詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田兼士「すみよっさん」、和田まさ子「語ることは」

2017-04-08 10:32:07 | 詩(雑誌・同人誌)
山田兼士「すみよっさん」、和田まさ子「語ることは」(「別冊 詩の発見」2017年03月22日発行)

 きのう読んだ山田兼士「すみよっさん」について、青木由弥子さんが「娘をお嫁さんに出す母親の視点かな~と思いながら、読みました。男性が女性視点で書く、ある種の惑乱の心地よさ。」と指摘してくれました。(フェイスブック)
 作者の山田が「青木さん、ありがとうございます。みごとな解説ですね。」と返信している。
 あ、そうだったのか、と私はびっくりした。二連目の「彼」は一連目とは関係なく、夫だったのか。「彼」というのは「恋人感覚」が残っているからかな?
 そのあとの「コメント」にもいろいろ教えられたのだけれど、教えられれば教えられるほど私は横道にそれてしまう。想像が広がる、と言うのかもしれないが。その結果、私が最終的にたどりついたのは、山田の夫婦関係には「手を引く/手をつなぐ」(手と手が直接ふれあう)ということがないのかなあ、という「好奇心」(覗き見趣味)。「その日から私たちの大社は/すみよっさんになった」は手と手ではなく、こころとこころが結び合っていることをあらわしているけれど、うーん、この手と手(肉体の結びつき)を超越した心境に的確に反応するというのは、女性の方が精神的な生き物だから? (などと、かなり差別的なことも、私は思ったりするのです。)

 そういうことと関係があるか、ないか。
 きょうは和田まさ子「語ることは」について書きたい気持ちになった。私が和田の詩をはじめて読んだのは「現代詩手帖」の投稿欄。「壺」のことを書いてあった。華道か茶道かわからないけれど、何かそういう「おけいこごと」の師匠が「壺」になっている。その「壺」と会話する、という感じの作品。そのあとの同僚が「金魚」に変身する詩もとてもおもしろかった。不思議な「人間関係」が見えるので、もっと「覗き見したい」という欲望にさそわれるのだ。「覗き見したい」という欲望は、あっ、これは「見たことがある」と感じさせるからかもしれない。奇想天外なのだけれど、リアルなのだ。
 でも、
 最近は、そういう作品をあまり読むことができなくなった。
 作風が変わってきた。
 作風が変わってきてからは、読む機会も減ったのだけれど。「語ることは」の一連目は、こうなっている。

床に積まれた本を引きあげると
からだから滴っている
海水のような逡巡を
ぴしぴしと振り切って
逃げるための準備

 「本」と「からだ」の関係がおもしろい。「本のからだ」と「わたし(和田)のからだ」が重なる。本はそのまま和田である、と思う。「滴る」は本の描写ではなく、和田の肉体の実感。とてもいいなあ、と思う。
 同時に、私が「覗き見したい」と思っていたころの和田は「逡巡」というようなことばはつかわなかったと思う。「人間関係」が「歪まずに(変形せずに)」、奇妙に「精神的」になっている。本が和田になる、和田が本になるというのは、人間が壺や金魚になるのとおなじく「変身」だけれど、「関係」を「精神」にとじこめて処理すると「逡巡」という抽象になるのだと思う。この抽象を詩と呼ぶひともいるのだけれど。
 二連目。

冬から春の始まりの五センチに糊しろをつける
その部分だけ現実は混濁する
沈黙したい
語ることは臓腑に重いことだから
人のことばにただ頷く

 「糊しろ」はおもしろいと思うけれど、「現実は混濁する」は、いやだなあと感じる。「逡巡」とおなじように、「頭」で整理したことばという感じがする。「臓腑」という「肉体」が出てきても、私はどうも実感できない。「臓腑」というのは見えないところにあるからかもしれない。腹が痛かったり、重かったりすると、たしかに「臓腑」はあるのだなあとは思うけれど、それを意識するのは確実に肉体の状態が悪いときなので、そういうときことばを動かす気持ちにならないからかもしれない。

この町の街路の余祿のようなベンチに
のせている
経験と失敗
生と死
怨恨と恩義
反意語になるもののいくつかは
痛みを伴う

 えっ、どんな痛み?
 私は、つまずく。
 そして、和田はだんだん荒川豊美のようになっていくのかもしれないなあ、と思う。
 新井豊美は『いすろまにあ』がとても楽しかった。おんなっぽかった。だんだん精神語(?)が増えてきて、おんなっぽさが消えて行った。その増加に正比例するように新井豊美の評価は高くなって行ったのだけれど、私は、とても不思議な気がした。
 私はだんだん「覗き見したい」(隠している部分を見てみたい)という欲望を失って行ったからだ。
 最終部分。

やさしいことばをかけられても
近くにいる者が心底
怖い

 ときどき聞くことばだけれど、「実感」できない。「覗き見」した感じがしない。
 山田の詩が「男性が女性視点で書く」という詩なら、この作品は「女性が男性視点で書く」になるのか。そのとき見えるものは何だろう。「男性が理想と思っている女性像」でないといいのだけれど。

わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
コメント
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