川上明日夫『灰家』(思潮社、2016年05月31日発行)
川上明日夫『灰家』は、私にはとても読みづらいものがある。たとえば、「灰墓」。
リズムが、「肉体」になじまない。「文字数」が視覚の上でパターンをつくり、それがリズムになるかといえば、私には、リズムとは感じられない。
絵画の場合、線や色にリズムを感じるが、ことばの場合、リズムは「音」。目で見て、リズムを感じることが私にはできない。
声に出して確かめれば、長い行と短い行でリズムの変化があるのかもしれないが、黙読しかしない私には、「視覚」がリズムを聞こえなくさせてしまう。形がじゃまになって、リズムが「肉体」に伝わってこない。目と耳が重なり合わない。分裂してしまう。
ことばの分裂のなかに、詩がある。
たぶん、そう言うことなのだろうが、これは私が「頭」で考えたことであって、「肉体」が感じることではない。「頭」のいいひとには、こういう「頭」で考えたことが「論理」どおりに動いていく作品というのは「快感」なのだろうけれど、私は「快感」にたどりつけずに、めんどうくさいと感じてしまう。
もっと簡単に、ミーハーっぽく、「これ、かっこいい」と感じたい。ランボーの腹が減って石だって食らいつきたい、という詩は「意味」としてはむちゃくちゃだが、つまり「頭」で考えれば、そんなことしたって腹は膨れない。食べる前に、歯ががたがたになる。だが、そのむちゃくちゃなところに、ことばを発するときの「喜び」がある。ミーハーになれる。
川上の詩では、そういうことが、起きない。私の場合は。
「肩ひじ張って」「角」「つっ張らなくても」という「意味の繰り返し」のなかには「肉体」の動きが反芻されていて、それが「なんど」という「意味」にととのえられていく部分は、我慢して読めばリズムにならないことはないのだが、「哀しみ」「喜び」「怒り」という「抽象」が、何と言えばいいのか、べったりしていていやな感じなのである。
これも、リズムの抑制、あるいは抑制されたリズムと「頭」で整理すれば、「静かな快感」になるのかなあ。
でも、
この末尾の「さ」は、どう?
「口語」によるリズムの破壊、書きことばと口語の「分裂」と読めばいいのかもしれないが、うーん、昔むかしの(と言っても1970年代の)抒情詩の「技法」みたいで、いやだなあ、と私は感じる。
しかし、「灰売り」は、書き出しが楽しかった。
この作品でも、不思議な「行ぞろえ」が作品の、「視覚のリズム」をつくる力になっているのだが、
この二行は、「形」は「対」だが、べったりくっついている感じがしない。「意味」が離れている。飛躍している。どこかに、「意味」の連続があるのかもしれないけれど、前半に出てくる「身を粉にして/骨身をけずって」「魂/灰」、後半に出てくる「地上(天上ではない)/この世」、「生の芽/死の芽」のような「類似/類似」、「正/反」という「連絡」がない。逆に言うと「断絶」がある。この「断絶」がリズムをつくっている、ここにほんとうのリズムがある、と私は感じてしまう。
一行目の「灰はいらんかね」が繰り返され、それが詩のことばを凝縮させる。そこに詩がある。「ことばの分裂が詩である」、川上の詩はそういうものをめざしているのだろうと指摘したことと矛盾するようだが、ここにある「破壊による凝縮」は、俳句でいう「遠心/求心」のような関係だ。破壊があるから凝縮がある。それは一瞬のうちに起きる相反するエネルギーの活性化した状態なのだ。
で、もう一回「灰はいらんかね」と繰り返されたあと、最後の方、
ことばの順序が入れ替わる。この瞬間、「意味」ではなく、「肉体」がぱっと反応する。私の場合。いままで言っていたことばを逆にするだけなのだが、「肉体」が攪拌される感じになる。舌やのどや口のなかが、洗いなおされる感じ。
こういう「断絶」がもっとあれば、私にも読みやすく感じられるだろうなあ、と思った。
川上明日夫『灰家』は、私にはとても読みづらいものがある。たとえば、「灰墓」。
お墓だって減っていったんだ
肩ひじ張って生きてきたから
角がとれ
はじめて
きがつき
そんなにつっ張らなくてもと
そう なんどおもったことか
雨が降って
風が吹いて
刻がたって
さらされてあるものの哀しみ
命あるものの喜びや怒りがさ
くりかえされ
いつのまにか
リズムが、「肉体」になじまない。「文字数」が視覚の上でパターンをつくり、それがリズムになるかといえば、私には、リズムとは感じられない。
絵画の場合、線や色にリズムを感じるが、ことばの場合、リズムは「音」。目で見て、リズムを感じることが私にはできない。
声に出して確かめれば、長い行と短い行でリズムの変化があるのかもしれないが、黙読しかしない私には、「視覚」がリズムを聞こえなくさせてしまう。形がじゃまになって、リズムが「肉体」に伝わってこない。目と耳が重なり合わない。分裂してしまう。
ことばの分裂のなかに、詩がある。
たぶん、そう言うことなのだろうが、これは私が「頭」で考えたことであって、「肉体」が感じることではない。「頭」のいいひとには、こういう「頭」で考えたことが「論理」どおりに動いていく作品というのは「快感」なのだろうけれど、私は「快感」にたどりつけずに、めんどうくさいと感じてしまう。
もっと簡単に、ミーハーっぽく、「これ、かっこいい」と感じたい。ランボーの腹が減って石だって食らいつきたい、という詩は「意味」としてはむちゃくちゃだが、つまり「頭」で考えれば、そんなことしたって腹は膨れない。食べる前に、歯ががたがたになる。だが、そのむちゃくちゃなところに、ことばを発するときの「喜び」がある。ミーハーになれる。
川上の詩では、そういうことが、起きない。私の場合は。
「肩ひじ張って」「角」「つっ張らなくても」という「意味の繰り返し」のなかには「肉体」の動きが反芻されていて、それが「なんど」という「意味」にととのえられていく部分は、我慢して読めばリズムにならないことはないのだが、「哀しみ」「喜び」「怒り」という「抽象」が、何と言えばいいのか、べったりしていていやな感じなのである。
これも、リズムの抑制、あるいは抑制されたリズムと「頭」で整理すれば、「静かな快感」になるのかなあ。
でも、
命あるものの喜びや怒りがさ
この末尾の「さ」は、どう?
「口語」によるリズムの破壊、書きことばと口語の「分裂」と読めばいいのかもしれないが、うーん、昔むかしの(と言っても1970年代の)抒情詩の「技法」みたいで、いやだなあ、と私は感じる。
しかし、「灰売り」は、書き出しが楽しかった。
灰はいらんかね
灰
身を粉にして魂になったよ
骨身をけずって灰になった
生と死のはざま
かるがると
雲も流れていた
灰はいらんかね
灰
地上では
この世の
生の芽が咲くころだったな
死の芽が咲くころだったな
この作品でも、不思議な「行ぞろえ」が作品の、「視覚のリズム」をつくる力になっているのだが、
雲も流れていた
灰はいらんかね
この二行は、「形」は「対」だが、べったりくっついている感じがしない。「意味」が離れている。飛躍している。どこかに、「意味」の連続があるのかもしれないけれど、前半に出てくる「身を粉にして/骨身をけずって」「魂/灰」、後半に出てくる「地上(天上ではない)/この世」、「生の芽/死の芽」のような「類似/類似」、「正/反」という「連絡」がない。逆に言うと「断絶」がある。この「断絶」がリズムをつくっている、ここにほんとうのリズムがある、と私は感じてしまう。
一行目の「灰はいらんかね」が繰り返され、それが詩のことばを凝縮させる。そこに詩がある。「ことばの分裂が詩である」、川上の詩はそういうものをめざしているのだろうと指摘したことと矛盾するようだが、ここにある「破壊による凝縮」は、俳句でいう「遠心/求心」のような関係だ。破壊があるから凝縮がある。それは一瞬のうちに起きる相反するエネルギーの活性化した状態なのだ。
で、もう一回「灰はいらんかね」と繰り返されたあと、最後の方、
死に眼が からっぽなのさ
空で
ひっそり 蠢いているよ
いらんかね 灰
ことばの順序が入れ替わる。この瞬間、「意味」ではなく、「肉体」がぱっと反応する。私の場合。いままで言っていたことばを逆にするだけなのだが、「肉体」が攪拌される感じになる。舌やのどや口のなかが、洗いなおされる感じ。
こういう「断絶」がもっとあれば、私にも読みやすく感じられるだろうなあ、と思った。
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