詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

2022-01-25 09:10:34 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

 前回の文章は、少し書き急ぎすぎた。これまで書いてきたこととの関係を省略しすぎた。少し追加しておく。
 Garcia Marquezの文体の特徴のひとつに「強調構文」がある。口語的なことばのリズムがそれを引き立てている。
 私が最初に取り上げたのが、

lo fueron a esperar 

 という単純なものであった。単純すぎて、その文章にGarcía Márquezの「独自性」を見出せないかもしれない。特にネイティブのひとは何も考えずに読むと思う。でも、これは「lo=santiago Nasar」を強調したスタイルなのである。「fueron a esperarlo」では、「lo」が「esperar 」という動詞にのみこまれてしまう。焦点が「 fueron a esperar 」という動詞の主語、「los gimelos 」になってしまう。さらに、ことばのスピードも落ちる。「 esperarlo」は「 esperar」より長いからだ。
 これと逆の「強調構文」が133ページに出てくる。Desde el lugar en que ella se encontraba podía verlos a ellos, この最後の部分

 verlos a ellos 

 「los 」=「a ellos (los gemelos )」。「a ellos 」はなくても意味は同じ。でも、García Márquezはあえてつけくわえている。文章が長くなるにもかかわらず、この構文を採用している。この文章の「主語」であるPlácida Lineroの動きをまず書きたかったからだ。この部分では「主役」はPlácida Lineroである。しかし、los gemelos も忘れてはならない。だから、それを強調するために「 verlos a ellos 」と書いているのだ。
 また「構文」とは関係ないのだがClotilde Armentaの次の描写も強烈である。

Clotilde Armenta agarró a Pedro Vicario por lacamisa (P131)

 「agarró」はなんでもない動詞だが、私はここではっと目が覚めた。それまでの登場人物は双子の兄弟に触れていない。肉体接触がない。だれも彼らを直接止めようとしていない。市長はナイフを取り上げたが、彼らに触れてはいない。彼女だけが自分の肉体をつかっている。このあと、彼女は地面に突き倒される。
 ここから目が眩むような殺人が描かれる。「agarró」ということばがきっかけで、実際の行動がはじまるのである。殺人計画が準備準備だけではなく、実際に動き始める。実際の犯行の前の、その「動詞」が犯行を強烈に浮かびあがらせる。「agarró」は、すぐに反対のことば「tiró」になって動く。「反動」が鮮烈である。さらに「empellón」に肉体を印象づけることばがつづく。

Pedro Vicario, que la tiró por tierra con un empellón,(P132) 

 「agarró」→「tiró」→「empellón」。これも「強調」のひとつなのだ。

 もう一つ、「dos veces 」の結果として生まれてくる不思議なことばがある。

remanos deslumbrante(P134)

 「remanos 」は、常識的には「deslumbrante」ではない。私はネイティブなので誤解しているかもしれないが、「remanos 」は、むしろdeslustrado やpenumbraであり、oscuroである。しかし、異様に覚醒した状態、絶対的な正気(lucidez )では、矛盾が矛盾ではなくなる。
 似たような矛盾したことばの強烈な結びつきは「rencor feliz」(P108)に出てきた。これも「強調」なのである。
 García Márquezzの文章は、頻繁に「realismo magico 」と呼ばれるが、「remanos deslumbrante」や「rencor feliz」のような強烈なことばが出てくるからかもしれない。しかし、これは「魔法」ではない。Garcia Marquezが生み出した現実である。こういうことばを読者が自然に受け入れられるようにするために、García Márquezは強調構文を積み重ねているのである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 私は人を殺したことがない。殺されたこともない。だから、García Márquezが書いていることが「真実」かどうか判断することができない。本当はできないはずである。しかし、それを「事実/真実」と思ってしまう。ことばの力が「事実/真実」をつくりだすのだ。
 書かれていることが「絵空事」(現実には起こり得ないこと)であっても、そこに書かれていることばは「事実」そのものなのである。ことばが、架空の存在ではなく、いつも現実に存在する。だから読むことができる。「文体」もまた「事実」である。架空のものではない。だから、私は「何を書いている」ではなく「どう書いているか」について感想を書く。「文体」について感想を書く。

 

 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

2022-01-24 15:23:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』を最初に読んだときの驚きは、小説が「ハッピーエンド」で終わらないことだ。殺人事件は起きてしまっている。どうしたってSantiago Nasarは生き返らない。そうであるなら、生き残ったAngela VicarioとBayardo San Roman が幸福になること以外に「結末」はないからである。
 しかし、そこまで書いたあとで、ガルシア・マルケスは「最初」にもどるのだ。最後に「殺人」が復習のようにして再現されるのだ。
 私は「doc veces 」と「lucidez 」がこの小説のキーワードだと書いた。その「doc veces 」「lucidez 」が、最後の章である。
 殺人事件(現実)は、一回(una vez )起きる。それは最初(primera vez )である。このとき、私たちはそれがどういうことなのか「意味」がわからない。「正気(lucidez )」のつもりでいるが、「意味」がわからないのだから、まだ「正気(lucidez )」は目覚めていない。眠っているようなものだ。見たもの、聞いたものを、ことばを通して再現するとき、殺人事件は「真実」になる。「正気(lucidez )」が見た「現実」だ。
 みんな「正気(lucidez )」にもどりたい。だから、みんなが自分の目撃したことを語りたい。語ることで「真実」をつかみたいと思っている。語ることで、殺人事件は「二度(dos veces )」起きるのだ。「正気(lucidez )」にもどるためには、語ることで、殺人事件を「二度(dos veces )」起こすしかないのだ。
 そして、ことばを通して起きる「二度目の殺人事件」は「一度目の殺人事件」よりも、より鮮明で強烈だ。私は、Angela Vicarioが「生まれ変わった」あとの描写も大好きだが、この「二度目の殺人事件」の描写も大好きだ。残酷でむごたらしいのに、わくわくしてしまう。切りつけても切りつけても死なないSantiago Nasar。双子の兄弟の絶望に、思わず共感してしまう。現実には、共感などしてはいけないのだが、小説なので共感してしまう。それは、クライマックス中のクライマックスの描写についてもいえる。

Hasta tuvo cuidado de sacudir con la mano la tierra que le quedó en las tripas.(P137)

  実際に見てしまったら、ぞっとするかもしれない。しかし、この光景を見たWenefrida Marquez はなんという幸運なのだろうと思う。そういう光景を見ることができるひとは、きっと誰もいない。世界でたったひとり、彼女だけが体験したのだ。それを語るとき、しかし、彼女は「正気(lucidez )」のままである。「正気((lucidez )」でないなら苦しくないが、「正気(lucidez )」のままそれを語らなければならない。これは、幸福であると同時に、とても苦しいことである。
 これはガルシア・マルケスも同じこと。
 人間が引き起こした不幸。それをすべての登場人物の「正気(lucidez )」として描き、それでもなおまだ「正気(lucidez )」でいる。これは、つらいことに違いない。
 書く順序が逆になったかもしれないが……。
 「正気(lucidez )」ということばは、この最終章にもつかわれている。きちんと読み返したわけではないが、この小説では「正気(lucidez )」がつかわれるのは、前に紹介した部分と、次の部分。Santiago Nasarが瀕死の状態で自宅へ帰るシーン。

Tuvo todavía bastante lucidez para no ir por la calle, que era el trayecto más largo, sino que entró por la casa contigua.(P136)

 そして、最後のセリフ。

Que me mataron, niña Wene.

 「正気(lucidez )」とは何とつらいことだろう。

 この小説に限ったことではないが、文学とは「二度(dos veces )」の世界なのだ。現実にあったことが「最初の一回(primera ves =una vez )」。それを「ことば」にして再現するとき、それは「正気(lucidez )」が見た「二度目(segunda vez =dos veces )」なのだ。
 そして、「最初の一回(primera ves =una vez )」は長いのに対して、「二度目(segunda vez =dos veces )」は短い。それは書き出しからAngela Vicarioの幸福までの長さと、最後の章の長さを比較するだけでもわかる。Garcia Marquezは、ことばを加速させ、激しく暴走する。そのリズムがとても効果的だ。強調構文を積み重ねて、想像力を爆発させる。

 キーワードについて。私はキーワードということばを「キー概念」とは違った意味でつかっている。「キー概念」は、ある文章のなかで何度もつかわれる。その文書を要約することばである。私がいうキーワードは、たいていの場合一回しか出てこない。それをつかわないとことばが動かないときだけつかわれる。『予告された殺人の記録』では「dos veces 」。私が読んだ限りでは、これは一回だけつかわれている。そして、もうひとつの「lucidez 」も二回だけ。誰もが知っている。しかも、最小限度の回数しかつかわれない、作者の無意識になってしまっていることばを、私はキーワードと呼んでいる。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(2の追加)

2022-01-23 14:13:55 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(2の追加)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』の109ページ。前回書いた、次の文章。

Le habló de las lacras eternas que él había dejado en su cuerpo, de la sal de su lengua, de la trilla de fuego de su verga africana.

 私は、この部分が本当に好きだ。マルケスの文章の特徴をあらわしている。構造がわかりやすいように書き直すと、こうなる。


Le habló de las lacras eternas(que él había dejado en su cuerpo), 
    de la sal de su lengua, 
    de la trilla de fuego de su verga africana.

 一行目、que以下は「las lacras eternas」の説明なので省略する。この(que él había dejado en su cuerpo)は厳密に言うと違うが、読んだときの印象としては、二行目、三行目のあとにもつづいているように感じられる。同じことばを繰り返したくないから一行目だけに書いている。
 彼女は話した。何についてか。あらためて、そこだけ取り出す。

de las lacras eternas
de la sal de su lengua
de la trilla de fuego de su verga africana

 ことばがだんだん長くなっている。一行目と二行目は見た目が同じ長さに見えるが、二行目には「de」が二回。最初の「de」は「habló de」だから、実際は、一回。一行目が「形容詞/eternas」だったが、二行目は「名詞」になっている。名詞が二個。
 三行目は「de」がもう一回増えている。さらに長くなっている。名詞が三個、形容詞が一個。
 でも、長さを感じさせない。
 なぜか。一行目で想像力をかきたてられ、二行目でそれが加速され、三行目で暴走していく。
 わいせつな「妄想」というのは、一度火がつくと、簡単にはおさまらない。それだけでなく、加速したことにひとはたいてい気がつかない。
 この「妄想力/想像力」をマルケスは利用している。リズムがいいのだ。
 これが逆だったら、きっとつまらない。

Le habló
de la trilla de fuego de su verga africana
de la sal de su lengua
de las lacras eternas

 違いが鮮明にわかるでしょ?
 マルケスは、口語のリズムを活用しているのである。そこにマルケスの文体の魅力がある。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)

2022-01-21 12:08:21 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』のキーワードは「dos veces 」と「lucidez 」だと書いた。「dos veces 」は正確に言えば「Era como estar despiertos dos veces.」であり、「despiertar」と結びついている。きのう書いた「Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.」にも同じことばが出てくる。
 この「despertar /dos veces 」は、この作品のなかで、どんなふうに展開するか。私が一番好きな部分、アンヘリカ・ビカリオを「私」が訪問し、「証言」を聞き出す部分に何度も出てくる。(新潮社版では、106ページ以降)

por primera vez desde su nacimineto (ペンギンブック、p107)

これは、こう言い換えされてもいる。

Nació de nuevo(p107)

 「生まれて初めて」と「生まれ変わった」。これは「二度生まれる」(nacer dos veces )と言いなおすことができる。生まれていままで生きてきた。しかし、新しい人生に目覚めて(despertarse )し、生き直す。こういう表現は日本語にもあるし、世界のどの国の言語にもあるだろう。人間はある日、ある日生まれ変わる。新しい人生を生き始める。二度目の人生。
 そして、そのとき「美しい」のは「二度目の人生」である。
 アンヘリカ・ビカリオは初夜に処女でないことが発覚し、捨てられる。初体験の相手に「指名」された男は、彼女の弟(双子)に殺されてしまう。みんなが知っているのに、だれもそれを止めることができずに殺されてしまう。彼女は、厳格な母親によって遠くの村に監禁されている。その彼女が、突然、彼女を捨てた男を思い出し、彼に恋をする。
 これが彼女の「二度目の人生」であり、その描写が美しいのだ。「Nacio de nuevo」のあとに、こうつづく。

 《Me volvi loco por el--me dijo--, loco de remate.》 Le bastaba cerrar los ojos para verlo, lo oia respirar en el mar, la despertaba a media noche el fogaje de su cuerpo en la cama. 

 好きでもなんでもなかった男が、突然、恋人になってしまう。気が狂ったように、思い出してしまう。彼を見るには「目を閉じるだけ」で十分である。海の匂いは男の匂い。寝ていると、男の体の火照りを感じて目がさめる。
 気が狂ってしまう。このとき「volver(もどる)」という動詞がつかわれている。いままで生きてきて、ここにいる。そこから「過去にもどって(vlover)」「もう一度/ふたたび(dos veces )」「初めて(primera vez )のことのように生まれ変わる/目を覚ます(despertar )」。「loco(気が狂う)」と書いているが、これはもろちん「lucidez 」のことである。彼女は、初めて「正気(lucidez )」を取り戻すのだ。自分が誰であるか、自分が何をしたいか、何を欲しているかを発見するのだ。
 だから、こんなふうに言いなおされる。

Se volvió lucida,(略)volvió a ser virgen sólo para él (p108)

 正気にもどり、彼のために処女にもどる。「正気にもどる」はともかく「処女にもどる」というのは現実には不可能である。しかし、精神的は可能なのだ。それが、人間が生きているということなのだ。
 この緊密にからみあったことばの関係が美しい。そして、このことばの動きのスピードはとても早い。言いなおすと、見分けがつかない。「dos veces 」は「primera vez 」であり「nacer de nuevo」は「despertar (se)」であり「lucidez 」は「loco」なのだ。反対のことばが同じことを意味する。そして、二つの反対のことばが結びつくことで、いままで見えなかったものがくっきりと見えてくる。補色のぶつかり合いによる、それぞれの色の強調のように。私は、ここでは、「primera vez (初めて)」なのか「dos veces (二度)」なのか、忘れてしまう。「文法/意味」を超えてマルケスの世界に引きずり込まれる。
 この強烈なことばの運動は

el rencor feliz (p108)

という不思議なことばを生み出す。彼女を監禁している母親に対する思いをあらわした部分だが、 rencor は「恨み」、feliz は「幸福」。一般的な常識では、それは結びつかない。だれかを恨んでいるときは幸福ではない。でも、恨むことができるというのは、自分が生きていることを実感することでもあるのだ。感情が死んでいたら恨むことはできない。感情が生きているから恨むことができる。感情が生きている幸せ。
 このあとに、きのう書いた部分がやってくる。

Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despert la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.(p109)

 ここにも「despertar 」がやっぱりつかわれている。
 ここからが、さらに強烈。

Le habló de las lacras eternas que él había dejado en su cuerpo, de la sal de su lengua, de la trilla de fuego de su verga africana.

  こうなってくると、これはもはや「処女」の告白ではないし、彼女が「初夜」の前に男とセックスをしたのが一度だけなのかということさえ私は疑問に思ってしまうのだが。まあ、ともかく、そういうことばが「自然」に感じられるくらいマルケスのことばのスピードは早い。私の想像力では追いかけるだけで息切れがしてしまう。
 (ここでちょっとだけ野谷文昭の訳文に文句をつけておくと。「la sal de su lengua  」を「彼の気の利いた言葉」と訳しているが、これは全体の文意にあわないだろう。lenguaにはたしかに「言葉」という意味もあるが、ここではあくまで「肉体」。だから「舌」なのである。「sal (塩)」は大事な調味料。料理でいちばん重要な調味料。そのことを考えると、彼女は、彼女の体をはいまわった男の舌のことを思い出しているのである。私のようなNHKのラジオ講座初級編についていくのがやっとの人間がいうことではないのかもしれないけれど……。)

 この急激な「感情」のクライマックスのあと、問題の男が女を訪ねてくる。女が長い間書き綴った手紙を、封も切らずに束ねたまま鞄に入れて。そうやって、彼女の恋はする。ここで、通俗小説なら終わる。ハッピーエンドだからね。でも、この小説はまだつづくのだ。
 森鴎外の「渋江抽斎」を読んだとき、途中で渋江抽斎が死んでしまうのに、小説はどうみてもまだ半分は残っている、ということを知ってびっくりしたように、私はこの小説でもびっくりした。
 終わったのに、まだつづく?
 この「つづき」もまた、「dos veces 」「lucidez 」と関係するのだ。それは、また後日。私の批評もつづくのだ。

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(1の追加)

2022-01-20 11:31:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1の追加)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』にはいくつもの「強調構文」が出てくる。野谷文昭の訳文では、それがわからない。というよりも、私はスペイン語版を読んで、マルケスの狙いは独自の強調構文の確立にあると感じ始めたのだ。そして、その「強調構文」は、ネイティブが気づきにくいということも気がついた。私がこれは「強調構文だ」と指摘しても、フェイスブックの「マルケス」のサイトのひとは何も感じてくれない。ひとりだけ、メキシコの言語学者が、私の指摘した「dos veces 」の問題に反応してくれた。
 本当は「ガルシア・マルケス 文体の秘密(2)」の最後に、(1の補強)として書くつもりだったのだが、先取りして書いておく。私はアンヘラ・ビカリオと「私」との対話の部分がとても好きなのだが、そこにこんな文章が出てくる。ペンギンブックの109ページ。

 Uan madrugada de vientos, por el año décimo, la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.

 「 desnudo」ということばにひきずられて見落としてしまいそうだが、「 la despertó la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.」がとてもおもしろい「強調構文」だ。
 ふつうは、
(1)ella (Angela Vicario) se despertó a causa de la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama.
(2)ella (Angela Vicario) se despertó con la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama. 
あるいは
(3)la certidumbre de que él estaba desnudo en su cama despertó a ella. 
と書くと思う。
 スペイン語は語順が英語のように厳密ではない。主語も省略できる。動詞の活用によって主語が何かわかるからである。だから順序も変えられる。
 この文章のポイントは「despertar 」という動詞のつかい方である。
 目が覚めるという意味でつかうとき(自動詞としてつかうとき)と「despertarse 」という形をとる。それが(1)(2)の文章。目を覚まさせる(他動詞)の場合は(3)になる。主語は「la certidumbre de que el estaba desnudo en su cama」と非常に長くなる。そのため「despertar 」という動詞の印象が弱くなる。これでは衝撃が弱い。
 それを避けるためには(1)(2)の文章になるのだが、このときは「a causa de」や「con 」が必要になる。そういう余分なものが入り込むと、「la (a ell)」と「 la certidumbre 」の結びつきが弱くなる。マルケスは、「la (a ell)」と「 la certidumbre 」を強烈に結びつけたかった。結びつきを強調したかった。そのために「a causa de」や「con 」を必要としない「文体」を選んだのだ。マルケスの文章を読むと「ell 」と「certidumbre 」が同時に強烈に迫ってくる。そして、このことばは一回目に書いた「 lucidez」につながることばである。
 ここに書かれている体験はアンヘラの「錯覚」なのだが、その錯覚は彼女にとっては「現実」なのだ。それを一瞬のうちにわからせるために書いたのが、この文章である。
 

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ガルシア・マルケス ことばの選択(4)

2022-01-19 11:07:31 | その他(音楽、小説etc)

 『予告された殺人の記録』に「la pinga」ということばが出てくる。ペニスを指す「俗語」のひとつである。野谷文昭は「あそこ」と上品に訳している。
 で、この「la pinga」ということばをつかうとき、それをつかったひとはどんな気持ちなんだろうと思う。だいたい男の持ち物なのに「女性形」であるのが、なんとも不思議だ。そこでフェイスブックにあるマルケスのサイトで質問してみた。
 答えは。
 スペイン語の名詞には、女性形と男性形がある。それを所有しているのが男性、女性とは関係がない。なんとかアカデミーが定義する、云々。
 聞きたいのは文法的な定義ではなく、つかうひとの感情、としつこく問い詰めると。
 「そんなことは説明できない。だが、おれは「la pinga」を味わうことができる(disfrutar la pinga)」
 ピンポーン、と言いたくなるね。自慢げな感じがある。あえて訳せば「魔羅」という感じ?
 ところが、小説のなかでは、味わうという感じではない。双子の兄弟がいる。徴兵されたが、兄は家の仕事を継ぐので免除された。弟は兵役期間に淋病にかかった。ふたりは人を殺しにいくのだが、弟は淋病の手当てで苦しみ、殺人をできる状況ではないとためらっている。排尿の後、「la pinga」に包帯を巻いている。それを兄がもどかしげに見ている。「魔羅に包帯をまいている」では、なんとなくおかしい。
 なおもしつこく「別項」として、日本には「ちんぽ、ちんちん、陰茎、魔羅などのことばがある。病院で受診するときは、魔羅にできものができた、とはいわない。こどものものを陰茎などとはいわない」というようなことを書いてみた。すると、
 「la pinga」は荷物をかつぐ長い棒の意味でつかう。何か大きなものを指すことがある……。
 あ、これか。
 大きな棒。日本語で探せば「巨根」になるかなあ。
 正確ではないが、これがいちばん近い感覚だなあ、と私は思った。
 双子の兄弟。以前は兄がリーダー格。しかし、弟が兵役から帰って来てからは立場が逆転。軍隊で正確がかわったということもあるが、「淋病」が引き起こした微妙な問題がある。弟は「セックスの先輩」になってしまったのだ。淋病はうれしいものではないが、それは古いことばで言えば「男の勲章」。兄には、それが、ない。兄は弟よりも「劣っている」。つまり、弟のペニスは、ある意味では「羨望の対象」なのだ。
 それがいま「羨望の対象」ではなく、そんなものにもたもたとして、変な病気になんかかかってしまって、役立たず、という感じで兄は見ている。ここには兄弟の立場が再び逆転したことが示されている。その象徴的なシーンで「la pinga」がつかわれている。
 何と訳すべきか。
 ふと、私は「やっかいもの」(大きなやっかいもの)ということばが浮かんだ。
 女性につたわるかどうかわからないが、「性器」というのは、ある意味で「やっかいもの」である。ほんとうはしなければならないことがあるのに、欲望に負けてしまう。そのときの欲望の中心が性器である。思春期に、勉強しなければならないのに、ついつい鉛筆ではなく、性器を握ってしまう。手を動かしてしまう。なければ、そんなことはおきないのに。なんと、やっかいな。しかし、やっかいなくせして、それが快感。だから、やっかいというのかもしれないけれど。
 そのときの「やっかい」とは違うのだけれど。
 兄はきっと思ったのだ。「そんなやっかいなものをぶらさげやがって」(やっかいな病気をかかえこむなんて、という批判もふくまれているかな)。

 ことばには「感情」がつまっている。「意味」ではなく、そのことばを発した人の「感情」にぶつかると、私は、とてもうれしくなる。
 誤読かもしれないけれどね。
 マルケスは、単にストーリーを描いているわけではないし、舞台になった村の人殺しをしそうな男の口調を借りているだけではないのだ。登場人物と「感情」を共有し、その「感情」をあらわすためにことばを選んでいる。
 だから、ここで「la pinga」と書くマルケスが大好き、と私はスペイン語圏の人に伝えたいが、これは説明がむずかしいね。
 他の部分でも、私はマルケスの文体に感動していると言いたいのだが、その説明がむずかしい。きのう書いた強調(enfasis )の問題など、強調構文であるという同意(?)を引き出すために何度も説明しなければならなかった。強調構文というのは「感情」と関係している。そこには感情が込められている、ということを指摘したのだが。これは、マルケスのつかっている強調構文が、あまりにも口語的、日常的だから、「どっちにしたって、意味はかわらないじゃないか」ということなんだろうけれど。
 「la pinga」にもどると、「男性性器だよ、どう呼ぶかなんて関係ない。意味はひとつ」というのに似ている。

 性器をどう呼ぶか。これをフェイスブックの私のページでも書いてみた。たとえば病院でどう説明するか。あるビジターが「これ」という指示語になるかな、というようなことを書いてくれた。私は、ちょっと目が覚めた。「これ、あれ、それ」。便利だね。わたしなら「あれ」をつかうかなあ。「あそこ(あれ)の調子がおかしい」がいちばん通じるかもしれない。「あれ(あの)」ということばは、日本語の場合、話者がその存在を了解しているときにつかわれる。「あのレストラン、おいしかったね」というとき、二人がレストランを知っていないとつかえない。泌尿器科で「あれ」と言えば、患者の「これ」だが医師からは想像できる「あれ」。初めて見るにしても、見慣れている「あれ」。「知っている」ことがたくさんつまっている「あれ」。歯医者で「奥歯」ということばが思い浮かばず、「あれが痛いんです」と言えば、医者は「奥歯?」と聞き返すだろう。まさか淋病の診察にやってきたとは思わないだろう。
 ことばには、そのことばがつかわれる状況があり、それをつかうひとの「気持ち」がある。その関係を「読み解く」(誤読する)というのは、とても楽しい。

 脱線して。
 野沢啓が『言語暗喩論』というものを展開している。私は彼の「詩絶対主義」的な論理が気に入らなくて、あれこれ批判している。いろいろな文献を引用してきて、野沢の論を補強しているのも気に入らない。「言語の発生」そのものを問題にするなら、詩だけではなくいろいろなものを取り上げるべきだろう。いろいろな文献を引用するのはいいけれど、その文献が野沢の問題にしている「言語の発生」を問題にしているのかどうかわからない。「言語の発生」の問題とは関係なく、ただ「言語」について語っているのかもしれない。「文献」を引用するのではなく、野沢の「体験」を引用して書いてほしいなあ、と思う。
 「la pinga」「強調構文」について質問したときも、私がいちばんとまどったのは、多くの人が「文献」を引用してくることだった。私は、こうつかうよ、となかなかいわない。「意味がわからなければグーグル翻訳をつかえばいい」というひとまでいる。私は「知識」ではなく、「感情」を知りたい。ことばといっしょに動いている「感情」を知りたいと思う。現実での「会話」なら状況がわかるし、発話者の声からも「情報」がつたわってくる。ところが「本のことば」では「情報」が限られている。「意味」はわかっても「感情」がわからないことがある。
 これは小説や詩だけではなく、野沢が引用してくる「文献」についても言えることだ。「哲学的著述」にも「感情」はあるはずだ。「論理」を生み出す瞬間の「感情」あるいは「意図」があるはずだと私は信じている。 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(1)

2022-01-18 10:33:47 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(1)

 フェイスブックのなかにスペイン語圏のひとたちがあつまっている「マルケスのグループ」がある。そこに書き込みをすると、ある人は言う。マルケスを理解するにはスペイン語がわからないとだめだ。カリブの歴史や風土がわからないとだめだ。
 でも、そういう批判をする前に、どうして「君はマルケスをどう理解しているか」「どの小説の、どの部分が好きなのか、その感想を聞かせてくれ」と言わないのか。
 いま、私が読んでいる『予告された殺人の記録』(ペンギンブックス)で、私は私の考えていることを書いてみよう。(これは、フェイスブックで書こうとしていることの、日本語バージョン。前回書いたことと重複する。)

「あのときは、二重に目を覚ましているような気がしたよ」その言葉を聞いてわたしは、留置場にいた彼らにとって何よりも辛かったのは、正気だったことにちがいないと思った。(92ページ、訳・野谷文昭)
《Era como estar despiertos dos veces.》Esa frase me hizo pensar que lo m s insoportable para ellos en la calabozo debi  haber sido lucidez. (ペンギンブックス、92ページ) 
 「二重/dos veces 」と「正気/lucidez 」。マルケスが、自分自身の「文体」の秘密、苦悩を語っているる。
 想像の世界は、ことばを書くことによって鮮明になる。すでにある想像を、ことばで再現する。これは世界を「二重」に目覚めさせることである。書くことによって、見えなかったものまで見えてくる。それから逃げることはできない。マルケスにとって何よりも辛かったのは、書けば書くほど現実を超えて鮮明になってしまう世界のなかで、彼がいつまでも「正気」でいることだったに違いない。
 ことばで書いた世界が「でたらめ」なら問題はない。「夢物語」ですますことができる。どこまでも「正確な現実」だから苦しいのだ。

 そして、この「二重」と「正気(正確)」は、日本語の翻訳ではなかなか指摘が難しいが、スペイン語で読むと「強調」という形であらわれていることがわかる。
 私は、このサイトでいくつかの質問をした。それはいずれも「強調構文」に関する質問である。たぶん、ネイティブであるひとたちは、それがあまりに口語的なので(日常的なので)強調構文と気づかない。(何度も質問しているうちに、何人かのひとが「強調」であると、私の感じ方を支持してくれた。)
p.61
(1) fueron a esperarlo 
(2) lo fueron a esperar
(1)を(2)と書き直すとき、マルケスはもう一度目を覚ましている。二重に目を覚ましている。「彼(サンチアゴ)」を待っているを強調している。
P 69
(3)cuandl lo viera 
(4)donde lo viera
(3)を(4)と書き直すとき、マルケスは、もう一度目を覚ましている。あした、来週、サンチアゴに会ったなら、ではなく、それがどこであれ、サンチアゴに会ったならと「緊急性」を強調している。
P 78
(5)no nos ocurrio que..(=no pensamos que...). 
(6)no se nos ocurrio que...
 (6)の「意味」をスペイン語圏のひとの多くは「思わなかった/no pensamos 」としきりに説明してくれたが、私の知りたいのは「辞書的言い換え」てはなく、そのことばをつかうときの人間の「感情/感覚」なのである。
 (5)に「se」を追加することで、それが「予想外」であることを強調している。
 (5)自体が「まさか、そうとは思わなかった」という意味になるが、(6)のように「se」がつくと、日本語でいえば「夢にもそうとは思わなかった」くらいの、もっと予想外、意識できない感じになると、私は感じている。(そこまでの回答を聞き出すには、私のスペイン語では不可能だった。)
 マルケスには、単に「事件」を報告しているのではない。事件の背後にある「意識の運動」を書いている。「事件」を書くのは、一度目覚めること。その「事件」の登場人物の意識がどう動いているかを書くのは、もう一度目覚めること。「二重に」目覚めること。
 マルケスは、殺人事件の経緯を書いているのではない。新聞報道なら「事実関係」だけでいい。しかし、小説だから、人間を描かないといけない。人間とは「意識」のことである。マルケスは「事実」と「意識」を組み合わせる。「二重」に書く。そして「意識」の方を重視している。
 「事件」だけではなく、その「事件」に関係するひとびとの「意識」(精神/心情)の全部が理解できたとしたら、それはとても苦しいことだ。裁判なら、だれが「有罪」であるかわかれば決着する。しかし、小説ではだれが「有罪」かよりも、人間がどう考えたかが重要だ。彼らの苦しみは、どんなふうに解消できたのか。それとも苦しいまま生きていったのか。
 マルケスは、殺人をおかした双子の意識も、友人たちの意識も、殺人のきっかけになった娘の意識も、全部、わかっている。これでは、だれに「同情」していいのか、わからない。だれかひとりに同情していいのなら簡単だ。全部が見えてしまって、それでも「正気」でいる、正しい判断をするというのは目眩が起きそうなことだ。とても正気ではいられない。
 でも、それをマルケスは「正気」として書く。
 「強調構文」の積み重ねとして、事件をドラマチックに描く。私は、マルクスの「強調構文」のつかい方に、魅了されている。
 その魅力を、スペイン語圏の人と一緒に味わいたくて、フェイスブックで質問した。

 そして。
 いま書いたことだけでは、たぶん、私の書こうとしていることは、日本人にもスペイン語圏の人にも伝わらないが、この次に書く予定の部分で(私がいちばん好きな部分で)、「二重/dos veces 」と「正気/lucidez 」が少し違った形で繰り返されるのだ。つまり、その部分こそがマルケスがこの小説で書きたかったことだとわかるようになっているのだ。野谷の訳文でも感動したが、スペイン語で読むと、マルケスの書いていることがさらに鮮明に「ことば」そのものとしてつたわってくる。しかもそれは複雑なことばではなく、NHKラジオ講座の初級編を終わればわかることばなのだ。強い感情は、いつもつかっていることばのなかで生きている。それが、ほんとうに、手にとるようにわかる。(この文章は、したがって、次回の予告です。)

 また、私は、こんなことも思う。
 世界には「現実の世界」と「架空の世界(想像の世界)」がある。しかし、「ことば」「文体」には「架空のことば」「架空の文体」はない。書いた瞬間、語った瞬間、それは「現実に存在することば」「現実に存在している文体」になってしまう。あるジョイスの「フィネガンズウィーク」でさえも。この不思議な力の前で「正気」でありつづけるのは、とても困難なことである。しかし、多くの作家は、その「作家を苦しめる正気」と戦い、「正気」でありつづけている。
 だから文学はおもしろい。小説も、詩も。文学がおもしろいのは「ストーリー」よりも「文体」。だからこそ、ひとは知っているストーリーを何度でも読むことができる。
 「文体」は。
 たとえば、絵で説明しなおすと、ピカソとマチスが「同じ題材(たとえばバラ)」を「同じアングル」「同じ絵の具」をつかって書いたとしても、絶対に同じバラにならない。「スタイル」が違う。これは「視覚」の世界なので、わりとわかりやすい。
 これがクラシック音楽の演奏になると、私には指揮者、楽団が変わったからといってベートーベンの「運命」が違って聞こえるわけではない。私は「音楽の文体」が理解できていないからだ。
 ことばの「文体」になると、説明がぐんと難しい。「視覚化」しにくい。「聴覚化」からである。「感覚」に訴えることができない。ほんとうは感情が、意識が動いているが、それには「気づきにくい」。
 たまたまスペイン語でマルケスのことを書いているので、スペイン語を例に言いなおすと。
 日本語とスペイン語はまったく違う言語である。だから違いがあるということがわかる。しかし、同じスペイン語でも、マルケスとジョサでは「文体」が違う。そして、その違いは日本語とスペイン語の違いよりも大きい。偉大な作家は、共通言語ではなく、それぞれ個別の「マルケス語」「ジョサ語」で書いているからだ。日本語でいえば「鴎外語」と「漱石語」「村上春樹語」がちがうようなものだ。
 文学は、旅行でつかう「外国語」とはちがうのだ。

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ガルシア・マルケス ことばの選択(3)

2022-01-16 12:08:35 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス ことばの選択(3)

 どんな小説にも忘れられない文章がある。『予告された殺人の記録』)(新潮社、1983年4月5日発行)の92ページ。殺人犯の双子の兄弟は、この記録の話者と対話している。

「あのときは、二重に目を覚ましているような気がしたよ」その言葉を聞いてわたしは、留置場にいた彼らにとって何よりも辛かったのは、正気だったことにちがいないと思った。(92ページ)

 「二重」と「正気」。マルケスが、自分自身の「文体」の秘密、苦悩を語っているように聞こえる。
 想像の世界は、ことばを書くことによって鮮明になる。すでにある想像を、ことばで再現する。これは世界を「二重」に目覚めさせることである。書くことによって、見えなかったものまで見えてくる。それから逃げることはできない。マルケスにとって何よりも辛かったのは、書けば書くほど現実を超えて鮮明になってしまう世界のなかで、彼がいつまでも「正気」でいることだったに違いない。
 ことばで書いた世界が「でたらめ」なら問題はない。「夢物語」ですますことができる。どこまでも「正確な現実」だから苦しいのだ。

 そして、この「二重」と「正気(正確)」は、日本語の翻訳ではなかなか指摘が難しいが、スペイン語で読むと「強調」という形であらわれていることがわかる。
 スペイン語はことばの順序が恣意的である。自由が利く。だからマルケスは語順を工夫している。副詞節を導くときのことばにも工夫しているし、日本語で言う「副詞」にあたるかもしない「まさか」のようなことばを巧みにつかっている。マルケスは「強調構文」をつかう達人なのだ。「強調構文」というのは、いわば「二重に目覚める」感じ、見えているのに、そのさらに先(深部)が見える。見えなくていいものまで、見せられてしまう。ここで、「正気」を保つのは難しい。でも、マルケスは「正気」を保って書き続けた。
 また、私は、こんなことも思う。
 世界には「現実の世界」と「架空の世界(想像の世界)」がある。しかし、「ことば」「文体」には「架空のことば」「架空の文体」はない。書いた瞬間、語った瞬間、それは「現実に存在することば」「現実に存在している文体」になってしまう。あるジョイスの「フィネガンズウィーク」でさえも。この不思議な力の前で「正気」でありつづけるのは、とても困難なことである。しかし、多くの作家は、その「正気」と戦い、「正気」でありつづけている。
 だから文学はおもしろい。小説も、詩も。

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ガルシア・マルケス ことばの選択(2)

2022-01-14 11:13:55 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス ことばの選択(2)

 ことばは、ほんとうにおもしろい。ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語版「Cronica de una muerte anunciado 」のなかに「la pinga」という名詞が出てくる。「男性性器」である。しかし、「la pinga」は「女性名詞」。どうして? 男性性器は男性しかもっていない。(もちろん、手術すれば、男性だからといって「男性性器」をもっているわけではないし、女性だからといって「男性性器」をもっていないとはいえないが、そこまでは考えない。)
 そこで、マルケスのサイトで質問してみた。いろいろな回答があったが、多くのひとは疑問に思っていない。最初から「女性名詞」ということで、気にしていない。
 ところが。
 ひとり、こう教えてくれた人がいる。Wendy Sanchez というベネズエラの女性。

En cuanto a la pinga, es el termino coloquial usado en algunos países latinoamericanos para nombrar el órgano sexual masculino, así como muchas palabras más, ya que tenemos la costumbre por tradición y más por un tema de tabú, nombrar las partes intimas femeninas y masculinas con otros nombres y no por los correctos.

 ことばはタブーと関係している。「文化人類学」をふと思いだした。たしかにセックスは、人間のタブーの最大のものである。そのため、いろいろな社会に、いろいろな規則がある。ことばも、どうしても「制約」を受ける。いつでも「el pene 」をつかうわけにはいかない。だから、ときには「隠語」を使用する。
 そのとき。
 何らかの「親密な感情」をこめたくなるのが人間である。男の場合、セックスの対象はふつうは女性。だから大切なものに「女性の名前(たとえば自分の好きな女性)」をつける。親密感、をあらわすためだ。簡単にいえば、私が自分のちんぽを「ナスターシャ・キンスキーの宝物」という具合。ナスターシャ・キンスキーとセックスしたことがあるわけではなくて、もちろん、それは夢なんだけれどね。ここまで言ってしまうと、わけがわからなくなって、詩になってしまうが。そうならないように、簡単に「la pinga」と言うわけだ。これなら、男同士でセックス自慢ができるというわけだ。「ナスターシャ・キンスキーの宝物が暴れたがっている」なんてね。

 あ、Wendy Sanchez が、そう書いているわけではありません。私は「タブー」と「親密」ということばから、かってにそう考えたということです。スペイン語がすらすらわかるわけではないので、勝手気ままに「誤読」する。また、マルケスが73ページで「la pinga」をタブーと関係づけて書いているわけでもありません。ただ、単に「女性名詞」であることのおもしろさ、その理由が理解できたので、メモとして書いておくだけです。

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ガルシア・マルケス ことばの選択

2022-01-11 10:17:27 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス ことばの選択

 ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」をスペイン語版「Cronica de una muerte anunciado 」で読んでいる。野谷文昭の訳を見ながら、スペイン人に質問しながらなのだけれど。
 双子の兄弟が、サンチアゴを殺そうと思っている。それを知ったクロチルデ(牛乳屋の女)がなんとかサンチアゴを助けたいと思い、店にくる客に「サンチアゴのこのことを知らせて」と頼む。その部分に、こう書かれている。

a todos el que pudo le pidio prevenirlo donde lo vieran.

  この「donde lo vieran 」の「donde 」がわからない。野谷は「彼を見かけたら」と訳している。私の初級スペイン語(NHKのラジオ講座の初級編)レベルでは「cuando」になる。「彼を見かけたとき」。スペイン人の友人も「cuando」と書く、と言っていた。
 もちろん全体を読めば「見かけたとき」ということはわかるのだが、なぜ「donde 」なのか、その「理由」がわからなかった。こういうとき「donde 」をつかうのは一般的かとフェイスブックのマルケスのサイトで質問してみた。
 すると、そういうつかい方はすることがあるという反応があった。殺人がおこなわれるのはサンチアゴのいる村に限られている。これは「en un lugar 」という意味を含んでいるという答えもあった。
 私は、このことばに触れて、はっと気がついた。
 殺人は、きょう、いますぐにでもおこなわれようとしている。双子はサンチアゴを待ち構えている。「いつか(時間)」はあす、来週、来月ではない。あいまいではない。「いま」なのだ。「いつか、サンチアゴに会ったら」ではだめなのだ。「いますぐに、どこでもいいから、サンチアゴに会ったら」の「どこでもいいから」が強く意識されている。広い東京ではなく、小さな村なのだ。「どこ」も限られているが、それは「いま」という「時」よりも「広い」。そういう意識があるから「それがどこであれ、サンチアゴに会ったら」という「含意」が「donde 」にはあるのだ。
 マルケスは、あえて、つまり積極的に「donde 」をつかっている。無意識ではなく、意識的に、クロチルダの「無意識」を言語化しているのだ。「いつ、いますぐに」はクロチルダの「無意識」になってしまっているので、言語化されないのだ。言語化されない「無意識」が「donde 」のなかにあるとつたえるために、あえて「donde 」をつかっている。
 いやあ、すごいなあ。
 マルケスというと「魔術的リアリズム」が有名だが、それが「魔術的」であるのは、こういう細部にこだわったことばの選択があるだろう。

 ところで。
 「donde =場所」ということばから連想したのが、日本語にもこの「donde 」に類似した表現があるなあということ。
 「彼に会った時(彼を見た時)」のかわりに「彼に会った場合(彼を見た場合)」のように「時」と「場合」が区別なくつかわれる。すくなくとも単独で取り上げると、区別がない。マルケスの問題の文章も「彼を見た場合」というふうに訳すことができるのかもしれない。でも、「場合」は三音なので、「時」より間延びしてしまう。緊急な感じがしないなあ。
 そこで、再び野谷の訳文にもどるのだが、な、なんと「時」も「場合」もないではないか。「彼を見かけたら」。意識のスピード感が、そのまま再現されている。いやあ、いい訳だなあ、と心底、感心してしまった。

 以前、入院中に野谷の翻訳を読んでいたら、突然「謹賀新年」「インチ」ということばが出てきて、この謹賀新年は何? なぜセンチではなくインチと思ったのだが、物事が解決したときに、万事これでよし、めでたい、という意味で「謹賀新年(Feliz Nuevo Ano 」をコロンビアではつかうことがあるという。また、いまはメートル法だが、以前はインチをつかっていたということだった。マルケスは状況にあわせたことばを選択しているし、野谷はそれに配慮した訳を考えているということがわかった。ただし「謹賀新年」は直訳(?)ではなく、なにかしらの「意訳」が考えられてもいいのではないかと思う。日本語で読んできて「謹賀新年」に出会うと、やっぱりびっくりしてしまう。年明けでもないのに、なぜ「謹賀新年」と悩んでしまう。野谷は「謹賀新年、めでたし、めでたし」と訳しているのだが、せめて「めでたし、めでたし、謹賀新年」にしてもらえたら、「めでたい」が先に来て、「語呂合わせ(?)」、あるいは「地口」で「謹賀新年」と言ったことが伝わるのではないか。  

 

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「予告された殺人の記録」の訳文

2022-01-03 21:36:23 | その他(音楽、小説etc)

 ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」。野谷文昭の翻訳で新潮社から出ている。私が持っているのは1983年4月5日の発行。
 信じられないような「誤訳」がある。バジャルド・サン・ロマンから大事な家を大金で奪われた老人が「二年後」に死亡する。しかし、翻訳では「二カ月後」になっている。「底本」が違うのかもしれないが、私のもっているスペイン語版は「2年後 dos años después」である。「dos meses después 」ではない。私の読書の手伝いをしてくれているスペイン人は、私とは違う版を持っているのだが、「dos años después」である。別の友人が送ってくれたPDFでも「dos años después」である。
 この初歩的な「誤訳」はどうして生まれたのか。
 また、「二カ月後」ならば、ストーリーの展開は違ってきたかもしれない。大騒ぎになって、バジャルド・サン・ロマンは結婚できず、したがって小説の一番の事件「殺人」が起きなかった可能性もある。
 いまはどうなっているか知らないが、問題が多い訳である。

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マルケスの文体

2021-12-23 10:54:26 | その他(音楽、小説etc)

マルケスの文体
 マルケス「予告された殺人の記録」はルポルタージュ風の、簡潔な文体の作品である。「百年の孤独」「コレラ時代の愛」「族長の秋」のような、まだつづくのか、という凝った文体が特徴的なわけではない。
 しかし。
 写真は、小説の最初の方の部分だが、「era una costumbre 」以下の部分がいかにもマルケスらしい。(長いので、写真で紹介。)
 現実にはピストルの弾がクロゼットを突き破り、壁をぶち抜き、隣の家、広場を超えて、教会の奥の等身大の石膏像を粉々にしてしまうということはないだろう。まるでミサイルだ。この文章を成り立たせているのが、途中の「con unestruendo de gerra」だね。「戦争のときの轟音のような」とでも言えばいいのか。おおげさだけれど、このおおげさが全体を生き生きさせている。この挿入がなければ「絵空事」だけれど、その「絵空事」を現実にかえることばの運動。これは、文学にだけ許された特権。
 こういうのって、やっぱり好きだなあ。笑い出してしまう。

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サラマーゴの文体

2021-11-23 10:43:27 | その他(音楽、小説etc)

  何度か書いてきたことだが、サラマーゴの文体(『Ensayo sobre la ceguera 』)には驚かされる。

 主人公の女(眼科医の妻)が道に迷う。そして、帰り道を発見する。そのとき、それまでの三人称(ただし、会話では一人称)が、突然二人称に変わる。

 270ページから271ページにかけて。

 

 No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección, no teneis más que seguir por esta calle hasta una plaza, ahí cuentas dos calles a la izquierda, doblas después en la derecha, esa es la que buscas, de numero no tehas olvidado.

 

 「No estaba tan lejos como creía, sólo se había desviado un poco en otra dirección」までは、作家のナレーション。状況説明。動詞は三人称。「estaba/se había desviado 」「彼女が」思ったほど遠くにいるのではない、ほんの少し反対方向へきてしまっただけなんだ。そのあと、「no teneis más que seguir por esta calle calle hasta una plaza ・・・・」。動詞に二人称。「teneis」主語は「君」。「君は」この通りを広場までまっすぐに行かなければならない。(以下の動詞も、二人称)

 つまり、ここでは主人公は、自分自身に対して「君は」と呼びかけている。これは彼女が道に迷った混乱から立ち直り、自分自身に、「こうしろ」と命令しているのである。いわば、客観化。この客観化によって、私は(読者は)、あ、主人公は混乱から立ち直りつつあるとわかる。

 私は、ここで、目が覚めました。

 以前、別の女(突然あらわれた女)が放火するシーンで「時制」が過去形から現在形に変わることを指摘したが、ここでは「人称」が突然変化する。私は、スペイン語の初心者(NHKラジオ講座の入門編がまだ終わらない)ので、これまでこういう「人称」の変化があったかどうか気がつかなかったが、ここでは、はっきりと気づいた。

 サラマーゴは、時制や人称を変化させることで、読者を「物語」そのものに引き込んでいる。ストーリーそのものもおもしろい(だから、映画にもなった)のだが、「文体」そのものが「小説」(文学)にしかできないことをやっている。

 これは、おもしろい、としか言いようがない。

 

 で、ね。

 ここからちょっと自慢。

 私はこの小説をスペイン人の友人に手伝ってもらいながら読み進んでいるのだが、私が「270ページから271ページにかけて、動詞の人称が変わっている。ここが、この小説のおもしろいところ。とても感心した」と話したのだが、私のスペイン語のせいもあって、その小説の「醍醐味」がなかなかつたわらない。つまり、友人は人称の変化を気にせずに読んでいた。無意識に、なんでもないことのように読んでいた。私が「もっと先から読み直してみて。突然、TU(君)が出てくるよ。とてもおもしろいと思わないか。サラマーゴの天才がここにあらわれている」と繰り返し、「彼女は、ここで自分自身と頭の中で対話している」と言いなおして、やっと私の言いたいことの「意味」が通じた。友人もびっくりしていた。彼女自身が対話している、ということは意識しなかったようなのだ。

 何が言いたいかというと。

 私は、どうも、ふつうの人が見落とす「文体の変化」に敏感らしいのだ。

 外国語でこうなのだから、日本語では、もっと気になるんだよなあ、この「文体の変化」。

 

 脱線からもどると。

 これも何度か指摘したことだけれど、雨沢泰の訳文は、当然のことのように、この「文体の変化」を訳出していない。

 「彼女は思ったよりも遠ざかっていなかった。別の方角へ大まわりしていたからだ。この通りをまっすぐ広場まで歩き……」。「心の声/頭の中の対話」が聞こえてこない。だから、喜びもつたわらない。心の躍動がつたわらない。

 

 

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サラマーゴの文体、時制の選択

2021-11-17 10:25:04 | その他(音楽、小説etc)

サラマーゴの文体、時制の選択

 

 きのう書いたことのつづき。

 サラマーゴは突然あらわれた女(私は、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」といった女が「生まれ変わった」姿として読んだ)が放火するシーンは現在形で書かれている。

 私が感動したと紹介した部分(228ページ)、女が「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と言った部分からはじまる文章さえ、

 la mujer habló, A donde tu vayas, ire yo

 女は言った(habló)、「あなたと行くところならどこへでもついて行きます」と過去形で書かれている。聞いた眼帯の老人も、

 El vieno de la venda negra sonrió

 黒い眼帯の老人は笑った(sonrió)と、その反応を過去形で書いている。

 そういうことを理解すると、放火シーンがなぜ現在形なのかがわかる。

 さらに、生々しさだけで言うなら、医師の妻たちが強姦されるシーンはどうか。210-211ページ。

 La mujer del medico se arrodilló           

 医師の妻はひざまずいた(se arrodilló)

 やはり過去形なのだ。なぜ、生々しいシーン、そこれこそスケベごころを刺戟するシーンが過去形なのか。ここが現在形で書かれていたら、私なんかは、スケベだからもっと興奮する。若いときなら勃起したかもしれないし、オナニーをするために読み返したかもしれない。

 だが、そんなところ(描写)はサラマーゴにとって重要ではなかったのだ。こんなところで、思春期の少年が興奮するように興奮してもらっては困るのだ。人間の「本質」とは関係がないのだ。「生きる」ということとは関係がないのだ。

 この小説の中に、女は何度でも生まれ変わる、というようなことが書いてある。(サングラスの少女が言う。)「生まれ変わる」瞬間、新しい自分が生き始める瞬間、それは絶対に「過去形」ではないのだ。こういうことこそが、「文体の思想」である。ことばは、その人が到達した思想の到達点を示すといったのは、誰だったか。三木清だったか。

 そうした「思想としての文体」を訳出しない限り、それは翻訳とは言えない。

 

 私はポルトガル語ではなく、Basilio Losadaという人が訳したスペイン語版を読んでいるのだが、ポルトガル語とスペイン語は姉妹言語だから、翻訳するときに「時制」を変えるということはしていないだろう。サラマーゴの「文体」は正確に踏襲されているはずである。

 意味というのは「ことば(単語)」のなかにあるのではなく、「文体」のなかにある。それは、そして「名詞」のなかにあるだけではなく、「動詞」のなかにこそあるし、その「動詞」は「時制」という複雑な「味」を持っている。これを読み取ること、味わうことが文学の楽しみだと私は思っている。

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サラマーゴの文体

2021-11-16 10:23:51 | その他(音楽、小説etc)

サラマーゴの文体。
245ページで、ハッと衝撃を受ける。
上から二行目。
La mujer ha salido ....
現在完了形。言わば、過去形。ただし、意識は現在につづいている。
それが
Va por el corredor
と現在形にかわり、クライマックスの放火のシーンでは
La mujer está de rodillas....
以下、現在形がつづく。
ナレーションの文体を変えているのだ。
日本語でいえば、「した」でも意味は通じる。実際、日本語訳は過去形である。
でも、現在形の方が臨場感がある。
女の行動だけれど、自分が行動している気持ちになる。
現在完了形→現在形→現在形の連続と変化していくところが、本当に素晴らしい。
文学の醍醐味は、こういうところにある。
よく読むと、こういう文学的仕掛け、しかも本質的な仕掛けが、この小説にははりめぐらされている。
以前書いたが、最初の信号の描写から、それは始まっている。
これを無視した(気づかない?)雨沢泰の訳文は、ちょっとひどすぎる。 

 
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