詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(89)

2019-08-18 08:34:38 | 嵯峨信之/動詞
* (激流にさからつて)

 詩の前半は、激流のなかの大岩を書いている。

ぼくがはじめて手形の跡をつけたのはその死の大岩である

 という一行のあと、詩は転換する。

微塵に砕け散つたぼくの魂しいが
暗夜
星のように水面に煌めいている

 その転換の真ん中に、「死」がある。「死」を中心にして、激流、岩、死、砕け散る、煌めくという動きがある。再生だ。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(88)

2019-08-15 11:29:15 | 嵯峨信之/動詞
* (かれは描いた)

風のゆくえ 水の姿 愛の終わりを
ぼくは遠望した

 詩はつづいているのだが、ここで断ち切ってみる。
 「風のゆくえ 水の姿 愛の終わりを」ということばを挟んで「かれと「ぼく」が向き合う。向き合うという形で「ひとつ」になる。いや、このときの「向き合う」は正確な表現ではない。並んで「ひとつ」の方向を見る。「方向」が「ひとつ」なのだ。
 「ひとつ」であることを確認した上で、ことばは、言いなおされる。

炎と影とがもつれあつて真昼の野をゆくのを

 「ゆくえ」は「ゆく」という動詞でかさなり「ひとつ」になっている。「ひとつ」は「もつれあう」という動詞でも繰り返されている。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(87)

2019-08-14 15:19:28 | 嵯峨信之/動詞
* (きみが愛するということを教えてくれた)

そのときから言葉を虫が食いはじめた

 不思議な詩だ。
 ことばが以前のような姿ではなくなった。それは「きみが愛するということを教えてくれた」から。きみを愛しはじめたから。
 嵯峨自身に向けられていたことばが、嵯峨以外の人間ヘも向きはじめた。
 内向と外向。

どこを歩いても
道はきみのところへ向う
歩行そのものにも虫がついたらしい






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(86)

2019-08-13 09:30:15 | 嵯峨信之/動詞
* (渚をねむらせようと)

砂丘を閉じる
静かな夜も思いだせない小さな港がある

 この詩も「主語」をそのまま読むことがむずかしい。あるいは「動詞」をそのまま読もうとするとつまずいてしまう。私には逆のイメージが強すぎて、嵯峨のことばについていけない。だから読み替えてしまう。

砂丘ねむらせようと
渚を閉じる

 渚と砂丘を比較すると、渚の方が動いている。音を立てている。音は眠りをさまたげる。砂丘を眠らせるためには、渚は動きを止めないといけない。私の持っているイメージでは、そうなる。けれど嵯峨は逆に書いている。
 「砂丘を閉じる」とはどういうことなのか。ことばとしては、言えるが、具体的な姿にはならない。「えっ」とうい驚きが私の肉体を突き破る。
 
静かな夜も思いだせない小さな港がある

 この一行もことばは理解できるが、具体的に思い浮かべようとするとつまずく。「思いだせない」のに「小さな港」を思っている。「ある」という思いが強すぎて、ほかの細部(?)じわからなくなるのか。
 何か過剰なものがあり、それが存在を越えて動く。ことばが一瞬破壊される。その瞬間に詩が噴出する。それを別のことばで定着させようとすると、何もかもが消えてしまう。詩は、そういうものかもしれない。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(85)

2019-08-12 10:37:43 | 嵯峨信之/動詞
* (石を疑う)

動かぬものに何の意味があるのか

 私は、「石は疑う」と「主語」を変えて読む。つまり、「自問」として、嵯峨の思考として。
 石は対象ではなく、「比喩」としての「自己」である。
 だから、最後にこう書かれる。

いや 石は沈黙に疲労したのだ

 もし石が「他者」(自己でないなら)、文末は「疲労したのだろう」と推量になる。自己であるからこそ「疲労した」と断定できる。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(84)

2019-08-11 12:43:25 | 嵯峨信之/動詞
* (夜は雨になつた)

若い日は蓼のように匂う
待つということは少しの時も過ぎさることがない

 「蓼(たで)」は田舎ではよく見る草である。私は匂いを意識したことがない。嵯峨は匂いを嗅いだことがあるのだろう。どんな匂いか、私は言うことができないのだが、「若い日」を「匂う」という動詞でとらえているのがおもしろい。これは「匂いを発する」というくらいの意味だろう。つまり、何もしなくても内部からあふれてくるものがあるのが「若さ」。
 そういうものを肉体に抱え込みながら「待つ」。その「待つ」を「時が過ぎさることがない」と別の角度からとらえなおす。「時」は「蓼の匂い」のようにあふれていかないのか。そうではなくて、あふれてもあふれてもなおかつなくなることがない。
 なくならないもの(過ぎさることがないもの)が「ある」と書いている。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(83)

2019-08-10 09:17:12 | 嵯峨信之/動詞
* (少し足が痺れることがある)

きいたことのない音が聞えるときが
一日のどこかにある

 それは「足が痺れる」ことと関係があるのだろうか。たぶんあるのだろう。「きいたことのない音」が肉体を刺戟する。
 しかし「きいたことのない音」というのは、どうして「音」とわかるのだろうか。もしかすると「聴覚(鼓膜)」ではなく肉体の他の部分を刺戟しているのに、それを聴覚だと錯覚しているのではないか。
 「きいたことのない音」を嵯峨は、こう言いなおす。

時が他の時と擦れ合うのであろうか

 これは「聴覚」では聞き取れない。「音」は「意識」(思考)がつくりだす「何か」である。名づけられないものである。「時」を「詩」と「誤読」してみるのも楽しい。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(82)

2019-08-09 14:17:47 | 嵯峨信之/動詞
* (沈黙ということがなければ)

どこでぼくは生きていられたろう

 とつづくこの詩は、こう閉じられる。

そこにある小屋で眠ろう
石ころが話しかけてくる小屋の中に

 石ころはどんなことばを話しかけてくるのか。「沈黙」が話しかけてくるのだ。
 私は小屋のなかを想像する。小屋に床はあるか。土が(大地が)むき出しか。たぶん床はない。石ころはそのまま大地(地面)につながっている。直接つながっている。この「直接」という感じが、石ころの「沈黙」と「ぼく」をつなぐ。
 「沈黙」ということばさえも存在しない直接性、その「こと」を、ことばから拒まれている「ぼく」が生きる。










*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(81)

2019-08-08 08:49:15 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくが小さな水溜りになると)

 「そこに自分の生を映すこともあろうか/風が吹けば顫え/夜がくれば瞼を閉じる」と美しくはじまる詩。覗き込みこむことは、覗き込まれること。その交錯する動きが魅力的だ。
 後半、ことばのリズムは転調する。

明日はかならずそこにだれかがくるだろう
時の空地にはいまだれの姿もなくひとすじの道だけがある

 「明日」は「時の空地」と言いなおされている。厳密には「明日」になるまでが「時の空地」かもしれないが、「かならず……するだろう」という期待は裏切られるためにある。「やっぱり……しなかった」は絶望であると同時に予感が的中してしまったと感じるような、妙な安心感がある。
 これは「ひとすじの道」に似ている。けっして消えない「真実」のようなものである。「敗北」の感覚が「抒情」をととのえ、支える。









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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(80)

2019-08-07 08:20:50 | 嵯峨信之/動詞
* (積みあげた籾殻の山をかきまわしても)

底からは何も出てこない

 詩を断片化し、一部だけを読むことは一種の暴力である。そう理解はしているが、私はあえてそういう暴力を生きる。何かに最初にであったときは、いつでも「断片」でしかない。どんな存在も「過去(時間)」を持っているが、それがどんな時間かわかるのは長いつきあいの結果である。そして、そういうつきあいの果ての「理解」もまた、どこかに暴力を含んでいる。「ととのえる」という別の野蛮を。
 籾殻がある。山になっている。脱穀したあと自然にできる。そこに(底に)何もないことはだれだってわかっている。わかっていても「かきまわす」。そのときひとは「かきまわす」という暴力を生きている。かきまわすことで自分自身のなかにある「ととのえる」力に抗っている。抗って、何が生まれるわけではない。ただ一瞬の解放を生きる。そういう「無意味」をしたくなるときがある。
 私の詩の読み方は、そういう「無意味」な生き方だ。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(79)

2019-08-06 10:48:31 | 嵯峨信之/動詞
* (小さな詩句は)

環のなかの一つの数珠玉がゆつくりとりはずされる

 何のために? これに先立つ行に、こう書いてある。「いつも夢のなかへ帰りたがる/ただ一つの大きな詩に集まろうと」。
 「とりはずされる」は数珠玉の「意思」ではない。「集まろうとする」ものは「意思」をもっている。だからここには意思をもっているものと、意思をもっていないものが動いていることになるのだが、どうしてそういうことが可能なのか。
 意思をもっているけれど、意思どおりには動けない。その悲しみを知って、だれかが意思をかなえてやるために手助けをする。たとえば「数珠玉」を「環」から「はずす」。
 「はずす」には解放するという意味もあるだろう。解放されたものは、自由に動く。そこにはかならず新しいものがある。それを詩と呼ぶことができる。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(78)

2019-08-05 09:07:12 | 嵯峨信之/動詞
無言経

* (記憶には)

泉がつながつている
数珠玉のように

 「記憶に」でも「記憶は」でもなく、記憶「には」。私は、ここでつまずく。
 「主語」は何だろう。
 次に来る「泉」だ。
 「記憶」は起点であり、動かない。動くのは「泉」だ。
 でも、嵯峨は「記憶」を強調したい。

そこを通りぬけてまつすぐに行くと
廃寺がある

瞬くと
全景が記憶の彼方へ消える

 そのとき「泉」はあるのか、ないのか。私は、ただ広がり続けている「水」を思い浮かべてしまうのだ。
 広がり続ける水の静謐。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(77)

2019-08-04 09:00:37 | 嵯峨信之/動詞
* (言語の国の住民たち)

雷雨に襲われて蜘蛛の子を散らすように逃げだした
そこは日ましに強い日照りの油地獄が待つているところとも知らずに

 人間は「知らずに」行動する。
 いや、「逃げる」ということは知っている。知っていることは「逃げる」ということだけだから、その「知っていること」をやる。
 そのために、複雑になる。
 何が? 
 人間というものが。つまり「ことば」が。

 こういうことを考えるとき「蜘蛛の子を散らす」「日照りの油地獄」という耳慣れたことばが侵入してくる。それは「知っている」ことばだからだ。ここにもことばの複雑さがある。知っていることばしかひとは動かせない。「わかっている」のはことばにならない何か、肉体を貫く「本能」のようなものなのに。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(76)

2019-08-03 14:01:12 | 嵯峨信之/動詞
* (いくたびとなく小さな死が横切つた)

ある名は忘れ ある名は覚えている

もはや日ごと夜ごとに自分からもはるかに遠ざかつている

 「ある名は忘れ」と書くとき、嵯峨は何を覚えているだろうか。「ある名は覚えている」と書くとき、覚えているのは「名」だけだろうか。「名」は明示されているが、明示されていないものが同時に存在する、あるいは存在した。
 しかし、それは「遠ざかつている」。
 この「……ている」が私にはとても複雑に感じられる。「遠ざかっていく」ではなく、「遠ざかりながら/そこに存在する(ある)」。
 これは何か。
 嵯峨は「小さな死」と呼んでいる。--と読んでみる。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(75)

2019-08-02 08:48:41 | 嵯峨信之/動詞
* (どこを歩いても脚もとから大地は時に盗まれる)

時のストレートな通過を
足ぶみしながら待つ

 「時のストレートな通過」は「時はストレートに通過する」と言いなおせるか。言いなおせないかもしれないが、私は、そう読み直す。
 時は通過するが、嵯峨は「足ぶみをする」。「足ぶみをする」は「待つ」と言いなおされている。あるいは「待つ」という動詞を先取りするように、「足ぶみをする」は動いているかもしれない。「待つ」という「時」を「足ぶみをする」ことで埋めていく。
 このとき「待つ」嵯峨自身の「時」はどんなふうに動いているか。「ストレート」に動いているのか。通過することができずに、積み重なるようにあふれてくる。それを押さえつけるように足で踏んづけている。何のために? 「時」が過ぎていかないように、か。
 嵯峨は、その「時」に「盗まれる」何を心配しているのだろう。あるいは、盗まれてしまった大地で、何をするつもりなのだろう。その答えがわかるまで、嵯峨は「足ぶみをしながら」答えを「待つ」という同義反復が、ここにある。






*

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