詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

葉山美玖『スパイラル』

2017-04-04 09:56:37 | 詩集
葉山美玖『スパイラル』(モノクローム・プロジェクト、2017年04月20日発行)

 葉山美玖『スパイラル』は前半と後半でことばの「調子」が異なる。前半はことばに「希望」のようなものをこめている。ことばが「現実」を別の次元へ連れて行ってくれることを願っているような詩だ。読者に、一緒に「異次元」(詩の世界)へ行こうと呼びかける作品。たとえば「終電」。

六本木のバーで偶然彼女に遭った
彼女は相変わらず化粧っ気のない顔に
燃えるような朱色のカーディガンをはおって
耳たぶにはしずく型の
アクアマリンのピアスが透けていた

 「六本木」すらが「現実」ではなく現実にスポットライトを当てる虚構。「耳たぶにはしずく型の/アクアマリンのピアスが透けていた」は、そういう虚構でしかとらえられない世界への入り口ということになる。
 詩は、こういうところからはじまるかもしれない。
 最初は、たいていの人が現実を違った角度から見せてくれることばを詩と思うものである。
 でも、私はこういう「異次元への誘い」というものは、あまり好きではない。

 後半は、逆である。「異次元」を「現実」に引き戻す。「異次元」といっても、まあ、「現実」なのだけれど、その「現実」をもっと自分のことばの方へ引き寄せる。そうすると「ことば」が葉山の「肉体」になる。おっ、もっと見たい。「覗き見したい」とそそられる。
 「あまえない」は、こうはじまる。

一万円札なんまいかつかって
あなたに謝りに行った
そしたらそこには
あなたの一万円札なんまいかで
着飾ったおんながいた

 「一万円」は、だれにでも共通する「一万円(貨幣)」なのだが、「一万円札なんまいか」とつながることで、葉山にしかわからない「現実」になる。わからないといっても、それは正確に何万円かわからないということであって、「なんまいか」ということばにこめた苦しみはわかる。思わず、わっと叫んで身をのりだしてしまう。「わからない」と「わかる」がいっしょになって、そこにある。「もの」が存在している。こういうものが「現実の肉体」だと思う。一万円札の「札」がとても強い。
 これを、どこまで、どうやって持続するかが、とてもむずかしい。「耳たぶにはしずく型の/アクアマリンのピアスが透けていた」のように、異次元のことばに頼るわけにはいかない。
 そこは異次元、だれにでも共通するけれど、だれにも共通しない葉山だけの世界、葉山の個人的体験だから、安心して、好奇心を発揮できる。覗き見したくなる。
 ところが、葉山のことばは、ここからこうつづいていく。

わたしはおとこのことをひっしに考える
おとこもわたしといることが希望だと言った
でもあなたは
うそをつくからいやだというひと
一緒にいると絶望するというおんなと
一晩過ごすためにタクシーに乗って行った

 ほんとうのことを書いているのだろうけれど、「一万円札なんまいか」のような「わからないけれど、わかる」ということばがない。むしろ「わかるけれど、わからない」という感じがしてしまう。そんなこと、私(読者、谷内)の知ったことではない。好奇心が褪めてしまう。葉山の「色」が消えて、一般的な男と女になってしまう。
 その直後の、

わたしはことばを信用しない
一万円札なんまいかを信用する

 ここも、「わからないけれど、わかる」。言い換えると、「知りたくなる」。「わかる」というのは、たぶん読者の方が作者の方へ近づいてくのである。「知りたいこと」だけを探して近づいていくとき、「わかった」と思ったことが勘違いであっても、まあ、「わかった」なのである。
 「作者を知る」のではなく、「自分を知る」。それが「わかる」。
 葉山は、こういう私のような「読者のわがまま」とは、まだつきあったことがないかもしれない。
 私のこの感想を読み、きっと「谷内は何もわかっていない」と思うだろう。
 でも、そういうものなのだ。ひとはだれでも他人のことなんか知りたくない。自分のことで忙しい。他人のことなんかわかりたくない。わかると、めんどうになる。
 でも、ひとはひとのことばを読む。私は他人のことばを読む。

あたしはしゅんとして新幹線に乗った
景色にはまるで意味がなかった

 「景色にはまるで意味がなかった」というのは葉山の体験だが、このことばによって「目覚めてくるもの」がある。それは葉山の体験ではなく、自分自身の体験である。あ、こういう世界を覚えている、と瞬間的に思う。私は私の覚えていること、覚えているけれどことばにすることを知らなかったものを求めて読む。
 「景色にはまるで意味がなかった」が強い。
 また「八月の雨」には、こういう行がある。

千円札をレジに出すと
かさついた掌に載ったお釣りは
青白い百円玉ひとつと
黄色くひかる十円玉むっつだった

 「かさついた掌」「青白い」「黄色くひかる」が「異次元への入り口」としての「虚構」と私が呼んだもの。それを書きたいのかもしれないけれど、そうすると「現実」が遠くなる。ここでは、読者が葉山に近づいていくのではなく、葉山が読者に近づいてくる。こういうとき「わかる」けれど、ひとは「わからない」と言うと思う。少なくとも、私は「わからない」と言う人間である。「異次元への入り口」を書くならもっと肉体を覗かせるものでないと弱いし、虚構に整理されてしまう。「論理」になる。

スパイラル (ブックレット詩集3)
クリエーター情報なし
らんか社
コメント (1)
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