詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大岡信「夏のおもひに」「地名論」

2017-04-06 14:39:11 | 詩集
大岡信「夏のおもひに」「地名論」(現代詩文庫24、大岡信詩集)(思潮社、1969年07月15日第一刷、1973年07月01日第七刷)

「現代詩文庫24、大岡信詩集」の巻頭の作品が「夏のおもひに」。大岡の代表作というわけではないだろうけれど、大岡がどうしても収録したかった作品なのだと思う。

このゆふべ海べの岩に身をもたれ。
ゆるく流れるしほの香にゆふべの諧調は海をすべり。
いそぎんちゃくのかよわい触手はひそかに流れ。
とほく東に愁ひに似てあまく光流れて。

このゆふべ小魚の群のゑがく水脈に。
かすかなひかりの小皺みだれるをみ。
いそぎんちゃくのかよわい触手はひそかに流れ。
海の香と胸とろかすひびきにほほけて。

とらはれの魚群をめぐるひとむれの鴎らに
西の陽のつめたさがくろく落ち。はなれてゆく
遊覧船のかたむきさへ 愁ひをさそひ。

このゆふべ海べの岩に身をもたれ。
こころの開かぬままに別れしゆゑ
ゆゑもなく慕はれるひとの面影を夏のおもひにゑがきながら。

「流れる」という動詞が出てくる。「流れる」は「すべる」「ゑがく」「みだれる」「めぐる」「はなれる」「かたむく」「さそう」「わかれる」という具合に変化してつながっているとも言える。「主語」は「水」であり、「香」であり、「光」である。不定形のもの。つかみとれないもの。それは「思い」というものに結晶している。「水」「香」「光」は「流れる」もの、「思い」の「象徴」であり、それは様々な動詞で繰り返されていることになる。
繰り返しは「流れる」を「流れる」ということばをつかわずに語る「肉体」である。「ことばの肉体」がここにある。
「音(声)」がこれに加わる。「ゆふべ」「海べ」「すべり」、「ゆふべ」「ゆるく」、「ゆるく」「いそぎんちゃく」「とほく」「あまく」、「ひがし」「うれひ」「ひかり」。繰り返し同じ音があらわれてくるとき、そこに「流れ」を感じる。あ、これは前に見たもの、聞いたものがふたたびあらわれてくんきたのだという感じを生み、「まえ」と「いま」のあいだをつなぐ。あるいは「いま」を「まえ」と「あと」へひろげる。
「うれひ」は「音」というよりも「文字」なのだが、この「ずれ」が、また「流れ」の感覚を刺戟する。ほんとうは違う。でも、どこかでつうじている。はなれたものが、偶然ちかづき、一緒になる。
その不思議のなかに大岡は詩を感じているのだと思う。
「とらはれの」「ひとむれの」。その「は」と「ひ」のなかにも、その遠い連絡を、遠いけれど強い連絡を感じる。歴史、時間をくぐりぬける「力」を感じる。
「くろく」「はなれていく」。「かたむきさへ」「さそひ」。「別れしゆゑ」「ゆゑもなく」。「おもかげ」「おもひ」。
「流れ」が生み出すみだれ、ざわめき。はなれてゆきながら、あつまってくる。それを「意味」で整えるのではなく、「流れる」という「動詞」そのものとしてつかみとろうとしている。
これは「地名論」につながる。「地名論」は現代詩文庫の最後の巻末にあって、全体を押さえているのだが、これがまた楽しい。
この作品を貫く「ことばの肉体」は「夏のおもひに」と完全に一致している。「流れる」という「動詞」が様々に変化し、音が響きあう。そのなかでイメージが交錯する。「意味」ではなく、「意味」を壊して「ことば」がいのちをもって動いていく。
私が大岡の作品のなかで一番好きなのが、この「地名論」。

水道管はうたえよ
お茶の水は流れて
鵠沼に溜まり
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
おお 見知らぬ土地を限りなく
数え上げることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか
燃え上がるカーテンの上で
煙が風に
形をあたえるように
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
外国なまりがベニスといえば
しらみの混じったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り

自選 大岡信詩集 (岩波文庫)
大岡 信
岩波書店
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マット・ロス監督「はじまりへの旅」(★)

2017-04-06 08:05:57 | 映画
監督 マット・ロス 出演 ビゴ・モーテンセン

 はじまった瞬間、ぞっとする映画がある。この作品が、それ。
 森が映し出されるのだが、その緑が人工的。アメリカ映画の緑の色に私はいつもついていけない。この映画のはじまりの緑はいつもの「汚い緑(水分のない緑)」ではないのだが、まるでペンキを塗ったような緑。「フィールド・オブ・ドリームス」よりもあくどい。「美しいでしょ」と強引に迫ってくるのだが、私には全然美しく見えない。アメリカの山岳地帯(森)へ行ったことがないこういう言い方をしてはいけないのかもしれないが、こんな緑、どこにもないだろう。光と影が動いていない。
 これでは、だめだ、と瞬間的に思う。そして、思った通りの映画。ある理想があって、それを「完璧」に描いて見せる。でも「完璧」に見えるものなんて、嘘に決まっている。この映画は、嘘に始まり、嘘に終わる。
 途中、森を捨てて、一家が「都会」へ行く。そのときあらわれる緑は、いつものアメリカ映画の「汚い緑」。こんな緑を見て、よく嫌な気分にならないものだと私は不思議でしょうがないのだが、多くのアメリカ人は平気なんだろうなあ。
 あ、脱線したかな?
 映画の見どころ(?)は、自然のなかで英才教育を受けた子供たちが、はじめて社会に触れてカルチャーショックを受けるところにあるのだが、これがねえ、ぜんぜんコメディーになっていない。笑えるのは笑えるのだが「愉快」なのではなく、「ばかばかしい」のである。映画の最初の緑と同じように、「完璧な笑い」をめざしているので、ぞっとする。「笑い」なんて気楽なものなのに、「完璧に説明」しようとしている。ほら、天才一家とふつうの人の「ギャップ」がおかしいでしょ、おかしいでしょ、と念を押すように「説明」される。そこには「笑いの論理」はあるけれど「笑いの肉体」がない。「肉体」が「笑い」に共感しない。
 くだらない例だけれど、たとえば警官がバナナの皮に滑って転んだとする。そうすると見ているひとは笑うね。警官に同情なんかせずに、むしろ、「ざまを見ろ」という感じで笑う。そういうところに、「笑い」の残酷な基本があると思うのだが、この映画はその「残酷な基本」を無視している。「高尚な哲学」で分析して見せる。
 いやらしい感じがする。
                  (t-joy 博多スクリーン6、2017年04月05日)
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