詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(12)中井久夫訳

2009-01-23 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
分離その三    リッツォス(中井久夫訳)

ゆっくりとものの中味がなくなる。夏の浜べの
大きい骨のように。馬の骨か戸外の動物の骨か。
内側はからっぽ。骨髄がない。
残る部分は硬くて白いばかり。色が抜け、細かい孔があいて、
冬のどしゃ降りのときの部屋の色だ。
扉の把手を持ってるのか、把手がきみを持ってるのか、
そもそもきみなり把手なりが持つなんて出来るか。
どちらか言えまい。
きみが紅茶を飲もうとする。その時突然、
きみが見ると指の間は陶器の把手だけだ。茶碗がない。
把手を調べる。真白で、重さがなくて、ほとんど骨。
きれいだなときみは思う。ゼロになろうと憧れている半分のかたち。
温かい湯気がじわったにじみ出てる。
向うの深い裂け目から壁の中に。
きみの飲めなかった紅茶からの湯気さ。



 リッツォスの描写はとても繊細である。たとえば5行目。「冬のどしゃ降りのときの部屋の色だ。」この独立した美しさ。「白」の描写なのだが、「白」のなかにある「白の諧調」が見えてくる。「白」にはいくつもの「白」があることが見えてくる。「空虚」(中味がなるなる)の色が、その諧調の中に、あるいは諧調のひろがりのひろさで、見えてくる。
 13行目。「きれいだなときみは思う。ゼロになろうと憧れている半分のかたち。」この行も繊細だ。「ゼロになろうと」の「なろうと」が「半分の形」をより明確にする。ある完成されたかたちが望めないなら、いっそう「半分」であることをやめてゼロになりたい。--このときの、孤独。
 それは、5行目の「冬のどしゃ降りの部屋」と通い合う。

 「分離その三」。何からの分離からは、ここには書かれていない。しかし、ここに書かれている孤独に共感するとき、何からの分離かをつきつめることは意味がない。孤独がみつめる風景、日常の暮らし、そのなかにただよう「白」に代表される「色の諧調」それを呼吸するだけでいい。



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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(11)中井久夫訳

2009-01-22 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
白い風景    リッツォス(中井久夫訳)

気づかれないで彼は去った。戸のところを踏む足音も聞こえなかった。
夜中とうとう雨が降らなかった。奇蹟だ。
あくる日ははてしない冬の日射し。
それはそっくり、白い洗面所で
髭を剃ってるだれかさんに。
濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。
剃刀は切れない。皮が赤くなる。髭があちこちに残る。
胸が悪くなるオー・ドゥ・コローニュの匂い。



 孤独の風景。男色のふたりの別れを描いているのだろうか。
 2行目、「夜中」は「よるじゅう」と読むのだろうか。雨が降れば「彼」は出て行けない。けれども雨が降らなかったので、濡れることなく(ためらうことなく)出ていった。そして、冬の、何もない透明な日差しだけが、その何もなさの上に降り注ぐのである。
 真っ白。
 この白から、ことばは「白い」洗面所へ動き、そこで男に髭を剃らせる。髭を見るときは鏡を見る。鏡が映し出すのは自分の姿だが、それは同時に「彼」の姿でもある。男は同じように、朝、髭を剃る。そういう「肉体」が、他人になってしまった二人の間で反復される。
 「肉体」は不思議なもので、それぞれの人間にひとつなのに、ある瞬間、共有するのだ。それは、たとえば、この詩に描かれている「髭を剃る」という行為の反復のなかで、という形をとることもあるが、もっと別なものもある。たとえば、だれかが腹を抱えるようにしてうずくまっている。それを見るとき、私たちの「肉体」は無意識にそういう姿勢を反復している。「肉体」の内部で。そして、あ、このひとは腹が痛いんだとわかる。「肉体」と「肉体」の間には「空気」があって、ふたつの「肉体」を分離しているにもかかわらず、そのとき、何かが共有される。
 そういうことが、人間にはあるのだ。(ほかの動物にもあるかもしれない。)そして、そういうことが人間と人間の結びつきをつくるのである。そして「空気」が共有される。「こころ」が浮かび上がる。「思い出」がよみがえる。「空気」を呼吸するたびに。
 「濡れた柔らかな紙で目に見えない手が拭いた鏡に顔を映して--。」というのは、「彼」は、そんなふうにして鏡の曇りを拭いていたということを思い出したのだろう。
 この思い出が、胸をかきまわす。強い匂いの「オー・ドゥ・コローニュの匂い」のように。嫌いだ。そして、その嫌いだというこころが、孤独にはせつない。



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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(10)中井久夫訳

2009-01-21 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
処刑を前に    リッツォス(中井久夫訳)


壁を背にして立つ。払暁。目隠しなしだ。
十二丁の銃が狙う。彼は静かに思う、
若くてハンサムな自分を。きれいに髭を剃れば映えると思う。
遠くの地平がうっすらあからむ。あれが俺になる。
うん、ちんぽこの大きさはいつも並だ。
あったかいところがちょっぴり悲しい。宦官の目が行く箇所だ。
やつらの狙う箇所だ。もう自分の銅像になっちまったか?
自分で自分の銅像を見る。裸体。ギリシャの夏のきらきらしい日なか。
広場の空にすくっと立つ。群衆の肩の向うに、貪欲な観光の女たちの肩の向うに。
三人組の向うに--黒い帽子をかぶった三人の老婆の向うに。



 前半がとても美しい。リッツォスの描く「聖」が鮮やかに出ている。特に4行目。

遠くの地平がうっすらあからむ。あれが俺になる。

 最後の「なる」がいい。ひとは何かに「なる」。それが遠い地平線の、うっすらとした暁の色。あかるみ。もう人間ではない。人間を超越する。そのときが、詩。詩そのものの瞬間。そしてそれは、死んでいく男の祈りである。
 しかし、人間は、簡単には何かになれない。なりたいけれど、なれない。いつでも「肉体」がついてまわる。気になるのは「こころ」ではなく、「肉体」だ。「肉体」こそが「こころ」だからである。

うん、ちんぽこの大きさはいつも並だ。

 の「うん」という、自分自身への言い聞かせも、とても気持ちがいい。「肉体」に語りかけることばは、いつでも「口語」である。「口語」が歩いてまわる「場」はとても限られている。そこにはいつも体温がある。次の行の「あったかい」がとても自然なのは、この「口語」の力によるものだ。
 そこから出発して、男は、いまの「現実」をとらえなおす。もう一度、自分が何に「なる」か(なれるか)、祈りを点検する。現実が見えてくれば見えてくるほど、4行目の祈りが透明になる。4行目にもどって、その行だけを読んでいたいという気持ちに襲われる。
 こういうときの気持ちを「共感」というのかもしれない。あらゆる行を振り払って、そのなかの1行だけを抱きしめていたいと思う気持ちを。
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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(9)中井久夫訳

2009-01-20 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
さかさま    リッツォス(中井久夫訳)

大気の中に根。根の間に顔が二つ。
その庭の底に井戸が。
彼等が昔、指輪を投げ入れた。
それから高い空を見上げた。
ばあさんが一人、大きな林檎をかじりながら
空っぽの植木鉢にオシッコをしてるのを
見ないフリをして。



 「大気の中に根。」というのは逆さまである。従ってこれは、水に映った木のことである。水に映った木は逆さまになっている。根は大気の中にあることになる。もちろん、それは見えないが、見えなくて当然である。大地の中にある根だって見えない。そこに「ある」と人間は想像しているだけである。そうであるなら、大気の中に根が広がっていると想像しても何の不思議もない。
 二人(男女だろう)は、その見えない根の間から顔を覗かせる。つまり、水面を覗き込む。そして、その水面というのは井戸である。その井戸には、二人の指輪が沈んでいる。眠っている。二人は、その指輪に顔を近づける。それは、井戸に映った高い高い空を見上げるのと同じことである。二人は、その高い高い空に近づいていく。投身する。
 悲劇である。

 この悲劇の瞬間、その庭のすみっこ、植木鉢におばあさんがオシッコをしている。
 悲劇(聖)と「俗」の遭遇。これは、リッツォスの詩のなかに何度も登場してくる組み合わせである。聖と俗の組み合わせが、聖をより聖の高みに運ぶ。
 どんな聖も、すぐとなりには俗がある。
 そして、聖は、たとえば、この詩に書かれている「根」のように、「大気の中」にある。何かに映したときに、逆さまの形で、想像力の中に姿をあらわす。それは肉眼では見えない。こころの動き、精神の動きのなかでのみ、姿をあらわすものである。そういう姿を映すための「鏡」として、「俗」が描かれる。リッツォスの詩のことばは、そんなふうに動いている。

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(8)中井久夫訳

2009-01-19 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
窓の内と外    リッツォス(中井久夫訳)

外には陽に照らされた大きな雲。谷にさす大きな教会の影。
パンがナプキンに包まれて木に吊るされている。
風が山から吹き下ろす。階段の下の小さな迷路の中に風は隠れ家を作る。
窓の傍の女は羊毛でチョッキを編む
男は半長靴を脱いだ。自分の足を見つめる。
裸の足が黒土を踏む。女が編み棒を傍に置く。
起き上がる。ためらって、それから半長靴を手に取る。
両手を半長靴の中に入れる。膝まずく。寝台の下にはいずりこむ。



 晴れた日の谷間の集落。一軒の家。そのなかの男女を描いている。最後の2行が、私にはよくわからない。
 「起き上がる。」の主語は「女」か、「男」か。男は裸足で黒土を踏んでいるのだから、「起き上がる」のは編み物をしていた女だろう。編み棒を傍らに置いて、それから椅子から立ったということだろう。そして、男の履いていた半長靴を手にとる。両手を入れる。跪く。そのあとの「寝台の下にはいずりこむ」がわからない。女が「寝台の下にはいずりこむ」のか。なんのために? もしかすると、寝台の下に半長靴をしまいこむ、ということかもしれない。男はいつでも半長靴を脱いだあと、それをそのまま放り出しているのかもしれない。「自分で片づけて」と女は何度も繰り返し言ってきたかもしれない。しかし、男は片づけない。それで女が仕方なくいつものように片づけている--そういうことなのかもしれない。そんなふうに読むと、なんとなく私の知っているリッツォスに近くなる。
 窓の外にはいつもと変わらぬ風景がある。おだやかや谷間の風景である。
 一方、窓の内側、つまり家庭でも、いつもと変わらぬ光景が見られる。
 両方とも、いつもとかわらない。いつもとかわらないことが、ことばもなく(会話もなく)、いつものようにつづけられる。それが暮らしである。
 3行目の、「階段の下の小さな迷路の中に風は隠れ家を作る。」がとても美しい。とても繊細だ。
 もしかしたら、女もやはり、家のどこかに「隠れ家」を持っているのかもしれない。男は家の外に隠れ家を持ち、家庭を守っている女は女で、家の中に隠れ家を持っている。それは、どこ? 寝台の下? 私は、そうではなくて、たとえば男が脱いだ「半長靴」のなか、と考えてみる。女はそのなかに両手を入れてみた。そのとき女の両手が感じた男のぬくもり。それが女にとっての隠れ家かもしれない。その隠れ家を、そっと寝台の下にしまいこむ。大切な宝物のように、跪いた姿勢で。

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(7)中井久夫訳

2009-01-18 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
第三の男    リッツォス(中井久夫訳)

男が三人、海をみつめていた。窓の下に坐って。
一人が海を語った。二人目が聴いた。三人目は語りもせず、
聴きもしなかった。海中深く潜っていた。浮かび上がった。
窓ガラスの向う側で彼の動きがひどくのろのろして見えた。
うすい青色に染まってはっきり見えた。沈んだ船を探検しているのだ。
その生命の失われた時鐘を鳴らしてみた。こまかな泡が
かすかな音とともにどっと昇って行った。
--突然「あいつ、溺れたのか?」と誰かが尋ねた。聞かれた相手は
「うん、溺れたね」と言った。三人目が海中から絶望して二人を見た、
溺れた人間を見る目付きで--。



 この詩は2種類の読み方ができる。1行目の「三人」というのは実は3人ではない。昔は3人でいっしょに行動していた。友達だ。3人のうち1人が溺れ死んだ。2人は、その彼のことを思い出して語っている。溺れたときの様子を。1人が語り、もう1人が聞いている。それは、ある意味での追悼である。
 もう一つ別の読み方ができる。生き残ったのは1人である。2人は溺れ死んでしまった。そして、その遺体はまだあがっていない。残された1人は、2人の遺体を探して沈没した船へと潜っている。そして、夢を見ている。溺れたのが2人ではなく、ほんとうはじぶんひとりが溺れ、残された2人は、溺れた彼のことを窓の下で坐って思い出し、語っている--と。2行目から3行目の「三人目は語りもせず/聴きもしなかった」は、そういうことを想像させる。3人目は、2人と自分が逆だったらどんなにいいだろうと思いながら2人を探しているのである。かわれるなら、かわってやりたい。そういう強い友情で結びついているのだろう。

 リッツォスの詩は、いつも不思議なドラマを内包している。そのドラマは、読者の読み方によってさまざまにかわる。かわることを受け入れて、読者に向かって開かれている。ドラマとは、たぶん、読者のなかにあるのだ。ストーリーはいつでも読者のなかにあるのだ。その眠っているストーリー、ドラマを呼び覚ますのが詩である。リッツォスの詩である。
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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(6)中井久夫訳

2009-01-17 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
溶解    リッツォス(中井久夫訳)

時として言葉はひとりでに訪れてくる、木の葉のように--。
目に見えない根が、土壌が、太陽が、水が木の葉をたすけた。
朽ち葉もたすけた。
意味がすっとつくことがある、木の葉の上の、蜘蛛の巣のように、
あるいは埃のように、あるいはきらきら光る露玉のように。
木の葉の上では少女が自分の人形を裸にしてはらわたをえぐっている。
露の滴が一つ、髪の毛にかかった。頭を挙げた。何も見えない。
雫の冷たい透明性が彼女の身体の上で溶けた。



 この詩も、前半と後半で印象ががらりとかわる。前半は詩の幸福を描いているように思える。詩は、ひとりでにやってくるものである。探していてもなかなか見つからず、忘れたころに突然やってくる。その気まぐれな訪問を制御することはできない。詩のことばは、突然やってきて、そのことば自体の力で拡大してゆく。詩の領土をひろげていく。
 ここからかが、とてもおもしろい。
 後半である。その拡大もまた、制御できないのである。異様なものも「意味」として呼び寄せてしまう。意味をひろげて行ってしまう。「人形を裸にしてはらわたをえぐる」。それは残酷なことだろうか。歪んだ行為だろうか。だが、そんなふうに不気味に見えるものの上にも、透明なものがやってくる。美しいものがやってくる。その、不思議な出会いを、ひとは制御できない。それは、やってくるように見えても、ほんとうは、深い深い根が出発点かもしれないのである。「雫」の光は、根があってはじめて可能なのもかもしれない。
 大切なのは、それがどんなものであれ、出会って、溶け合う。溶解する。

 詩は異質なものの出会い。それは、どんなに対立しても、出会いの一瞬において、どこかで完全に溶け合っている。溶け合うものがないかぎり、そこには出会いはない。反発しながら、出会い、溶け合う。その不思議な運動のなかにこそ、詩がある。
 リッツォスの詩が、前半と後半で変わってしまうのは、その変わること、ことばが勝手に運動していく力こそが詩だからである。リッツォスは「存在」としてての詩ではなく、「運動」としての詩を書いている。ことばは動いていくことで詩になる。


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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(5)中井久夫訳

2009-01-16 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
枚挙    リッツォス(中井久夫訳)

街路で立ち止まってながめている人々。
扉の上の番地の意味のない表示。
釘を細長い卓子に打ち込んでいる大工。
誰かが電信柱に名前のリストを貼りつけた。
新聞紙が茨に掛かってかさこそ音を立てる。
葡萄の葉の下にいる蜘蛛。
女が一人、家から出て別の家に入った。
黄色い壁。濡れている。塗料が反り返って剥げかけてる。
カナリアの籠が死んだ男の窓に吊るされる。



 街の描写。何かが欠けている、という印象がある。ひっそりとしている。欠けている何かになることを、すべてのひとが恐れているような、はりつめた厳しさがある。「新聞紙が茨に掛かってかさこそ音を立てる。」のも、風のせいではなく、そのはりつめた厳しさのせいである、という感じがする。ふつうは聞こえないのに、みんなが耳を澄ましているから聞こえてしまう音--という感じである。

女が一人、家から出て別の家に入った。

 この1行が描く動きも、非常に緊張している。ほかの動きはいっさいなく、ただ家から家へすばやく動いて行って、扉はしっかり閉ざされている。まるで壁のように。そして、そういう印象のあとに、実際の壁が描かれる。
 いくつものものが描かれているのに、視線が自然に動くのは、いま指摘した「扉」(扉ということばは出てこないが)から「壁」への移動のように、その移動が不自然ではないからだ。移動に脈絡があるからだ。

 そして最後に、この静かな緊張が「死んだ男」に起因するらしいことがそっと語られる。
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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(4)中井久夫訳

2009-01-15 00:00:01 | リッツォス(中井久夫訳)

眠りの前    リッツォス(中井久夫訳)

彼女は後片づけを終えた。皿も洗い上げた。
あたりはしいと十一時。
靴を脱いでベッドに入ろうとして、
一瞬たじろぎ、ベッドの傍でもたついた。
決着を付けたくないものを忘れていたのか?
家は四角でなくなり、ベッドもテーブルもなくなった。
無意識にストッキングを明かりにかざして
孔を捜す。みえない。でもあると確信している。
壁の中か、鏡の中に--。
夜のいびきが聞こえるのは、この孔からだ。
シーツの上のストッキングの形は
冷たい水に張られた網で、
黄色い盲目の魚が一尾そこを横切ってる。



 孤独な「彼女」。「無意識にストッキングを明かりにかざして」の「無意識に」ということばに胸を揺さぶられる。人間はいつでも「無意識に」逸脱していく。何かしなければならないのだけれど、そんなことをしてはいけないのだけれど、本来の目的とは違ったところへふと迷い込んでしまう。しかし、その「場」は、ほんとうはとても重要な「場」なのかもしれない。重要であるけれど、それを意識できない。--それが無意識。
 そこで、人間は何かを捜す。ありもしないストッキングの孔を捜すように、あるいは、そこにはないからこそ、そのないはずの孔を捜すように。孔の有無が重要なのではなく、捜すという行為が重要なのだ。「場」が重要なのではなく、その「場」においての行為、運動が重要なのだ。
 「彼女」は何をみつけたか。
 盲目の一尾の魚。それは、「彼女」自身の姿である。自分は、ストッキングの網の下で、知らずに泳いでいる魚。盲目だから、「網」もみえない。でも、見えない「網」にとらわれているのだ。そして、そのとらわれていることを「網」は見えないけれど、「無意識に」感じている。「無意識に」感じながら、「無意識に」、どこかに「孔」はないかと捜している。
 「彼女」は自分自身を見つけたのだ。
 夜。みんな寝静まっている。「彼女」は、するべきことはすべてしてしまった。あとは、眠るだけ。すると、どこからか「いびき」が聞こえる。静かに眠っている人間がいる。その眠りから遠いところに「彼女」は、まだ、こうやって起きている。
 取り残された孤独。同じように、同じ家で生きていながら、取り残された孤独。その孤独が、「彼女」を冷たい水の中の、盲目の魚にかえてしまうのだ。

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(3)中井久夫訳

2009-01-14 00:00:01 | リッツォス(中井久夫訳)
慎みのなさ    リッツォス(中井久夫訳)

翌朝、彼はほとんど病気だった。
ゆうべさんざん言葉をつめこまれた、ポンプで以て。
もう沢山だ、言葉は。だが言葉を振り払えない。
通りを隔てた家はすっかり白く塗り換えている。
どぎつい白さ。ペンキ屋の声が冬の光の中でやけに大きく響く。
屋根のてっぺんにいる一人が煙突を抱いた、セックスするみたいな恰好だ。
白いペンキのぼってりした滴が
朽ち葉の降り積む黒土に飛び散った。



 夕べと翌朝。その間に何があったか。「言葉を詰め込まれた」とは、口論のことだろう。女に言い負かされたのである。それですっかり、しょげかえっている。思い出すのもいやだけれど、思い出してしまう。
 屋根でペンキを塗っているペンキ屋がバランスをくずして煙突にしがみつく。それがセックスする恰好に似ている、と感じるのは、女との口論が原因で、セックスできなかったせいだろう。あるいは、不満足なセックスだったためだろう。どうしても思い出してしまうのだ。
 白いペンキ、飛び散ったペンキが、「彼」には精液に見える。

 鮮やかな白ではなく、「どぎつい白さ」。その「どぎつい」という修飾語に、「彼」のさびしさが漂う。


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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(2)中井久夫訳

2009-01-13 00:35:24 | リッツォス(中井久夫訳)
少なくとも風が    リッツォス(中井久夫訳)

夜。食堂。シャンデリアに止まった蠅。
盆に止まった蠅。パンに止まった蠅。コップに止まった蠅。
老人はがつがつ食べる。他の皿をそっと盗み見る。
テーブル・クロスは白い。まっ白である。通りを吹き過ぎる風は
街灯を吹く風である。ああ、風。ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。
壁にこっそり挿しこまれた筒。卓子の下の、大きな寝台の発条の間の筒。
舐める蠅と紙ナプキンと眠りを通ってすぎる風。おお、風だな、と老人は言った。
老人は匙を置いた。立ち去った。われらは夜っぴて彼の帰りを待った。
時折り、小さな氷のキューブを
枕元に置く水差しに落とし込みながら--。



 5行目の風の比喩が美しい。

ひゅうひゅうと唸り、きらきらと光る長い筒よ。

 風そのものが「筒」である。「筒」はいたるところにある。壁の中に、卓子の下に、そして寝台の発条の間にも。寝台のスプリングを「筒」とたとえたとは、とてもおもしろい。完全な「筒」の形をしていなくても「筒」なのである。中に空洞があれば、中を何かが通り過ぎることができれば、「筒」なのである。
 そうであるなら、人間は、どうであろうか。人間もまたひとつの「筒」ではないのか。人間の体の中を、食べ物が通り過ぎていく。そして、それは蠅も同じことである。生きている物はみんな「筒」を体の内に持っている。
 そして。
 風が「筒」の形で通り過ぎるなら、人間も、その「筒」のまま、風になることができる。風になって、どこかへ行ってしまうことができる。
 そうなのだ。老人は、そのことに気がついた。そして、立ち去ったのである。風になって。

 まだ「筒」の自覚のない人間が、老人の帰りを待っている。帰るはずのない、人間を待っている。「水差し」に氷を落としながら。「水差し」と「筒」の違いは、「水差し」には入り口はあるが出口がない。「水差し」は不完全な「筒」なのである。
 それは、ある意味では、生きている人間の不完全さを象徴しているかもしれない。



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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(1)中井久夫訳

2009-01-12 00:24:25 | リッツォス(中井久夫訳)

暗闇で    リッツォス(中井久夫訳)

日暮。点灯夫が通り過ぎた、梯子をかついで。
島のランプをともしてまわる。ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。
あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。泉の中で
ランプは青銅色になり、上向きに揺れ、海に溺れる。
セント・ペラギア教会の鐘楼の上で十字がきらりと光った。
一匹の犬が馬小屋の後ろで吠えた。もう一匹が税関のところで--。
宿屋の看板が血を流した。男は胸をはだけて
大きなナイフを握る。女は
髪をさんばらにしたまま鉢の中の卵の白味を練る。



 前半は、とても美しい。詩を特徴づけるもの比喩であるとしたら、これはまさしく詩である。夕暮れに街灯の明かりがぽつりぽつりとついてゆく。闇と光の対比。「ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。」は新鮮で気持ちがいい。
 しかし、次の比喩はどうだろうか。

あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。

 色は鮮やかだが、とても不思議だ。なぜ、黄色い泉? だいたい「泉」は「天」にはない。「地」にある。人間が立って歩く、その足の下にある。
 暗闇に孔を開け、そこから黄色い泉があふれだしたら、どうなるだろう。人は溺れてしまう。--あ、ここには、不思議な死がある。「島」の暮らしのひとがいつも感じている死がある。つまり、海で難破して、溺れて死んでゆく人間の、日常としての死がある。
 このイメージと非常に似通った死があった。「タナグラの女性像」のなかの、「救済の途」。嵐の夜、女は大波が階段を上ってきて、ランプを消してしまう、と恐れていた。

そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。

 水の中のランプ。そして、死。--夜の、死。
 「島」にあって、死は昼の出来事ではなく、夜の出来事である。夜を知らせるランプ、ランプに明かりを灯して歩く男は、また、死を連れてくる死神でもあるのかもしれない。死神にさそわれるように、事件が起こる。
 宿屋の前では、男が刃傷ざたを起こしている。そこだけではなく、いくつかの場所で。そして、犬が吠えている。死を、あるいは死に近いことがらを見てしまって。

 そういうときも、日常はつづいている。女は、いつものように懸命に卵白をあわだてている。料理のために。日常があり、その日常をまったく無視して死は同じように存在する。日常と死を、並列の物としてみつめる詩人がここにいる。そこには、あるいは内戦の苦悩が反映しているかもしれない。内戦の、繰り返される死が、影響しているかもしれない。非情な死が。

 リッツォスの詩の透明さは、そういう死と隣り合わせに生きる人間の孤独のせいかもしれない。

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リッツォス「棚(1969)」より(7)中井久夫訳

2009-01-11 01:08:48 | リッツォス(中井久夫訳)
視力を回復した少女    リッツォス(中井久夫訳)

あっ、と彼女は言った。また見えるようになったんだわ。何年も自分のものでなかった眼。眼は私の中に沈み込んでいた。暗い、深い水の中に沈んだ二個の鋳型のような小石だった。黒い水。今は--。雲ってあれなのね。薔薇ってこれなのね。木の葉がこれ。緑ね。み-ど-り。これ、私の声ね。そうよね。私の声、聞こえて? 声と眼--これね。自由ってものはこれね。あ、下の地下室にお盆を忘れてきたわ、大きな、ほら、銀の。それにカード・ボックスも、鳥籠も、糸巻も。



 私はこの詩が大好きだ。「これ、私の声ね。」ここが、大好きだ。
 少女は声を取り戻したのではない。視力を取り戻した。けれど、視力を取り戻すことは単に見えるようになったということを超えるのだ。新しい感覚が、それまで眠っていた別の感覚、肉体の意識を呼び覚ます。その結果、いままでと同じものであるはずのものも、違った風に感じられるのだ。
 そして、そのあと。

自由ってものはこれね。

 あ、そうなのだ。自由とは、いままでとは違った感覚の融合のことである。新しい感覚の発見のことである。
 声が変わったのは(「私の声ね。」と確かめずにいられないのは)、喜びのためにほんとうに声が明るく変わったのか、それとも耳の感覚が視覚に影響されて変化したのか--それは、わからない。また、わかる必要もない。必要なのは、人間の感覚というのは、そんなふうにいつでも生まれ変わるということを知ることだ。
 そして、そういう新しい感覚こそが「自由」なのである。

 詩の存在理由はここにある。
 詩は、いままで存在しなかったあたらしい感覚の動きをことばで書き表す。それは人間の可能性の表現であり、そういう可能性こそが「自由」なのである。「自由」になるために、人間は、リッツォスは詩を書くのだ。

 だから、銀の盆、カード・ボックス、鳥籠、糸巻は、ほんとうに地下室に「忘れてきた」のか、捨て去ってきたのか、これも実はわからないことになる。盲目だったとき、それらはきってと、少女のかけがえのないよりどころだった。いま、視力を取り戻し、新しい世界に、自由な世界に生まれ変わったのだから、もう少女は、それらを「よりどころ」としなくても大丈夫なのだ。
 大丈夫だから、「忘れてきたわ」とは言うものの、「取りに戻らなければ」とは言わないのだ。

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リッツォス「棚(1969)」より(6)中井久夫訳

2009-01-10 00:57:51 | リッツォス(中井久夫訳)
それほど小さくない    リッツォス(中井久夫訳)

もうすこし。何だって? 彼は自分が分かってない。付け加えるんだ。何に付け加える?
どうする? 彼は分かってない。分かってないのだ。これだけの意志だ。彼のものだ。
巻き煙草を一本取る。火を付ける。外は風だ。教会の墓地の棕櫚の樹が倒れるのでは?
でも時計の中には風が入らない。時間は揺れない。九時、十時、十一時、十二時、一時。隣りの扉の部屋には食卓をしつらえつつある。皿を運んでる。老婆が十字を切る。匙が口に動く。パンが一片テーブルの下に落ちている。



 これは何を描いているのだろうか。リッツォスの詩は説明がないので想像力がいる。
 私はこの作品を死んだ男を描写していると読んだ。葬儀(?)のとき、棺のなかの男。その遺体に「付け加える」。何を? 言った本人もわからないかもしれない。ただ今のままでは不憫だ。そういう思いがあふれてきて、思わず「付け加えるんだ」と言ってしまった。
 その場所からは教会の墓地が見える。そこに埋葬される男。

 そういうことを具体的に書かないのは、リッツォスにとって書きたいことが、男の死そのものではないからだろう。
 何を書きたいか。
 たとえば、たばこ。葬儀のとき、埋葬の前の時間。そういう時でも、人間は日常を繰り返す。たばこを吸う。たばこを吸いながら外の景色を見る。風が強いなあ、と思ったりする。死んだ男のことを考えているわけではない。
 同じように、葬儀のあとには会食がつきものである。そういう準備が扉の向こう、隣の部屋で進んでいる。
 一方に死があり、他方に日常がある。その日常の時間は、ある意味で非情である。時間そのもののように決まった形で進んで行く。そこには何も入り込むことはできない。悲しみにうちひしがれる人を描くのではなく、悲しいときにも日常があると正確に書く。それは、もしかすると、その日常が悲しみにくれているだけの余裕がないからだともいえる。たとえば、内戦の最中であるとか……。

 そして、また、この非情な日常が、人間の孤独を浮き彫りにする。どんなときでも生きていかなければならないという淋しさを浮き彫りにする。--そういう、きっぱりとした生きる力をいつもリッツォスに感じる。

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リッツォス「棚(1969)」より(5)中井久夫訳

2009-01-09 00:47:44 | リッツォス(中井久夫訳)

訊問室    リッツォス(中井久夫訳)

長い廊下。両側は閉じた扉。
煙突。ストーヴはどこだろう。少し煙が出てる。
廊下のもう一方の端に黒づくめの男が五人。同じ格好の覆面。彼を眺めてる。
彼は扉を叩く。無音。次の扉。第三の扉。最後の扉まで
反応なし。こんどは反対側。叩く。一つづつ。
扉が尽きた。反応なし。覆面男は不動。
はたしてそうか。戸口から出ると戸口はひとりでに閉まった。
暗くなった。外は雨だった。
彼はトタン板を打つ雨を聞く。中庭のタイルにしぶく音も。
思い出した。記憶の中だ。濡れたアスファルトが
ガラス張りの新しい理髪店を映していた。淡青の高い肘掛け椅子を入れた店だった。



 廊下があり、両側に「訊問室」があるのだろうか。よくわからない。だが、とても不気味だ。「訊問室」の扉を叩いて歩く「彼」を「男が五人」眺めている。「訊問室」には誰もいないので、反応がない。「五人」はそれを知っているはずである。知っていて、「彼」にそういう無意味なことをさせているのだろう。無意味なことをさせられる、という不気味さがある。
 この前半と、「はたしてそうか。」以後の後半ががらりと変わる。
 「記憶」というか、精神がふいにいきいきと動きだすのを感じる。前半の不気味さとはまったく違う。
 「濡れたアスファルトが/ガラス張りの新しい理髪店を映していた。」はテオ・アンゲロプロスの映像(映画)を見ているように美しい。「淡青の高い肘掛け椅子」も、濡れたアスファルトの色と響きあって、雨の日の湿った空気が見えるようだ。この鮮やかさは、いったい何なのだろう。

 ふいに、何の理由もなく、私は思うのだ。
 前半は、「彼」の現実ではない。扉を叩いてまわっているのは「彼」ではない。「彼」は「訊問室」にいる。扉は閉じている。そして、その「訊問室」のなかで、扉を叩いている誰かの動きを思い描いている。扉を叩く回数によって、その廊下のまわりに幾つ同じ部屋があるのか想像している。探っている。それは、同じようにして「訊問」されている仲間が何人いるか、想像しているということと同じだろう。扉を叩いている「彼」は「訊問」が順調に進んでいるか、確かめているのかもしれない。
 そして、最後。
 彼の部屋の扉が開く。「訊問官」(?)がやってくる。彼が訊問される番なのだ。そのときが、やってきたのだ。
 そのとき、ふいに思い出すのだ。彼がとらえられた(拘束された)のは雨の日だった。雨の音が聞こえた。最後に彼が見た「訊問室」以外の風景--拘束されている場所以外の風景は、濡れたアスファルトに映った新しい理髪店。そして、その店の美しい椅子。--ああ、それに比べると、この「訊問室」の、この椅子はいったいなんだろう……。

 私が想像するようなことは、ほんとうは書いてはないのかもしれない。しかし、なぜか、そんなシーンが、まるで映画のなかのシーンのように思い浮かぶ。ことばがかってに「物語」をつくっていく。リッツォスのことばにふれると、私のなかで「物語」が動きはじめる。

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