不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「棚(1969)」より(4)中井久夫訳

2009-01-08 00:06:25 | リッツォス(中井久夫訳)
捜索    リッツォス(中井久夫訳)

はいって下さい、みなさん--と彼は言った。お困りになることはありません。
隠すようなものは一つもないのです。寝室がここ、書斎がここ、
ここが食堂。ここですって? 古物を入れる屋根裏。
皆がらくたですよ。ね? いっぱいです。皆がらくたです。
すぐ、がらくたになってしまいますよね。これですか? 裁縫の指ぬきです。母のです。
これ? 母のランプです。母の傘。母は私がとてもかわいくて・・・。
この鋳りつけた名札は? この宝石箱は? 誰の? このきたないタオルは?
この劇場の入場券は? 彼女の? そうです。花をいっぱいに飾った帽子をかむって。
このサイン、知らぬ宛先だぞ。奴の筆跡だ。誰がここにはめこんだんだ? はめこんだのは誰だ? 誰がはめ込んだのだ、これは?



 内戦時の捜索の様子を描いたものだろうか。捜索されているのは「隠れ家」かもしれない。何もかも処分し、どこを捜索されても大丈夫。そういう準備はしてきた。
 そのはずだったが、警官(?)といっしょに家のなかを歩いているうちに、ふいに「サイン」が目に入る。
 その「異質なもの」「文字」に警官は気がつくだろうか。
 余裕を持って、家のなかを案内していた男の意識が急にあわただしくなる。そのあわただしさが、「このサイン、」からの1行に凝縮している。「誰がここにはめこんだんだ? はめこんだのは誰だ? 誰がはめ込んだのだ、これは?」。同じことば、同じ内容が、順序をかえて3回繰り返される。そのリズムの変化が、そのまま男の同様をあらわしている。「このサイン、知らぬ宛先だぞ。」という「は」を省略して読点「、」に代弁させたリズムがとても効果的だ。中井の訳は、そういう生きた人間のリズムをとても大切にしている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「棚(1969)」より(3)中井久夫訳

2009-01-07 00:00:19 | リッツォス(中井久夫訳)
これとこれとこれ    リッツォス(中井久夫訳)

夜。巨大なトラック。高速道路を高速で。
積み荷がガスマスク。バラ線のドラムだ。
明け方、石造りの建物の下で彼等はバイクにエンジンをかける。
蒼ざめた男が一人。赤いチュニクを着て屋根に登り、
閉じた窓々を眺め、丘のたわなりを眺め、痩せた指で指さしつつ、
ずっと前から使われていない箱小屋の孔の数を一つ一つ数えている。



 リッツォスの特徴があらわれた作品だ。「説明」ぬきの描写。この場合、「説明」とは「物語」と同じ意味である。どんなことがらも、それぞれに時間を持っている。時間とともに「物語」を持っている。あらゆるものは、ある意味で「物語」を持っている。
 高速道路を走るトラックはどこへ向かっているか。なぜガスマスクを積んでいるか--そこからたとえば内戦の一つの作戦が浮かび上がるかもしれない。「高速道路を高速で。」とわざわざ書いてあるのは、それが普通の高速ではなく、規制速度をオーバーしての「高速」という「意味」だろうから、そこからも何かが暗示されるだろう。
 リッツォスは、そういう暗示を最小限に抑える。「説明」を拒絶する。
 そして、「もの」に「もの」を、「描写」に「描写」を対比させる。俳句の、異質なものを二つ取り合わせ、その一期一会の瞬間に、世界が遠心・求心によって切り開かれる瞬間をつくりだす。
 この詩では、不気味な「巨大なトラック」、それに対して小さな「バイク」。「夜」に対して「明け方」。「蒼」に対して「赤」。「閉じた窓」に対して「丘のたわなり」の広がり。そういう何か波瀾を含んだ対比の世界全体(聖)に対して、「鳩小屋の孔」という「無意味」な「俗」。
 「聖」と「俗」をぶつけることで、世界を解放しようとしている。「意味」から解放しようとしている。
 リッツォスは、その解放感のなかに、詩を感じているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「棚(1969)」より(2)中井久夫訳

2009-01-06 10:17:19 | リッツォス(中井久夫訳)
眠りの再構成    リッツォス(中井久夫訳)

夜だった。大きな石膏の塊が天井から剥がれて寝台の上に落下した。身体を横たえる余地がなくなった。鏡も割れていた、粉々に。回廊の石膏像は煤をかぶっていた。指で触れられない。勝手に愛の姿態を取らせておけ。大腿にも膝にも唇にも掌にも黒い染みがついていた。水道、電気、電話が切られて何ケ月にもなっていた。台所の大理石板の卓子の上に、煙草の吸いさしの傍で大きなレタスが二個腐りつつあった。



 この詩も一種の「聖」と「俗」の取り合わせである。最後の「腐りつつあった」が「俗」にあたる。ただ、この作品では、「レタス」の前に登場する「もの」がそれぞれ「いのち」をうしなったものであるだけに「俗」の印象が弱い。全体が「死」のイメージにおおわれているため、衝撃が少ない。つづけて読んでいて、意識が覚醒する感じがしない。遠心・求心がない。
 それでも、やはり「聖」と「俗」なのだと、私は思う。
 「石膏」「鏡」などは無機物である。それらは腐ることがない。「レタス」だけが腐るのである。腐らないものが「聖」。腐るものが「俗」である。この詩の中では。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「棚(1969)」より(1)中井久夫訳

2009-01-05 09:51:53 | リッツォス(中井久夫訳)
安楽椅子    リッツォス(中井久夫訳)

この安楽椅子は死んだ男の座っていた椅子だ。
縁びろうどの腕は当たっていたところが光っている。
あいつが連行された後、蠅が飛んできた。静かな大きな蠅どもだった。
冬だった。
オレンジが豊作だった。オレンジの貯蔵場の垣越しに
オレンジを投げ入れてやった。
曇りでもあった。いつ暁にあったのか、わからなかった。
別の日、早朝、室内装飾屋が来て刷毛で扉を叩いた。
痩せた召使が返事した。召使は死んだ男のネクタイをやった。
淡青の、黄色の、黒のタイを。皆、召使にウインクした。
今、安楽椅子は地下室にある、鼠取りを載せて--。



 「アルゴ畝の没落」のときも書いたが、リッツォスの「もの」のとりあわせ(ことばのとりあわせ)には俳句に似たところがある。聖と俗が出会う。その瞬間の、緊張とおかしみ。遠心と求心。
 この作品では、3行目の「蠅」、そして最終行の「鼠取り」が、「俗」を強調している。
 人間のいのちは「聖」だけでは成り立っていない。「俗」を含んでいる。そういうことはだれもが知ってはいるが、いったん「聖」の意識に捕らわれると「聖」にことばがしばられてしまう。世界がひとつの方向に形成されてしまう。そういう形で、「聖」そのものを今を超える次元にまで高めていくという作品もある。(逆に、「俗」をつきつめていく作品もある。)短い作品の多いリッツォスは、そういうことはしない。精神の運動をていねいに追い、それをある高みにまで到達させるということは、他人の仕事にまかせているようだ。リッツォスは短い詩を書く。短い詩は、精神が一定の高みに到達するという運動を描くには適していないことを知っている。短い詩は、現実を切り取り、そのなかに世界の構造を浮き彫りにするのに適している。リッツォスは、そういう仕事をしている。
 世界は「聖」と「俗」とでできている。その組み合わせが私たちのいのちを活気づける。

 この詩は、男がなぜ連行されたか、どこで死んだかなどは書いていない。たぶん、連行された先で死んだのだ。安楽椅子はそれを知らずにただ男の帰りを待っていた。だが、帰って来なかった。かわりに蠅が飛んできた。そして、今は、鼠取りが座っている。--ここに、人間のいのちの淋しさがある。あらゆるものは非情である。その非情さが人間の感情をさっぱりと洗い流し、抒情を清潔にする。淋しくさせる。
 淋しい、ゆえに我あり--と西脇順三郎のように呟いてみたくなる。こういうときは。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(6)中井久夫訳

2009-01-04 11:43:40 | リッツォス(中井久夫訳)
ペネロペの絶望    リッツォス(中井久夫訳)

彼の乞食の仮装が篝火の弱い光で分からなかったわけではなかった。
そうではなかった。はっきり証拠が見えた。
膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。
ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えをもらさないために
答えを避ける暇が欲しかった。あの男のためにむなしく二十年待ち、夢を見ていたのか?
あのいとわしい異邦人、血塗らの髭の白い男のためだったのか?
無言で椅子に倒れ、己の憧憬の骸を見る思いで床の求婚者たちの骸をとくと眺めてから
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。
部屋の隅の機織り器が天井の上に籠のような影を作った。
今まで織っていた、緑の木の葉のあいだにきらきら輝く赤い鳥は、灰色と黒になって
終わりのないこれからの忍耐という平べったい空を低く舞った。



 20年ぶりにオディッセウスにあったペネロペ。そのときの思いを想像して詩にしている。驚きではなく「絶望」を。叙事詩ではなく、抒情詩に。題材が知られているだけに、叙事ははぶくことができる。はぶくことのできるものすべてをはぶき、こころの動きにことばをしぼりこむ。--これはリッツォスの詩の特徴である。

ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えをもらさないために
答えを避ける暇が欲しかった。
 
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。

 この自分を客観視した冷徹さが詩に緊張を与えている。詩を清潔にしている。
 リッツォスの詩の特徴のひとつに「孤独」の清潔さがあるが、この孤独、そして清潔さは、こういう客観視からきている。自分にべったり没入するのではなく、外からながめる。己さえも、己に距離をおく。その距離が孤独と清潔さをもたらす。

 最後の1行はとても素晴らしいが、この行は最初の中井の訳では違った形をしていた。前の形と比べると、現在の形の素晴らしさが、いっそうきわだつ。最初は、

彼女の最後の忍耐という平べったい空を低く舞った。

 「彼女の」はたしかに日本語の文法(日本語の訳)では邪魔だろう。所有形を省略されることで、読者は「彼女の」気持ちではなく、自分の(読者の)気持ちとして、ペネロペの絶望そのものを味わうことになる。「彼女の」があると、あくまで他人の絶望になって、抒情が遠くなる。
 「最後の」も抽象的すぎる。「最後の」というのは、「今までの20年の」の「最後の」という意味だが、わかりにくい。頭で考えないと、なぜ「最後の」なのか、わからない。頭で考えてはじめて、あ、そうか、この絶望以外の絶望は彼女にはやってこないのだ、ということがわかる。これでは、まだるっこしい。
 「おわりのないこれからの」は、「今までの20年」を無視している。そういう意味では「正確な訳」ではないように感じられるかもしれないが、そうではない。ペネロペの「いま」の絶望は「今までの20年」の絶望とは比べられない。それをはるかに上回っている。それは永遠につづくことがわかっているからだ。希望のかけられないからだ。それが「今までの20年」とはあきらかに違っている。そういうことを、頭で考えなくてもわかることば、「肉体」を通ったことばで中井は訳出している。

 別なことばで言い直そう。
 「最後の」の方が、いわばデジタルな言語である。「おわりのない」「これからの」はアナログである。デジタルとアナログの違いは「連続感」である。そして、その「連続」というのは「今」と「連続」しているということである。「今」は必然的に「肉体」を含む。
 「最後の」は、「今」ここにいる「肉体」とは連続せず(関係せず)、「今までの20年」と関係する。いわば、そこには「断絶」がある。「切断」がある。断絶、切断という区切り(デジタルの要素)を導入することで成立することばである。
 「おわりのないこれからの」は「今」の「肉体」に結びつき、そこには断絶、切断がない。そして、その「今」は「今までの20年」とも連続している。「肉体」は時間に断絶、切断を持ち込まない。「肉体」のなかに時間があるからだ。「肉体」の変化と「時間」の変化は重なり合うからだ。それは切り離せない。
 その「切り離せない」ということが、そのまま、ペネロペとオディッセウスの関係にも重なり合い、絶望がさらに強くなる。

 「おわりのないこれからの」。
 今から先、永遠に、希望のない日々がつづくのだ。その「事実」がどすんと「肉体」に響いてくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(5)中井久夫訳

2009-01-03 09:25:22 | リッツォス(中井久夫訳)
アルゴ船の没落    リッツォス(中井久夫訳)

今宵、歳月の過ぎ、物事の過ぎ行くを語るのは軽薄だという気がする。
よしんば美女のことであっても、功業でも、詩でさえも。
思い起こす、あの伝説の船が、さる春の宵だ、コリントに運び込まれた時を。
船虫にむしばまれ、塗料はあせ、櫂受けは割れ、
継ぎはぎと孔と記憶に満ちて--。
さて古いアルゴ船はポセイドンの神殿への壮大な捧げ物になった。
森を通る長蛇の列、松明、花輪、横笛、若者の競技、
美しい夜だ。祭司らの歌う声。
神殿の破風から梟が一羽鳴いた。踊り子は軽やかに船上で踊った。
ありもしない櫂と汗と血の荒々しい動きを模しつつ、そぐわない優雅さで踊った。
それから老水夫が一人、足許に唾を吐いて木立に歩み寄った、小用のために。



 この詩は最後の1行がとりわけ美しい。俳句のようである。ふいに異質なものが登場し、一気に世界を凝縮し、同時に解放する。遠心と求心。その動きが1行に満ちている。
 日本語の詩に「俗」を持ち込むことで世界を活性化させたのは芭蕉だが、こういうことばの動きは世界各地にあるのかもしれない。「俗」あるいは「卑近」なものが、人間の「肉体」を呼び覚まし、いま、ここに存在する「精神」に対して拮抗する。その瞬間の「笑い」、「笑い」という解放。
 戦いに勝利と敗北があるように、あらゆるものに相反するものがある。それは同じ強さで絡み合っている。そのからみあいが、遠心・求心という形で一気に生成する。

 前半の倒置法の緊張がとても効果的だと思う。
 倒置法によって、ことばというか、ことばを追う精神は緊張する。ことばがおわった瞬間、頭の中でことばが動く。ふつうの(?)文法に沿って。「思い起こす、あの伝説の船が、さる春の宵だ、コリントに運び込まれた時を。」は「さる宵に、あの伝説の船がコリントに運び込まれた時を思い起こす。」という具合に。無意識の内に、頭は運動する。ことばを追いながら、自分流に組立直すという運動を。
 散文は頭を自然に導くが、詩は頭をかき回しながらひっぱって行く。「ジュリアス・シーザー」(シェークスピア)のアントニーとブルータスの演説の違いのように。
 そして、「俗」は詩で緊張した頭にはとても効果的だ。とてもよく響く。

 倒置法の「詩」と「俗」を拮抗させた中井の訳はとてもおもしろい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(4)中井久夫訳

2009-01-02 12:47:44 | リッツォス(中井久夫訳)
新しい踊り    リッツォス(中井久夫訳)

弁解だけではありません。ほんものの動機です。そして結果。
情熱と興味。危険と恐怖。パシファエです。ミノタロウスです。
迷路です。アリアドネーです。アエアドネーの美しいエロス的な糸は
ほどけていって石の暗黒の中を導いたのです。こうしてテセウスは凱旋したのです。
テセウスはデーロス島に足を留めて、ケラトンをまわって踊ったのです。
アテネから一緒に行った若者らとともに。ケラトンは角だけで出来た有名な祭壇です。
脚を交差させるふしぎな踊りです。これを繰り返したのです。
強い昼の光の中でも、迷路の暗い曲がり角ごとにも、そしておそらく--
鳥も蝉も近くの松林であんなにやかましいのにどうして迷路からでられないってことがあ
   るのでしょう?--
太陽と一面に照り輝く海に目まいがしたでしょう。
海はきらきらしい玻璃の粉です。裸の身体の目くるめく動きです。
ふしぎな踊りです。私たちは皆忘れました、
ミノスタウロスも、パシファエも、迷路も、ナクソクの島で孤独の中で死に行く哀れなア
   リアドネーも。
けれど、踊りだけは国中にすぐに広まり、私たちもまだ踊っているのです。
あれ以来です。棕櫚の輪飾りがデーロス同盟の裸体競技でずっと授けられています。



 ギリシアの神話、歴史に私はうとい。ここに登場する固有名詞もなじみがない。けれど、踊りの熱狂が伝わってくる。特に、次の3行。


鳥も蝉も近くの松林であんなにやかましいのにどうして迷路からでられないってことがあ
   るのでしょう?--
太陽と一面に照り輝く海に目まいがしたでしょう。
海はきらきらしい玻璃の粉です。裸の身体の目くるめく動きです。

 迷路から出られないのは、踊りに引き込まれるからである。その熱狂は、鳥も蝉も、そして遠くにある太陽も、海も、海のその玻璃の輝きも踊りの中に引き込んでしまう。裸体の中に引き込んでしまう。
 踊る裸体--その純粋な美しさが何もかもを引き込む。踊りという迷路に引き込む。これはダンス讃歌である。
 中井の訳は「ですます」調で、いつもの訳とは違ったリズムをつくりだしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(3)中井久夫訳

2009-01-01 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
それらを語ること    リッツォス(中井久夫訳)

われわれ、ことば、観念は没落した。その仕方を見ると、愚痴は言えない。古い学説にも、比較的新しい学生にも、アリスティデスの伝記にも。われわれの一人が二百人か三百人を思い出せば、立ちどころに残りの者があざけりながら切り捨てる。少なくとも懐疑的になる。しかし、時には、今日のような時だ、からりと晴れた日曜日、ユーカリの樹の下に坐ってこの容赦のない烈しい光の中にいると、古い栄光へのひそやかな憧憬が人を圧倒する。安っぽいなどと言っても無駄だ。夜明けに行列が出発し、先頭にはラッパ手、それに続いてミルテの枝や花綵を満載した戦車、次には黒い牛、灌●に用いる美しい油と香水の壜と葡萄酒と牛乳を捧げる人々。しかし、いちばん目を奪うものは行列の最後尾を歩む、全身を紫の衣に包んだプライタイアイのアルコンである。この一日以外は鉄に触れてはならず、身を白衣に包む者--それが今紫衣を全身にまとい、長剣を捧げ、威風あたりを払って街を横切り、英雄たちの墓に向かう。国立器具場よりの壺を捧げて墓石を洗い、豪勢に犠牲を捧げてから、アルコンは葡萄酒の杯を挙げて墓に注ぎつつ高々と朗誦する。「この杯をギリシャの自由のために倒れたる勇敢きわまりなき人々に捧ぐ」。近くの橄欖の林を戦慄が走り抜ける。その戦慄は今もこのユーカリの葉を翻し、この継ぎはぎの衣服、吊るして陽に乾かしている、ありとあらゆる色の旗を通り抜けて、そよがせている。
                        (●は「酋」の下に「大」の文字)

*

 この作品もことばが非常に多い。ギリシアの歴史を題材にした詩はカヴァフィスも書いている。カヴァフィスの方はもっと個人の肉体に入り込んだ詩だ。リッツォスは孤独を愛するせいか、他人の肉体に入り込んだことばが少ない。この作品の書き出しが、とても特徴的である。
われわれ、ことば、観念は没落した。
 ここには「肉体」がない。「頭」がことばをかき集めている。したがって、それにつづくことばは、数こそ多いが、何かつよい結束感がない。肉体を通りゆけたとき必然的に帯びる一種の「熱」というか、「汚れ」がない。
 ことばの清潔さはリッツォスの詩の特徴だが、こうした「歴史」を題材にした作品では、人間臭さが欠落しているように感じられ、あまりおもしろくない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(2)中井久夫訳

2008-12-31 11:21:44 | リッツォス(中井久夫訳)
敗北の後    リッツォス(中井久夫訳)
アテネ人はアイゴスポタモイで撃破され、
決定的敗北が続いた。自由な議論が、
ペリクレス期の栄光が、
芸術の開花が、ギュムナジウムが、哲学者の饗宴が、
みんな失われた。今は陰鬱な時代だ。
市場には重苦しい沈黙。三十人僣主の驕り高ぶり。
すべてふとしたあやまちで起こったことだ(さらに切実にわれらのものなるものでさえ)
訴える機会はなかった。弁護も擁護も、
形だけの抗議されも。パピルスも本も焼かれた。
わが国の誉れは朽ちた。旧友でさえ、
よしんば証人に立つことを認められても、
恐怖して、似たかかわりあいになりたくないと断るはずだ。
むろん、それが正解だろう。だからここにいるのがまだましだ。
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
いつの日か、新たなキモーンがやってきて、
ひそかに、同じ鷲に導かれ、ここを掘って、われらの鉄の槍の先を掘り出すだろう。
錆びてぼろぼろで使いものにならないだろうが、
アテネに行って、勝利の行列か、葬列かのなかでこの槍を捧げ持って歩んでくれるかもしれない、音楽の演奏の中で、花綵(はなづな)に飾られて--。



 リッツォスの詩にしてはかなりことばが多い。ことばの情報が多い。こういう作品は、私は、あまり好きではない。ことばがあふれかえって、ことば自身が持っている「孤独」が見えにくくなる。リッツォスのことばは皆孤独であり、それが美しいと感じる私には、この詩は長すぎる。
 唯一、気持ちよく読むことができるのは、
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
 この4行である。特に「海と石と野の草から成る世界の切れ端」が好きである。「国破れて山河あり」ではないが、人間と無関係にそこに存在している「自然」が「無関係」ゆえに清潔である。「切れ端」が少しめくれあがって、そこから世界が変わっていく--そういう夢想を、孤独な夢想を誘ってくれそうである。あるいは、切れ端がちぎれていって、ここではないどこか遠くへ連れていってくれるかもしれない--そういう夢想に誘ってくれる。そこにはやはり、海と石と野の草があるのだ。
 そんなこことを思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「反復(1968)」より(1)中井久夫訳

2008-12-30 15:42:09 | リッツォス(中井久夫訳)
終わらない    リッツォス(中井久夫訳)
山に雲がかかった。誰がいけないって? 何だって? つかれて、黙り、
男は足許を見つめ、きびすを返し、歩き、腰を屈める。
石は下。鳥は上。水瓶は窓辺。アザミは谷。手はポケット。
口実。口実。詩は遅れる。空虚。
言葉の意味は言葉が隠すもので決まる。

 ことばはたしかに何かをあらわすために使うというよりも、何かを隠すためにつかうものかもしれない。
 詩において、何かを具体的に書きたいときでも、それはそのことばが他の何かをためにつかわれるということを「隠す」。つまり、限定する。ことばにはいろいろな意味があるのに、その意味のいくつかを隠すことで、ことばは突き進む。そして、隠しつづけて、いま、ここにないものにまでたどりつく。
 いま、ここに存在しないもののために、ことばは動く。詩は、動く。
石は下。鳥は上。水瓶は窓辺。アザミは谷。手はポケット。
 この単純な事実を述べることばは、何を隠しているのか。何を隠していると、読者は感じるか。何を感じると想定して、リッツォスはことばを書いているのか。
 私が感じるのは、いつも孤独なこころだ。リッツォスの孤独だ。石に、鳥に、水瓶に、アザミにこころを寄せる。そして、こころは下に、上に、窓辺に、谷へとさまよう。そこで、こころは石、鳥、水瓶、アザミ以外の何にも出会わない。孤独である。
 手は、ポケットのなかで何をつかんでいるのだろう。何を探しているのだろう。ポケットのなかにある手そのものを探している。手は、なぜ、ここにあるんだろう、と手のこころを探している。
 そんな孤独を思う。
 この孤独に、おわりはない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(8)中井久夫訳

2008-12-29 00:43:34 | リッツォス(中井久夫訳)
カルロヴァッシにおける死    リッツォス(中井久夫訳)

死んだ男とイコンは奥の部屋に安置された。女は男の上にかがみ込んだ。女も男も手を組み合わせていた。女には男の見分けが付かなかった。
彼女は腕をほどいた。もう一人の女が台所でサヤエンドウを湯がいていた。
鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。
のろのろと帽子を取った。最初の女は、できるだけ音を立てないように、
卵の殻をテーブルから集めてポケットに入れた。



 私は、こういう生活がきちんと書かれた作品が好きだ。生活をきちんとことばにして、そういうことばが詩になるのだと教えてくれる作品が好きだ。
 だれかが死ぬ。そういうときも、人の暮らしはつづいている。それは非情なことなのか、とけも情がこまやかなことなのか、よくわからない。よくわからないけれど、そういう時間がたしかに存在する。そして、それはことばになることを待っている。
 死とサヤエンドウを湯掻くという生活の出会い。そこに詩があるのだ。人間の淋しさがあるのだ。こういう出会いをみると、私は西脇順三郎を思い出す。淋しい。淋しい、ゆえに我あり、といった西脇を。その淋しさの美しさを。

鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。

 この文体も、私は非常に好きだ。森鴎外を思い出す。
 長男がドアを開けて部屋に入ってきた。そのために湯の音が聴こた、というのではない。湯の音に気がつく。気がついてみると、そこに長男が入ってきていた。そういう意識の動きを説明をくわえずに具体的に描く。説明を省略しているために、ことばが非常に速くなる。意識にではなく、肉体に直接何事かを知らせる。そういう強い文体に、とてもひかれる。(これは原詩の力というよりも、中井の訳の力かもしれない。中井の訳には漢文のスピードが非常に多く登場する。)
 説明がないからこそ、私たちは、「頭」を経由しないで、男の動き、その意味を肉体で知る。女の動きの意味を、「頭」を経由しないで、肉体で知る。そういうとき、肉体のなかに、死の記憶、誰かの死と立ち会ったときの記憶がくっきりと浮かび上がり、作品を、遠い世界のものではなく、自分の身近なものと感じる。
 肉体のことばで書かれた作品には、時空を超える力がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(7)中井久夫訳

2008-12-28 00:24:05 | リッツォス(中井久夫訳)
一覧表    リッツォス(中井久夫訳)

夜には、別の壁が壁のまた後ろにあるのを本能が教えるだろうか。鹿も
泉の水を飲みにやってこようとせず、森に残る。
月が出ると、第一の壁が砕ける。次いで、第二、第三の壁も。
野兎が降りてくる。谷で草をはむ。
あらゆるものが、そのままのかたちとなり、やわらかで、輪郭がぼんやりして、銀色だ。
月光のもとの雄牛の角も、屋根の上のフクロウも、
河をあてどなく流れ下る、封印をしたままの梱包も--。



 リッツォスの作品としては、かなり珍しい部類の作品だと思う。人間が登場しない。主役は「夜」である。とても美しい。自分のいのちをまもって静かに生きる動物たちの姿が、とても静かだ。
 そして、最初に「人間が登場しない」と書いたけれど、その静かな姿のそばを、人間の形をしない人間が通っていく。河を流れる「梱包」。そこには「人間」の匂いがする。その匂いが夜のなかで異質に輝く。
 詩は異質なものの出会い--そういう定義に従えば、ここに詩がある。そして、この詩の特徴は孤独である。「梱包」さえも、他者から離れ、孤立している。封印をほどかれないまま流れてきた--これは、別の見方をすれば、封印をしたまま流されてきた(知られたくないものを封をしたまま誰かが流した)とも受け取れる。しかし、それをリッツォスは「封印をしたままの」と修飾する。定義する。そうすることで、そこに「梱包」の孤独が生まれる。
 この、微妙なことばのつかい方--その訳し方。孤独を愛する人間の精神が、月の光を浴びて、いま、静かな森で佇んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(6)中井久夫訳

2008-12-27 00:12:45 | リッツォス(中井久夫訳)
囚人    リッツォス(中井久夫訳)

彼は、窓を開ける度に、自分の姿をこっそり見た。
通りの向かいの家の窓越しに。
対面の部屋に縦長の大きな鏡があった。
その部屋に何かを盗みに入った気がした。
我慢ならぬ、新鮮な空気ももらえず、太陽も、少しも拝めぬとは。
ある日、彼は石をつかんで、狙って、投げた。音がして、
その家の人が窓に顔を出した。「やや」とその人は言った。
「鏡の中の自分を見ようとする度に、背越しにおまえさんが
うさんくさそうに私をみる、--我慢ならん」
相手は背を返して部屋に入った。自分の持ち物の空間に。その部屋の
鏡の中には、お向かいさんが、歯に短刀をくわえて持っていた。



 シンメトリーの世界。
 何よりもおもしろいのは、4行目である。向うの部屋の鏡に自分が映る。それを見て、まるで自分がその部屋に「盗みに」入ったように感じる。「盗みに」ということばが出てくるのは、「囚人」が「盗み」を働いてとらわれているからかもしれない。非常に、なまなましい感じがする。
 そして、その次の行。それが指し示す世界が、二重に見えることもおもしろい。
 「我慢ならぬ、新鮮な空気ももらえず、太陽も、少しも拝めぬとは。」とは、囚人のことばなのか。それとも、向うの部屋の鏡に映った「自分」の声なのか。私には、鏡の中の男の声に聴こえる。「監獄」のなかに閉じ込められている男ではなく、鏡の中でしか動けない男の声に。監獄のなかよりも、鏡の中の方が狭い。その狭さ、窮屈さに鏡の中の男は怒っている。--もちろんそれは、実際の囚人の心境の反映ではあるのだが。
 それから以後は、もっと複雑になる。向き合った鏡が、その中で像を増殖させていく感じである。鏡のなかに映った自分を見ようとすると、その鏡の中の男が、自分の背中越しに自分を見ている気がする。つまり、「盗人」が鏡の中の姿を見ようとすると、その「盗人」の将来の姿である「囚人」が自分を見ている--つまり、「盗人」をすれば「囚人」になることがわかって、その「盗み」を見ているのである。
 この増殖するイメージの構造に怒って、鏡の中の「盗人」は、囚人が自分の部屋の鏡を覗き込むときを狙って、囚人を背後から襲おうとする。鏡に、刃物を映してみせる。「通り」を挟んで離れていても、鏡の中では「ふたり」は重なり合う。その重なりあいを利用して行われる殺人。
 これは、とてもスリリングである。
 この詩は、これだけですでに短編小説であるけれど、この詩を土台にして(というより、そっくりそのままいただいて)、小説を書いてみたい、という欲望にとらわれた。ボルヘスの小説よりおもしろくなりそうな気がする。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(5)中井久夫訳

2008-12-26 00:32:47 | リッツォス(中井久夫訳)
顔か表看板か    リッツォス(中井久夫訳)

彼は言った、--この石の彫像は私が彫ったものだが、
ハンマーを使わず、素手のこの指で、この眼で、
素裸のわが身体で、私の口唇で彫ったので、
今では誰が私で誰が彫像か、分からなくなりました。

       彼は彫刻の陰に隠れた。
彼は醜い、醜い男だった。彼は彫刻を抱擁し、抱き上げ、腰の周りに手を廻して
一緒に散歩した。
       それから彼はこう言った。おそらくは
この像のほうが私でしょう。(実に素晴らしい像だった)。いや、この像は
独りで歩くのですとまで言った。だが誰が信じるか、彼を?



 どんな作品であれ、つくられたものは作者を代弁する。そこには作者が含まれている。いや、含むのではなく、作者そのものである。鑑賞者にとってだけではなく、作者にもそういえる場合がある。作品がすべてである。作品以外に「私」といないのだ、と。リッツォスは、彫刻家に託して、そういう「人間」(芸術家)を描いている--という「意味」を主体にして読んでしまうと、この作品は、ただそれだけでおわってしまう。
 それでもいいのだろうけれど、何か、そういう「意味」で作品を読んでしまうと、「おもしろい」という部分がなくなってしまう。と、私には思える。 

 私がおもしろいと思うのは、たとえば3行目の「私の口唇で彫ったので、」という「口唇」ということばである。くちびるで石を彫るということは、現実にはできない。そのできないことをリッツォスは書いている。同じようなことばが2行目にある。「この眼で」彫った。「眼」でももちろん石を彫るということはできない。しかし「眼」で彫るといった場合、口唇で彫るというときほど違和感はない。たぶん、眼が見たまま、眼の見たものを彫ったという意味で、「眼で彫る」という言い方は可能だからである。その「文法」を流用すれば「口唇で彫る」とは「口唇で味わったもの」を彫るということかもしれない。「口唇」が味わいたいものを彫るということかもしれない。
 ナルシシズム。--私は、ナルシシズムを感じる。それも、非常に肉感的なナルシシズムである。ナルシスのように「眼」だけで「美」を感じるのではない。肉体全体で味わうナルシシズムを感じる。官能的なナルシシズムだ。
 そして、それ、石像ではなく、ナルシシズムは、たしかに「独りで歩く」かもしれないとも思う。
 --と書いてしまうと、また別の「意味」があらわれてしまうので、どうもいやな気持ちになる。
 私は、この詩では3行目の「口唇で彫った」ということばはとても好きだ。そのことばにうっとりしてしまった、とだけ書けばよかったのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(4)中井久夫訳

2008-12-25 00:23:53 | リッツォス(中井久夫訳)
夜の儀式   リッツォス(中井久夫訳)

男どもはおんどりを、野鳩を、山羊を殺した。
肩に、首に、顔に血を分厚く塗った。一人など、
壁の方を向いてセックスに血を擦りつけた。
白いヴェールの女が三人、隅に立っていたが、
これを見て、小声で悲鳴を上げた。自分がされるように。男らは、
聞こえないふりをして、チョークで床に落書きをした、
長く延びた蛇を、古代の矢を。外では
太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。



 実際に目撃した「儀式」というより写真か何かで見た「儀式」に触発されて、ことばが動いたのだろう。血と化粧。他人の(動物の)力を自分のなかに取り込むための方法だろう。
 3行目「壁の方を向いて」という具体的な動きが、この詩をリアルなものにしている。
 この詩で私が不思議に感じたのは、最終行である。「太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。」この行の「その」にとても不思議なものを感じた。「意味」がわからないわけではない。「その」は「太鼓」を指している。「太鼓の轟きの音」が近所の村に届いた。何も不思議はないかもしれない。
 原詩がどうなっているかわからないのだが、この「その」の一瞬、間を置いた感じが、リッツォスの短い文体(中井の訳の、短い文体)と、どうもそぐわない。この行だけが、なぜか、とても長く感じられる。あるいは、不思議な「間」を持っている、といえばいいだろうか。多くのリッツォスの詩(中井の訳)はことばとことばがショートするくらいに接近している。「間」というものがない。ことろが、ここには「間」がある。そして、この「間」が、そのまま、夜の暗い闇のひろがりを感じさせる。村から村までの「距離」の空間を感じさせる。「呪術(?)」が超えていかなければならない「闇」を感じさせる。あるいは「呪術」を育てている「闇」を感じさせる。
 こういう「間」というか、広い空間を感じさせることばは、リッツォスの詩には非常に少ないのではないだろうか、と思う。(私は、思い出すことができない。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする