藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(2)(七月堂、2017年04月01日発行)
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』の「その友人」という詩の全行。
最後の一行は、「いま」の思いなのか。それとも友人が「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読んだときの思いなのか。
私は、「いま」ではなく「あのとき」の思いと思って読んだ。
萩原朔太郎の「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むなんて、許せない。それが悲しくて涙を流した。「こいつとはこれで終わりだ」と思った。それほど朔太郎に、あるいは詩にどっぷりとつかっている、ということだろう。「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むのは、どこかの「訛り」なのだ、と思うこともできるかもしれないが、やっぱり、そんなことはできない、と。
で。
「こいつとはこれで終わりだ」と思ったはずなのに、「いま」、
これが、なんともおもしろい。
きのう読んだ詩のなかには、
という行があった。もう会わない(これで終わりだ)はずが、思い出して、思い出のなかで出会ってしまう。それは、どういうことだろう。「これで終わりだ」と思った私ではなくなって、思い出してしまう私になってしまったということか。「これで終わりだ」と思った私のままではいられない。ひとは、日々、かわっていく。だから、こういうこともありうる?
というふうに、「理屈」を重ねていくと、なんだかややこしくなるのだけれど。詩から遠ざかってしまうのだけれど。
ここで思い出されているのは何だろう。
友人が朔太郎の詩を「ぬまざわちほう」と読んだこと。それを聞いて私が泣いたこと。それだけではなく「こいつとはこれで終わりだ」と思ったことまで思い出してしまう。思い出すとき、その「思い出」は遠くにあるのではなく、藤井の「肉体」のなかにある。「いま」、「肉体」と切り離せないものとして、ある。
それも含めて「私だってもう二度とこの私ではない」ということか。つまり、「あの時の私」は、こういうことを「思い出す私」ではなく、リアルタイムで「思う私」だった。微妙な「ずれ」がある。
そうだとすると。
何かを思うこと、そしてそれをことばにすることは、「いまの私」が「いまの私ではなくなる」ということである。「思っている」ままに書く(ことばにする)ことは、書いた瞬間(ことばにした瞬間)「思ったこと」になってしまう。「思ったこと」を「確認している私」が生まれてきてしまう。
そういう「理屈」を藤井は書いているわけではないのだが。
どうことばにすればいいのかわからないのだけれど、藤井の詩を読むと、「私だってもう二度とこの私ではない」という感じが、ことばといっしょに生まれている感じがする。「私ではなくなった私」がことばといっしょに生まれてきて、それが「生きている」感じがする。次々に「私だってもう二度とこの私ではない」のだから、それが「死んで行く」なら、「生まれてくる私」だけが生きていることになるが、どうもそうではなく、死なずにどんどん生きていく。「どんどん生きていく」というのは正しい日本語ではないのだが、「生まれ方」が生々しいので「どんどん」ということばで強調したくなる。
そして、この「生々しさ」は「理屈」ではなく、「肉体」で「実感」する感じとしか言いようがない。
詩集のなかに「生々しく死んでいった」という作品がある。「死んでいった」なら死んだ人(もの)忘れられるのだが、この世に存在しないのだから忘れられてしまっても何も問題はないのだが、「生々しく」という感覚は死なない。「生々しく」だけは、人が生きている限りいつでも「肉体」を揺さぶる。「生々しい」ものしか、人間は感じ取ることができないからだろう。その死なずに生き残る「生々しさ」、あるいは「生々しく」が強烈なのである。
で。
私は「生々しさ」と最初に書き、あとで藤井の「生々しく」ということばで、私の考えたことを修正しつつあるのだが。
書いてきて気づくのだが、やはり藤井は作者だけあって、ことばを正しくつかっている。ほんとうは「生々しく」ということばで、私は感想を書き直さなければならないのだけれど、長い間パソコンに向かっていることができないので、書き直さずに「補則修正」する。
「生々しさ」は「名詞」であるのに対し「生々しく」は「副詞」、「副詞」は「動詞」に結びつく。「動詞」のあり方を説明する。「動詞」というのは、変化をあらわす。「私だってもう二度とこの私ではない」というのは「状態」の説明、つまり「名詞」ではなく、「動詞」そのものなのだ。
「動詞」を藤井は書いているのだ。人間は「動詞である」ということを、藤井は書いている。「生々しい」感じがするのは、人間を「名詞」ではなく「動詞」として描いている、とらえているからだ。
きょうの感想は、走りすぎて乱暴かもしれない。
でも、書き直すと違ったものになる。だから、書き直さない。走りながらでないと書けない感想もある。
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』の「その友人」という詩の全行。
十何年ぶりかで自宅にやって来た友人が、酒を飲みながら萩原朔太郎の「沼沢地方」
を朗読した。友人は聞いたこともないような訛りで、あるいは節でもつけているのか、
それを朗読した。するとぼくは、無性に泣けて涙が出てしまった。その抑揚は、その
友人や萩原朔太郎の出身地の言葉でもなさそうなのに。しかし、ぼくはどこの訛りか
も尋ねなかった。友人も何も言わなかった。友人はただ不思議そうに、泣いているぼ
くを見ていた。あの時、あの詩を「ぬまざわちほう」と友人が読んでいたのをぼくは
思い出した。それともあれは「ぬまざわ」という、彼が作った架空の土地の訛りだっ
たのか。それにしても、なぜぼくはあの時泣いたりしたのだ。友人は今、その「ぬま
ざわ」痴呆にいるのだろうか。そして友人がぼくを忘れてしまって悲しくなったのだ
ろうか。
こいつとはこれで終わりだ。
最後の一行は、「いま」の思いなのか。それとも友人が「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読んだときの思いなのか。
私は、「いま」ではなく「あのとき」の思いと思って読んだ。
萩原朔太郎の「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むなんて、許せない。それが悲しくて涙を流した。「こいつとはこれで終わりだ」と思った。それほど朔太郎に、あるいは詩にどっぷりとつかっている、ということだろう。「沼沢地方」を「ぬまざわちほう」と読むのは、どこかの「訛り」なのだ、と思うこともできるかもしれないが、やっぱり、そんなことはできない、と。
で。
「こいつとはこれで終わりだ」と思ったはずなのに、「いま」、
あの時、あの詩を「ぬまざわちほう」と友人が読んでいたのをぼくは思い出した。
これが、なんともおもしろい。
きのう読んだ詩のなかには、
あなたにはもう二度と会うことはないだろう。しかし、それでいいのだ。私だって
もう二度とこの私ではないのだから。
という行があった。もう会わない(これで終わりだ)はずが、思い出して、思い出のなかで出会ってしまう。それは、どういうことだろう。「これで終わりだ」と思った私ではなくなって、思い出してしまう私になってしまったということか。「これで終わりだ」と思った私のままではいられない。ひとは、日々、かわっていく。だから、こういうこともありうる?
というふうに、「理屈」を重ねていくと、なんだかややこしくなるのだけれど。詩から遠ざかってしまうのだけれど。
ここで思い出されているのは何だろう。
友人が朔太郎の詩を「ぬまざわちほう」と読んだこと。それを聞いて私が泣いたこと。それだけではなく「こいつとはこれで終わりだ」と思ったことまで思い出してしまう。思い出すとき、その「思い出」は遠くにあるのではなく、藤井の「肉体」のなかにある。「いま」、「肉体」と切り離せないものとして、ある。
それも含めて「私だってもう二度とこの私ではない」ということか。つまり、「あの時の私」は、こういうことを「思い出す私」ではなく、リアルタイムで「思う私」だった。微妙な「ずれ」がある。
そうだとすると。
何かを思うこと、そしてそれをことばにすることは、「いまの私」が「いまの私ではなくなる」ということである。「思っている」ままに書く(ことばにする)ことは、書いた瞬間(ことばにした瞬間)「思ったこと」になってしまう。「思ったこと」を「確認している私」が生まれてきてしまう。
そういう「理屈」を藤井は書いているわけではないのだが。
どうことばにすればいいのかわからないのだけれど、藤井の詩を読むと、「私だってもう二度とこの私ではない」という感じが、ことばといっしょに生まれている感じがする。「私ではなくなった私」がことばといっしょに生まれてきて、それが「生きている」感じがする。次々に「私だってもう二度とこの私ではない」のだから、それが「死んで行く」なら、「生まれてくる私」だけが生きていることになるが、どうもそうではなく、死なずにどんどん生きていく。「どんどん生きていく」というのは正しい日本語ではないのだが、「生まれ方」が生々しいので「どんどん」ということばで強調したくなる。
そして、この「生々しさ」は「理屈」ではなく、「肉体」で「実感」する感じとしか言いようがない。
詩集のなかに「生々しく死んでいった」という作品がある。「死んでいった」なら死んだ人(もの)忘れられるのだが、この世に存在しないのだから忘れられてしまっても何も問題はないのだが、「生々しく」という感覚は死なない。「生々しく」だけは、人が生きている限りいつでも「肉体」を揺さぶる。「生々しい」ものしか、人間は感じ取ることができないからだろう。その死なずに生き残る「生々しさ」、あるいは「生々しく」が強烈なのである。
で。
私は「生々しさ」と最初に書き、あとで藤井の「生々しく」ということばで、私の考えたことを修正しつつあるのだが。
書いてきて気づくのだが、やはり藤井は作者だけあって、ことばを正しくつかっている。ほんとうは「生々しく」ということばで、私は感想を書き直さなければならないのだけれど、長い間パソコンに向かっていることができないので、書き直さずに「補則修正」する。
「生々しさ」は「名詞」であるのに対し「生々しく」は「副詞」、「副詞」は「動詞」に結びつく。「動詞」のあり方を説明する。「動詞」というのは、変化をあらわす。「私だってもう二度とこの私ではない」というのは「状態」の説明、つまり「名詞」ではなく、「動詞」そのものなのだ。
「動詞」を藤井は書いているのだ。人間は「動詞である」ということを、藤井は書いている。「生々しい」感じがするのは、人間を「名詞」ではなく「動詞」として描いている、とらえているからだ。
きょうの感想は、走りすぎて乱暴かもしれない。
でも、書き直すと違ったものになる。だから、書き直さない。走りながらでないと書けない感想もある。
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