藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』(七月堂、2017年04月01日発行)
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』に限らず、藤井の詩の感想を書くのはむずかしい。「意味」を書いてもしようがないのだが……。
詩集の最後の詩「夜の日常」の最後の方に、
ということばがある。
まさにこの通りなのだと思う。ことばを読みながら、私は藤井に会う。しかし、それはそのことばを読んでいる瞬間だけである。もう二度と会わない。
「意味」というのは、この「二度と会わない」を否定するものだ。前に会ったことがある、いま会っている、これから会うという「時間」をつくりだし、その舞台のなかで「人間」をつないでみせる。これは強引な錯覚。人間というのは、非連続の連続。自己否定しながら動いている。生まれ変わりつづける。けっして「同じ人物」ではない。再び会うことは絶対にない。
同じように、この私も非連続の連続なのだから、たとえことばを繰り返し読んだしろ、繰り返し誰かに会ったにしろ、それは、その瞬間瞬間のことであって、どこにも「同一」はないのである。
藤井は、この非連続の連続、あるいは連続の非連続と言ってもいいのかもしれないけれど、時間を分断した場をしっかりとつかんでいる。「意味」を捏造することは簡単だが、その「意味」をたたき壊しながら「いま」を噴出させる。--と書いてしまうと、これもまた「意味」になるのだが。
ことばは「意味」(論理)になってしまう、という欠点を持っている。プラトンの時代から、「論理」という「どうすることもできない間違い」から逃げ出せない。
それでも、その「論理の間違い」をなんとかしなくてはならない。
藤井の詩は、その闘いである。「論理」ではなく、「論理」を破壊するものとしての詩。
こういう詩をどう読むべきなのか。
わからない。
でも、たとえば、「腹話術」のなかの、
という一行に傍線を引きながら、「この一行を剽窃したい。誤読して、書き換えたい」という欲望に、私は突き動かされる。たぶん、こういう「瞬間」が詩との出会いなのだ。そこに書かれている一行、そのなかにいる藤井を瞬間的に認識し、同時に否定する。藤井に出会ったのだけれど、その出会った藤井を否定して、かってに藤井を捏造し、動かす。捏造された藤井は私である。その捏造された私(藤井)のなかで、私はそれまでの私を否定する。そして、
と、ことばを読み直す(誤読する)。その誤読のなかで、こういうことはたしかにあると思い出す。藤井のことなど考えていない。私のことしか考えていない。
ことばとは考えるためのものなのだから、たぶん、こういうつかい方でいいのだろう。こういうつかい方しかできないのだろうと、私は私に言い聞かせているが、これは私の言い分であって、書いた藤井は違ったことを言いたかったかもしれない。
書いていることがだんだん袋小路に入ってきた。「その友人」という詩について書きたいのだが、一呼吸おく。あす、書くことにする。(つもり)
きょう(いま)考えていることとは違ったことになるかもしれない。きょう書いたこととはつながらないかもしれない。つながらない方が、きっといいのだとも思う。そのための一呼吸なのだから。
藤井晴美『下剤の彼方、爆発する幼稚園』に限らず、藤井の詩の感想を書くのはむずかしい。「意味」を書いてもしようがないのだが……。
詩集の最後の詩「夜の日常」の最後の方に、
あなたとはもう二度と会うことはないだろう。しかし、それでいいのだ。私だってもう二度とこの私ではないのだから。
ということばがある。
まさにこの通りなのだと思う。ことばを読みながら、私は藤井に会う。しかし、それはそのことばを読んでいる瞬間だけである。もう二度と会わない。
「意味」というのは、この「二度と会わない」を否定するものだ。前に会ったことがある、いま会っている、これから会うという「時間」をつくりだし、その舞台のなかで「人間」をつないでみせる。これは強引な錯覚。人間というのは、非連続の連続。自己否定しながら動いている。生まれ変わりつづける。けっして「同じ人物」ではない。再び会うことは絶対にない。
同じように、この私も非連続の連続なのだから、たとえことばを繰り返し読んだしろ、繰り返し誰かに会ったにしろ、それは、その瞬間瞬間のことであって、どこにも「同一」はないのである。
藤井は、この非連続の連続、あるいは連続の非連続と言ってもいいのかもしれないけれど、時間を分断した場をしっかりとつかんでいる。「意味」を捏造することは簡単だが、その「意味」をたたき壊しながら「いま」を噴出させる。--と書いてしまうと、これもまた「意味」になるのだが。
ことばは「意味」(論理)になってしまう、という欠点を持っている。プラトンの時代から、「論理」という「どうすることもできない間違い」から逃げ出せない。
それでも、その「論理の間違い」をなんとかしなくてはならない。
藤井の詩は、その闘いである。「論理」ではなく、「論理」を破壊するものとしての詩。
こういう詩をどう読むべきなのか。
わからない。
でも、たとえば、「腹話術」のなかの、
あれから何か考えた? 私は考えた。
という一行に傍線を引きながら、「この一行を剽窃したい。誤読して、書き換えたい」という欲望に、私は突き動かされる。たぶん、こういう「瞬間」が詩との出会いなのだ。そこに書かれている一行、そのなかにいる藤井を瞬間的に認識し、同時に否定する。藤井に出会ったのだけれど、その出会った藤井を否定して、かってに藤井を捏造し、動かす。捏造された藤井は私である。その捏造された私(藤井)のなかで、私はそれまでの私を否定する。そして、
あれから私は何を考えたかを考えた。
と、ことばを読み直す(誤読する)。その誤読のなかで、こういうことはたしかにあると思い出す。藤井のことなど考えていない。私のことしか考えていない。
ことばとは考えるためのものなのだから、たぶん、こういうつかい方でいいのだろう。こういうつかい方しかできないのだろうと、私は私に言い聞かせているが、これは私の言い分であって、書いた藤井は違ったことを言いたかったかもしれない。
書いていることがだんだん袋小路に入ってきた。「その友人」という詩について書きたいのだが、一呼吸おく。あす、書くことにする。(つもり)
きょう(いま)考えていることとは違ったことになるかもしれない。きょう書いたこととはつながらないかもしれない。つながらない方が、きっといいのだとも思う。そのための一呼吸なのだから。
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