小網恵子『野のひかり』(水仁舎、2016年08月01日発行)
小網恵子『野のひかり』の作品は、どれも不思議な力がこもっている。「文体」に力がある。
「ぐるり」という作品。
子どもが小さい、木が大きい。そうすると、子どもの体が幹に隠れる一瞬がある。これは、ごくあたりまえの風景である。しかし、そのあとの
これは、どうか。「散っていく」(散る)という「動詞」が、書けそうで書けない。この「散っていく」(散る)は、このあと二連目で「幼い子(幼女)」「少女」「娘」へと「育っていく」。そのとき「散る」が「育つ」になるのだが、それは「育つ」とは何かを「散らす」こと、「失うこと」という感じで響いてくる。「散っていく」のなかに、「育つ」がふくむ「失う」がある。そういうことを感じさせる「強さ」である。
「ことばの肉体」が、その「肉体の奥」で、とおいことばと繋がっている、という強さである。
「すみれ」の場合は、どうか。
「川を描く」の「描く」に、私は何かどきりとするものを感じた。
「水」が流れると、それは「川」になる。「川」と「水」と「流れる」は、区別がつかない。区別できない。
そして、その「川」の前に書かれていることばは「水」と「溢れる」である。
瞬間的に、私は「川」は「比喩」であると感じた。いや「水」が「比喩」であると感じたというべきか。「川」「水」「流れる」が区別がないように、「水」と「涙」と「川」が、一瞬の内に入れ代わるのである。
「水が溢れそうになる」は四行目で「水は留まれない」と言い換えられている。「感情は留めることができない(留まれない)」は「感情は溢れそうになる」ということばとなって引き返してきて、そこから「涙が溢れそうになる」ということばに変わる。
この不思議なつながりが「描く」という、「涙」とは無縁のように思える「動詞」によって、何か、強い力で結びつく。
「水(涙)」が「溢れそうになる」。それを「溢れさせない」ために「川」を「描く」。「涙」を「川」のなかに、ととのえて、流してしまう。「川」にしてしまう。
そうすると、「比喩」のなかで、「涙/水」が、また何かに変わる。
「泡立つ」(騒ぐ)は、「涙」のもとである「感情」が「泡立つ/騒ぐ」のである。「飛沫をあげる」は「感情が飛び散る」であり、「水は留まれない」は「感情は留まれない」。それは「岩に(障害物に)ぶつかって」、それでも「流れてゆく」。動くことをやめない「感情」そのものになる。「感情」が「川」の大きさで、動いていく。「感情」を「川」のように、小網は見ている。「描き出そうとしている」。
「川」を「描く」のではなく、「感情」を「描く」のである。
二連目以降は、その「感情」が向き合っている「こと」が描かれる。「感情」を「悲しい」ということばを避けて、その「感情」とどう向き合ったかを小網は書いていることになる。
友人がホスピスに入るという手紙を受け取った。その「文面(文字)」は「整っている」。その「整った」感じに、「感情」が動いたのだ。友人は、自分自身の「感情」を整えている、整えようとしていると感じ、そう感じた小網自身の「感情」をそれで波動整えればいいのか。小網の「感情」をどうことばにしていいか、わからない。だから「川」を「描く」。小網自身の「感情」を整えるために。
「川」は「友人」への「返信」の「比喩」かもしれない。お見舞いとして「絵」を送るということかもしれない。
「色鉛筆」で描く(塗る)のは、その「感情」を「多く」伝えたいからだろう。
この二行は、涙が流れそうになるくらい美しい。
「きちんと」と「丁寧」が、何といえばいいのか、自分のことだけではなく、「友人」のことを思っている。自分の「感情」を伝えることに夢中なのではなく、友人がどう受け止めるか、そういうことを気にして「きちんと/丁寧」になっているのだ。それは先の友人の「整った」と正直に向き合っている。
「友人」が庭にすみれが咲くという話をしたのは、きっと友人が、そのすみれが好きだったからだろう。そして、そんなことを思いながら、その友人の好きなすみれを、川の岸辺に「描く」のである。
最終行の「紫色をいっぱいに使う」の「いっぱいに」が、とてもいい。この「いっぱい」は「きちんと/丁寧」と同じ意味である。
「いっぱい」ということばを辞書で引いても「きちんと」や「丁寧」という「意味」は出てこないかもしれない。「きちんと」「丁寧」を辞書で引いても「いっぱい」という「意味」は出てこないかもしれない。けれど、私たちは「丁寧」なことをするとき、そこに「気持ちがいっぱい」込められていることを知っている。「気持ちがきちんと」込められていることを知っている。
「いっぱい」と「きちんと/丁寧」は「ことばの肉体」のなかでつながっている。「整った/整える」とも繋がっている。そしてそれは、そのまま「友人」とも繋がる。
「整う」「きちんと」「丁寧」「いっぱい」と、ことばはそれぞれ違う。しかし、それを「相対化」して「違う」ととらえるのではなく、そういうことばが「一緒」になって動くとき、それは互いの「ことば」のなかを行き来して、まじりあい、いままで気づかなかった、ことばにならない何かをあらわす。「ことば」が「肉体」となって動き、その「肉体」がそのまま人間の「肉体」にも重なる。
小網のことばは、そういう「ことばの肉体」を思い出させてくれる。小網の詩は、そして、その「ことばの肉体」のなかで、とても静かに動いている。人間の「肉体」となって動いている。その動きは静かすぎて、なかなか、こう動いた、ということができない。私には、それを壊さずに取り出す繊細さが欠けていて、それを指摘できない。こんなふうに、ぼんやりした感想として書くことしかできないのだが……。
「豆畑」という「散文詩」も、とてもおもしろい。いつか、感想を書いてみたい詩である。「豆畑」だけではなく、最初の詩から最後の詩まで、詩集の全作品を感想をいつか書いてみたい--そういう詩集である。
小網恵子『野のひかり』の作品は、どれも不思議な力がこもっている。「文体」に力がある。
「ぐるり」という作品。
幼い子が嬉しそうに木の周りを走る
ぐるりくるり ぎこちない足の運び
すっぽりと黒い幹に隠れる一瞬がある
笑い声だけ あたりに散っていく
子どもが小さい、木が大きい。そうすると、子どもの体が幹に隠れる一瞬がある。これは、ごくあたりまえの風景である。しかし、そのあとの
笑い声だけ あたりに散っていく
これは、どうか。「散っていく」(散る)という「動詞」が、書けそうで書けない。この「散っていく」(散る)は、このあと二連目で「幼い子(幼女)」「少女」「娘」へと「育っていく」。そのとき「散る」が「育つ」になるのだが、それは「育つ」とは何かを「散らす」こと、「失うこと」という感じで響いてくる。「散っていく」のなかに、「育つ」がふくむ「失う」がある。そういうことを感じさせる「強さ」である。
「ことばの肉体」が、その「肉体の奥」で、とおいことばと繋がっている、という強さである。
「すみれ」の場合は、どうか。
水が溢れそうになるので
川を描く
泡立って 飛沫をあげる
水は留まれないから
岸の岩にぶつかって
流れていく
「川を描く」の「描く」に、私は何かどきりとするものを感じた。
「水」が流れると、それは「川」になる。「川」と「水」と「流れる」は、区別がつかない。区別できない。
そして、その「川」の前に書かれていることばは「水」と「溢れる」である。
瞬間的に、私は「川」は「比喩」であると感じた。いや「水」が「比喩」であると感じたというべきか。「川」「水」「流れる」が区別がないように、「水」と「涙」と「川」が、一瞬の内に入れ代わるのである。
「水が溢れそうになる」は四行目で「水は留まれない」と言い換えられている。「感情は留めることができない(留まれない)」は「感情は溢れそうになる」ということばとなって引き返してきて、そこから「涙が溢れそうになる」ということばに変わる。
この不思議なつながりが「描く」という、「涙」とは無縁のように思える「動詞」によって、何か、強い力で結びつく。
「水(涙)」が「溢れそうになる」。それを「溢れさせない」ために「川」を「描く」。「涙」を「川」のなかに、ととのえて、流してしまう。「川」にしてしまう。
そうすると、「比喩」のなかで、「涙/水」が、また何かに変わる。
「泡立つ」(騒ぐ)は、「涙」のもとである「感情」が「泡立つ/騒ぐ」のである。「飛沫をあげる」は「感情が飛び散る」であり、「水は留まれない」は「感情は留まれない」。それは「岩に(障害物に)ぶつかって」、それでも「流れてゆく」。動くことをやめない「感情」そのものになる。「感情」が「川」の大きさで、動いていく。「感情」を「川」のように、小網は見ている。「描き出そうとしている」。
「川」を「描く」のではなく、「感情」を「描く」のである。
二連目以降は、その「感情」が向き合っている「こと」が描かれる。「感情」を「悲しい」ということばを避けて、その「感情」とどう向き合ったかを小網は書いていることになる。
ホスピスに入るという友人の整った手紙を
くり返し読む
そうして川に色を塗る
うすい水色と澱んだ緑色を重ねて
色鉛筆で塗る
水がきちんと流れるように
丁寧に塗らねばならない
曲がりくねった川の緑色の澱には
魚の気配がある
色鉛筆を走らせて
岸辺にすみれの花を咲かせる
友人の庭に咲くと聞いたことがあった
紫色をいっぱいに使う
友人がホスピスに入るという手紙を受け取った。その「文面(文字)」は「整っている」。その「整った」感じに、「感情」が動いたのだ。友人は、自分自身の「感情」を整えている、整えようとしていると感じ、そう感じた小網自身の「感情」をそれで波動整えればいいのか。小網の「感情」をどうことばにしていいか、わからない。だから「川」を「描く」。小網自身の「感情」を整えるために。
「川」は「友人」への「返信」の「比喩」かもしれない。お見舞いとして「絵」を送るということかもしれない。
「色鉛筆」で描く(塗る)のは、その「感情」を「多く」伝えたいからだろう。
水がきちんと流れるように
丁寧に塗らねばならない
この二行は、涙が流れそうになるくらい美しい。
「きちんと」と「丁寧」が、何といえばいいのか、自分のことだけではなく、「友人」のことを思っている。自分の「感情」を伝えることに夢中なのではなく、友人がどう受け止めるか、そういうことを気にして「きちんと/丁寧」になっているのだ。それは先の友人の「整った」と正直に向き合っている。
「友人」が庭にすみれが咲くという話をしたのは、きっと友人が、そのすみれが好きだったからだろう。そして、そんなことを思いながら、その友人の好きなすみれを、川の岸辺に「描く」のである。
最終行の「紫色をいっぱいに使う」の「いっぱいに」が、とてもいい。この「いっぱい」は「きちんと/丁寧」と同じ意味である。
「いっぱい」ということばを辞書で引いても「きちんと」や「丁寧」という「意味」は出てこないかもしれない。「きちんと」「丁寧」を辞書で引いても「いっぱい」という「意味」は出てこないかもしれない。けれど、私たちは「丁寧」なことをするとき、そこに「気持ちがいっぱい」込められていることを知っている。「気持ちがきちんと」込められていることを知っている。
「いっぱい」と「きちんと/丁寧」は「ことばの肉体」のなかでつながっている。「整った/整える」とも繋がっている。そしてそれは、そのまま「友人」とも繋がる。
「整う」「きちんと」「丁寧」「いっぱい」と、ことばはそれぞれ違う。しかし、それを「相対化」して「違う」ととらえるのではなく、そういうことばが「一緒」になって動くとき、それは互いの「ことば」のなかを行き来して、まじりあい、いままで気づかなかった、ことばにならない何かをあらわす。「ことば」が「肉体」となって動き、その「肉体」がそのまま人間の「肉体」にも重なる。
小網のことばは、そういう「ことばの肉体」を思い出させてくれる。小網の詩は、そして、その「ことばの肉体」のなかで、とても静かに動いている。人間の「肉体」となって動いている。その動きは静かすぎて、なかなか、こう動いた、ということができない。私には、それを壊さずに取り出す繊細さが欠けていて、それを指摘できない。こんなふうに、ぼんやりした感想として書くことしかできないのだが……。
「豆畑」という「散文詩」も、とてもおもしろい。いつか、感想を書いてみたい詩である。「豆畑」だけではなく、最初の詩から最後の詩まで、詩集の全作品を感想をいつか書いてみたい--そういう詩集である。
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