)2014年09月13日(土曜日)

 「恐怖」は1894年に書かれている。カヴァフィスが三十一歳のとき。詩の形は行頭がそろっていない。引用では揃えて引用する。

主キリストさま。夜中の
私のこころを 魂を 護ってくださいまし。
名も知らぬ怪物と物の怪が
まわりを徘徊しはじめ、
その血の通わない足が私の部屋に忍び入って
私の寝台をまわり、私を覗き込むのです。
私を凝視するのです。私に見覚えがあるかのようです。
私を震え上がらせるように声を出さずに大笑いするのです。

 この一連目では最後の行がおもしろい。「声を出さずに大笑いする」顔だけを「見ている」。その前の「覗き込む」「凝視」「見覚え」という「視覚」の連続。視覚が過敏になっている。視覚が聴覚を封じたのか。
 この視覚は、後半では、逆に動いている。

濃い暗闇の中には私をじっと見つめている眼が
いくつもございます。わかります。……
神さま、あいつらの眼から私の身を隠してくださいまし。

 目は目を呼び寄せる。--これを読むと、敏感な視力のせいで、聴覚がまひしていることがわかる。
 もし、声が聞こえたら、怖くはないか。そんなことはないだろうが、聞こえた方が自然なものが聞こえないと、その不自然さが恐怖をあおる。不気味な声で大笑いして、「私」を震え上がらせるよりも、聞こえない方が怖い。ひとは想像してしまうからである。聞こえないのに、その「声」を聞いてしまうのだ。
 「声」は後半で「耳」という形であらわれる。

あいつらが叫んでも話しかけても、そのいまわしい言葉が
耳にはいってきませんようになさってくださいませ。
魂の中まではいってきませんように。

 眼に(視覚に)過剰反応している、聴覚も突き動かされているのだが、「耳」が登場しない方が私は怖いと思うが、カヴァフィスはどうしても「声」と「耳」を書きたかったのかもしれない。聴覚、口語嗜好のカヴァフィスが、少し顔を出しているのかもしれない、この最後の部分は。「声」は魂のなかまで入って来る強いものだ、「声」が魂を動かすのだというカヴァフィスの嗜好が。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(175)(未刊22)

2014-09-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(175)(未刊22)   

 「アンチオキアの郊外にて」も史実を題材に書いている。ヴァヴィラスとユリアノスの対立を描いている。アポロとキリスト教の対立が根底にある。アポロの神殿の上にキリスト教徒が教会を建て、ヴァヴィラスの遺体を埋葬したことがユリアノスの気に障ったのだ。ユリアノスは神殿を清めようとした。

しかし神殿はきれいにならなかった
即刻、凄い火事が起こった。
恐ろしい火だった。
神殿もアポロンも燃えて地に落ちた。

 ここまでが「史実」になる。そのあとがカヴァフィスの「コメント」になる。

ユリアノスは頭に来た。
火を付けたのはわしらキリスト教徒だと言いふらした。
他に何が出来る? 言わせておけ。
証拠なんかない。言わせておけ。
大事なのは、彼が頭に来たことなんだ。

 この最後の行がおもしろい。カヴァフィス以外には書けないおもしろさだと思う。「大事」ということばのつかい方がすばらしい。(これは中井久夫の訳であって、原文は「大事」ではないかもしれないのだが……。)
 「大事」とは何か。
 この「大事」は、その前に書かれている「証拠」と向き合っている。
 「証拠がない」、つまり、キリスト教徒が火を付けたということは「ほんとう」(真実)かどうかわからない。その「ほんとう/真実」と向き合っている。何が事件の「ほんとう」なのか、わからない。
 けれど、わかることがある。
 ユリアノスが頭に来たこと、つまり怒っていること。--それは「ほんとう」のことである。「真実」である。「大事」は「真実」である。
 そして、この「真実」は「怒っていること」、つまり「感情」。つまり「主観」。
 カヴァフィスは「主観(ほんとうに思っていること、感じていること)」が「大事」と言っている。「客観」(誰が火を付けたか)ということは「大事」ではない。それは「感情の真実」ではない。「客観的真実/事実」よりもユリアノスの「主観的事実」が「大事」と言っている。この「大事」のつかい方は「主観」をこそ書きたいというカヴァフィスの姿勢を象徴している。
 「未刊詩篇」の二十二篇のなかでは、この作品がいちばんおもしろい。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(174)(未刊21)

2014-09-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(174)(未刊21)   2014年09月12日(金曜日)

 「肩の包帯」はけがをした男を見ている詩。男色の詩。棚に手を伸ばして、みたい写真をとろうとしたとき包帯がほどけて一筋の血が見えた。

ものはもとに戻した。
だが包帯はわざとゆっくり直した。痛がらなかったし、
血を眺めるのが好きだから。
私の愛するあの血--。

 三行目の「血を眺めのが好きだから」の「主語」は誰だろう。日本語は主語を省略できるので、二通りの読み方ができる。男が、血を眺めるのが好き。私が、血を眺めるのが好き。
 写真を本棚に戻した、包帯をなおした、痛がらなかったの主語は男だから、血が好きというときの主語は男かもしれない。けれど、私は、「私(カヴァフィス)」と思って読みたい。
 男はカヴァフィスが血が好きなことを知っている。だから、わざとゆっくりと包帯を直す。見つめられていることを意識しながら直す。血は、美形に似合う。男であろうと女であろうと、美形の肉体に血が一筋流れるとき、その傷によって美形が完璧になる。美形に深い影を与え、美形を内部から発光させる感じである。その効果ゆえに、カヴァフィスは血を愛している。
 カヴァフィスが血を眺めることが好きなら、男は、そんなふうに眺められることが好きなのだろう。ナルシストなのだろう。

去った後、座っていた椅子の前に
落ちていた血のにじんだ布。
服の一部だった。屑籠直行のボロだったが
私は唇に持って行って
ずっとそのままでいた、
愛の血を唇に押しあてて--。

 これも、男はカヴァフィスがそうすることを知っていて、わざと血のついた布を落としていったのだろう。
 しかし、ここまで書いてしまうと、詩はしつこくなる。カヴァフィス特有のドラマの激しさが消えて、奇妙にねっとりしている。血という劇的なものを登場させながら、血の美しさを感じさせない。血への嗜好を読者に押しつけてくるような感じだ。
 こういう詩を読むと、全集に収録しなかったのは、それなりの理由があるようにも思える。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(173)(未刊19)

2014-09-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(173)(未刊19)   2014年09月10日(水曜日)

 「シメオン」については中井久夫の注釈がある。シメオンはアンチオキア東方の荒地の柱上苦行者。だが、この詩はシメオンのことを書いているというよりも、別のことを書いている。

そう、あいつの新作の詩は知ってる。
ベイルート中騒いでるな。
そうのち読むよ、じっくりと。
今日は駄目だ。気が動転してるから。

 書き出しの「あいつ」はだれかはわからない。詩人であることはわかる。その詩が評判になっている。もしかするとシメオンについて書いているのかもしれない。けれどカヴァフィスはその詩を読む気になれない。なぜか。

メヴィスよ、わしはなあ、
(偶然だったよ)シメオンの円柱の下にいたんだぜ、昨日。

 そして、感動したのだ。「心は乱れて何も考えられなかった」というくらいに。つづけて書いている。

笑うなよ。考えてもみろ。三十五年ぞ。
三十五年間、夜も昼も、夏も冬もだ。
円柱の上に座って苦行だぜ。
きみも私も生まれておらん(私は二十九歳。
きみは私より若いよね)。
生まれる前からだぜ、想像できるか。

 カヴァフィスは、彼が「生まれる前から」存在し、いまもなお、その形を守っているものを大切にしている。それは何か。ギリシャ語である、と私は思う。苦行するシメオンよりも、その苦行(?)は長い。シメオンに触れて、その苦行(困難)を思い起こしたということだろう。
 これは別なことばで言いなおせば、カヴァフィスが詩を評価するときは、そのギリシャ語の響きによってのみである、ということになる。

ギリシャ語はむろんリバニウスよりもうまいさ。

 二連目に出てくる、この「ギリシャ語」ということばがカヴァフィスの立場を語っている。シメオンにならってギリシャ語の上で苦行している、と主張している。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(172)(未刊18)

2014-09-09 09:18:09 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(172)(未刊18)   

 「半時間」は偶然出合った男に詩ごころを刺戟されたときのことを書いている。「私はあそこのベッドに泊った」と同じように、ことばの調子が間延びしていて、いい詩とはいえないかもしれない。

あなたが私のものになってくれたことはなかった。
これからもないでしょう、多分。

 この書き出しが、特に間延びを感じさせる。過去の「事実」を書き、それから「未来」を推測している。「いま」が「過去」と「未来」との引き延ばされ、「いま」の充実がない。空漠とした感じである。愛というのはいつでも「一瞬」の充実が輝かしい。その「一瞬」が引き延ばされたのでは、おもしろいはずがない。

二言三言、僅かに近づき、そう、昨日のバーでのように。それだけです。
悲しいけれど、あきらめています。

 つづく二行も、とても間延びしている。「それだけです。」という念押しに「いま」をつかっている。そこで「いま」を消費してしまって、消費したのは自分のせいなのに「悲しいけれど、あきらめています。」と言われても、未練を感じるだけである。
 ひいき目に受け取れば、カヴァフィスは、ここでは「未練」の「声」を書いているともいえる。「未練」というのは、こんな具合に「声」になるのだ、と言っているのかもしれない。

でもミューズに仕える私めは、時にはこころの力だけで、
身体の悦びにごく近いものを創れることもあるのです。

 ここでは「未練」を説明している。「こころの力」(後半で「こころの力」を「想像力」と呼んでいる)で何かをつくること。つくってしまうこと。「身体の悦び」さえもつくってしまう。もちろん、それはカヴァフィスだけのものであって、相手の「身体の悦び」とは関係がない。自分のことだけを考えるのが「未練」というものなのだ。

いくら想像力があるといっても、
いくらアルコールの魔法があるといっても、
あなたの唇を目にしなければ--、
あなたの身体が傍になくては--。

 「いくら……があるといっても、……がなければ、(……できない)」。最後の「……できない」ということばを強要する「論理」。「論理」で説得するのは、もう愛ではない。だから、この詩はおもしろくない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)

2014-09-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)   

 「私はあそこのベッドに泊った」は、

あの快楽の館に行ったが
表の部屋は通り過ぎた。

 とはじまる。タイトルの「あそこ」、一行目の「あの」は、ともに具体的には書かれない。「あそこ」「あの」と言うとき、カヴァフィスは「あそこ」「あの」がわかるひとに向けてことばを発している。そして、読者には、その「特定」の「あそこ」「あの」がわかる人と、カヴァフィスは「あそこ」「あの」を共有していることがわかる。つまり、ここには「秘密」があることがわかる。「秘密」の共有。

私は奥の部屋にずいと入って
そこのベッドにねた。泊まった。

 具体的な描写はない。「部屋に入って、ベッドにねた。」ではなく「そこの」ベッドと指示しているのも「秘密」の共有である。「そこ」と指示することで、感覚を共有したいのだ。ベッドを思い出すときの感覚を。

口に出来ない、けがらわしいと世間がいう部屋、
そういう秘密の部屋に入っても
私はけがれぬ。汚れるというようでは
詩人、芸術家の資格はあるまい。

 この四行は、「意味」が強すぎる。
 「口に出来ない」「けがらわしい」と繰り返しているところがしつこいし、「けがらわしい」ものに触れて「けがれる」ようでは詩人ではないという「論理」もありきたりである。それが事実であったとしても、迫ってくるものが弱い。「論理」的すぎるのだろう。詩は「論理」を突き破って動くものであって、説明してわかってもらうものではない。
 この四行に比べると、「私は奥の部屋にずいと入って/そこのベッドにねた。泊まった。」の方がはるかに力に満ちている。簡潔で、何も説明していない。「ねた」と言えば、説明しなくても「肉体」は「ねる」を思い出す。「眠る」ではなく「ねる」というとき、人は何をするか、その何かが「秘密」とはどういうことか、そういうことがすぐにわかる。たとえ「秘密」を共有しないない人間にも。このとき「だれと」は関係がない。
 カヴァフィスは「秘密」を共有している人に向けて「あそこ」「あの」「そこ」と支持詞をつかって表現するのだが、そんなふうに隠して、具体的に言わない方が、「秘密」を共有していない人に「秘密」があるということを知らせる。
 「論理」を否定した方が、「論理」がなまなましく伝わるのだ。「論理」があるということがわかるのだ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(169)(未刊16)

2014-09-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(169)(未刊16)   

 「亡命者たち」の注釈に中井久夫は「アラブによる占領後のさびれたアレクサンドラ。時代は、ミハイル三世の、共同皇帝パシリス(東ローマ帝国マケドニア朝の建設者)による暗殺後ほどない頃である」と書いている。

まだこれでもアレクサンドリアだ。
直線道路を終点の競馬場までちょっと歩こう。
ほら見えてきた、宮殿や記念碑が。まだ立派なもんだ。
戦火をこうむっても、
昔より小さくなったといっても、
素敵な街さ。

 注釈がないと「まだこれでも」の意味がわからないが、こういう突然のはじまりはカヴァフィスの特徴である。わからなくてもいい、わかるひとに向けてだけ書いている、というのがカヴァフィスのスタイルだ。
 それはこの「まだこれでも」が口語でもあるということだ。
 話し相手がいる。相手に話している。当然、ふたりは共通の「過去」を持っている。同じ時代を生きている。言わなくてもわかることがある。「まだこれでも」は、同じことがわかっているからこそ言えることばである。
 「ほら見えてきた、」も、場(街)への馴染みを感じさせる。「知っている」という感覚があふれている。「知っている」を共有するのがカヴァフィスの詩である。
 「立派なもんだ」「街さ」という語尾から口語とわかるものもあるが、「まだこれでも」のように、これといった特徴のない言い回しも、やはり口語であることに注意して読むとカヴァフィスの「呼吸」のようなものがわかる。
 「亡命者」は何をするか。

教会問題を論じることもある。
(ここの連中はどうもローマよりだな)
ときには文学も。
ノンノスの詩を読む日もある。
素敵なイマジャリー、リズム、言い回し、調和。

 「意味」ではなく、イマジャリー(イメジャリー)、リズムや言い回し、その調和を読む。これはカヴァフィスの本質と重なる。カヴァフィスはことばのリズムや言い回しによって、詩を演劇の一シーンのようにしている。リズムや言い回しによって、その話者の「過去」(肉体)を再現している。リズムや言い回しを工夫することで、登場人物の説明を省略している。
 その際「調和」を忘れないようにしている--そうつけくわえる必要がある。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(170)(未刊17)

2014-09-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)   2014年09月07日(月曜日)

 「テオフィロス・トレオロゴス」は史実を書いている。中井久夫の注釈によれば、「最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス十二世パレオロゴスの一族であり、文法家、人文学者、数学者であった。一四五三年の最後のコンスタンティノポリス攻囲戦の折りはシリヴリア門を守り、最終段階では皇帝の側で勇敢に戦って倒れた。」

最後の年であった。最後のギリシャ皇帝であった。
ああ、皇帝側近の悲しい会話。
テオフィロス・トレオロゴス卿は
望み果て悲傷に堪えずして叫ばれた。
「余は生よりも死を選ばん」

 舞台の一場面を見るよう。ことばがひきしまっている。「余は生よりも死を選ばん」という文語体の響きが音をひきしめているが、なにより効果的なのが二行目の「ああ、皇帝側近の悲しい会話。」である。どんな会話か書いていない。ただ「悲しい」というそっけない形容詞がつけられている。この省略法はカヴァフィスの詩に多くみられるものだが、この詩ではほんとうに効果的だ。省略することで、テオフィロス・トレオロゴスの最後の叫びだけが「肉声」として響きわたる。「文語体」の声なのに、「口語」としてはっきり声が聞こえる。
 トレオロゴス「卿」なのだから、庶民とは違って日常的にそういう話し方をしていたのかもしれないが、その「口語」は、単に声だけではなく、その立ち姿まで感じさせる。つまり、とても「肉体的」である。
 だが、二連目はどうか。

テああ、オフィロス・トレオロゴス卿。
わが民族の多数の受難。切ない願い。
ああ、夥しい疲労--。
不正と迫害に力尽きた民族を
おんみの悲劇の十文字が要約する。

 形容詞が多すぎる。いや、名詞そのものが多いのか。ひきしまった感じがしない。
 たぶん一連目が芝居で言えば主役が動いているのに対して、二連目では主役が動いていないからである。「コーラス」が主役のいなくなった舞台で主役を描写している。主役が不在である。そのことが全体をあいまいにしている。
 コーラスは、みんなが知っている「共通体験」をことばにするのだが、そこに主役がいないときは、「観念」ではなく、違う何かが必要なのかもしれない。具体的な「もの/こと」を描写する。その描写の中から「観念」に抽象化される前の何かが動きださないことには芝居にならないのかもしれない。
 一連めだけで終わった方が詩としてはよかったかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(168)(未刊15)

2014-09-06 08:15:29 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(168)(未刊15)   2014年09月05日(土曜日)

 「ギリシャより帰郷する」にはギリシャ人ではない人々の「声」が書かれている。カヴァフィスにはほんとうに色々なひとの声が聞こえたのだ。

ヘルミッポスよ、もう近い。
船長も言ってた、まあ明後日だ。
すでに故郷の海よ。
わしらの国々の水域。キプロス、シリア、エジプト。
馴染みの水よ、愛する海よ、だ。

 「わしらの国々の水域」は、どこからはじまっているのだろう。岸が見えるときか。そうではない。「すでに」というのは故郷が近づいてきた、というより、もっと昔のことをさしているように思える。ギリシャを出港したとき、そのときから「すでに故郷の海」なのだろう。「故郷の海」をわたって「故郷」へ帰る。
 「馴染みの水」とはそれを知り尽くしているという意味だが、それはいつも夢で通い慣れている海だからだろう。「愛する海」も、こころのなかで愛しつづけてきた海のことである。

馴染みの水よ、愛する海よ、だ。

 この行の最後の「、だ。」は、「馴染みの水よ、愛する海よ」ということばが、何度も何度も繰り返されてきたことを語っている。ほら、いつも言っていた「馴染みの水よ、愛する海よ、--それだよ。」の「それだよ」ということばの短縮形が「、だ。」なのだ。念押しの「だ」。「だ」の直前の読点「、」が念押しを強調している。
 そこには共有された時間と行動がある。長い間、夢みつづけてきたのだ。この帰郷を。この海を渡ることを。
 この「長い時間」と、後半の、「外見を繕う」王様たちの次の部分の「時間」が交錯する。

ペルシャのお国ぶりが隠せないじゃないか。
隠そうとしてバカ殿どもが
使うその時間の長さ!

 王がそうなら、(バカ殿とあざわらってはいるが……)、市民もまた「これみよがしのギリシャふう」を装い生きていただろう。そのために「長い時間」をつかってきただろう。外見を取り繕ったその「長い時間」の内部で、その長さと同じだけ「帰郷」を夢みた。故郷の海を夢みた。そうやって夢みてきた海--それだ! そう叫ぶときの「、だ。」がこの詩に、口語そのままに書かれている。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(167)(未刊14)

2014-09-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(167)(未刊14)   

 「だから」は男色の詩。

このエロ写真が街頭で売っていたぞ、
こっそりと(警察の眼を盗んでな)。
本番の写真じゃないか。
なのにどうして夢のように美しい顔が登場するのか。
きみがなぜこの写真の中に入っているのか。

 ふいに知ってしまった恋人の現実。それをとがめているのだが、「口調」がそれほど厳しい感じがしない。

きみのこころはいかにも安ぴか。ほかに考えようはない。
だが、とまれこうまれ、いやこれ以下でも、
私のきみは夢の美のかんばせ、
ギリシャ的快楽のために造られ、捧げられた姿。
私にとってのきみは永遠にそうだよ。
私の詩がきみを歌うのもそれだからだよ。

 カヴァフィスは「きみ」のすべてを許してしまっている。
 「私のきみは」の「私の」ということばが強い。所有形というよりも、「私」が「きみ」になってしまっている。美しいのは「きみのかんばせ」だが、それはカヴァフィスが「美しい」というから「美しい」のである。一連目で「顔」と言っていたが、この2連目では「かんばせ」にかわっている。カヴァフィスは現実の「顔」を見ているのではなく、「文学」(古典/古語)のなかで見てきた「かんばせ」を見ている。だからこそ、「きみの」の前に「私の」がつく。「私のかんばせ」なのである。
 それはいま書いたことと重複するが、「ギリシャ的」である。「伝統的」「古典的」でもをる。「文学」のために造られた「かんばせ」なのだ。「文学/古典」であるから、それは「永遠」でもある。
 「きみ」は何よりも「ことば(文学)」の中にいる。
 だから、(と、ここでタイトルが出て来る)、だから、私の詩がきみをうたうのだが、カヴァフィスはこれを倒置法をつかって、

私の詩がきみを歌うのもそれだからだよ。

 という。「だから」ということばの方を強調している。
 そして、「きみのかんばせ」が「私の」ものであるように、「私の詩のきみ」こそ、「きみのもの」だよ、とカヴァフィスは言うのである。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(166)(未刊13)

2014-09-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(166)(未刊13)   2014年09月03日(水曜日)

 「後は冥府で亡霊に語ろう」はソフォクレス『アイアコス』にある、アイアコス自殺前の最後のことば--と中井久夫は注釈に書いている。それを読んだ奉行は「まったくな」と感心して、ことばをつづける。

この世で心に鍵を掛け、不寝番みたいに
来る日も来る日も守ってきた秘密や心の傷を
あの世じゃ自由に打ち明け話せるわな」

 感心して、こころがゆるんだ感じが「まったくな」とか「話せるわな」という口語の響きのなかに広がる。そのなかで、思わず自分にも「心に鍵を掛け、不寝番みたいに/来る日も来る日も守ってきた秘密や心の傷」もあるという「告白」のようなものを語ってしまう。
 これに対して、ソフィストがからかう。

「お忘れじゃありませんか」とソフィストは言って、うっそり笑った。
「亡霊が冥府でそんなことを語るとしてもですな、
連中がまだそういうことに悩んでいたらの話ですぜ」

 ここでも「ですな」「ですぜ」という口語がいきいきと動いている。「口語」によって、「肉体」が奉行に近づいてく。いや、奉行の「肉体」のなかへ入り込み、その内部を攪乱する。
 ソフィストの語り口は、何か新しいことを言うのではない。「論理」を動かして見せるだけである。一種の「詭弁」である。奉行が思わず「告白」してしまう正直さをもっているのに対し、ソフィストは自分というものを語らない。ただ、動かして見せる。
 「亡霊」が生きていたときと同じことに悩んでいるというのは、死後、あり得るのか。死んでしまったら、生きていたときのことなど忘れてしまうのではないのか。
 ここには何か不思議な、皮肉の笑いがある。不思議な笑い--と書いてしまうのは、この笑いが「奉行」に対するものだけではなく、なぜか、ソフィストの論理そのものを笑っているように感じられるからである。ソフィストはそんなことを信じて言っているのではなく、ただ論理を弄んでそう言っている。ソフィストなんて、そういうものなのだと笑っている。
 この笑いはカヴァフィスにはとても珍しい。


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