監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 アデル・エネル、オリビエ・ボノー、ジェレミー・レニエ、オリビエ・グルメ、ファブリツィオ・ロンジョーネ
私は謎解き(犯人探し)の映画は嫌いである。「答え」がすぐわかるので、退屈してしまう。しかし、この映画は違った。ぐいぐい引き込まれていく。何が起きているのか、さっぱりわからないのである。
さっぱりわからない、と書きながら、まあ、矛盾したことを書くのだが、とてもよくわかるのである。ストーリーはわからないが、いま、そこで起きていることがわかる。
主人公は医者で、研修医をかかえながら診察している。患者も気になるが、研修医も気になる。待合室で少年が発作を起こす。てきぱきと仕事をしないといけないのだが、研修医は少年の症状に反応して動けない。医師として失格である。それやこれやで、主人公は研修医に対して過剰に反応する。
そのとき、「事件」が起きる。
主人公は研修医に対して「患者に過剰反応する」と批判するのだが、彼女もまた研修医に対して過剰反応しているのである。(後半で「力関係を示したかった」という具合に、自分自身の態度を反省しているが。)
こういうことは、だれにでも起きることである。何かに過剰に反応して、集中力が分散する。ほんとうにしなければならないことが何か、正確な判断ができずに、状況から逸脱していく。
主人公の女医が「事件」の犯人探しにのめりこむのも「過剰反応」と言えるかもしれない。彼女の「無関心」がなければ「事件」は防げたかもしれない。しかし、それは単なる「仮説」だ。「無関心」は「犯罪」ではない。警察も、診療時間が終わっているのだから、患者がベルを鳴らしても出なかったことをとがめることはできないと言っている。
しかし、一方で「無関心」こそが、この映画が描こうとしている問題点であるとも言える。「無関心」であるがゆえに、「逸脱」がはじまると。あ、こういう抽象的なことを書き始めると、おかしくなるなあ……。
映画に戻って。
「事件」のカギはいくつもある。少年は、父親がフェラチオされているのを見てしまう。「事件」で死んだのは、父親にフェラチオをしていた少女である。どう反応していいのかわからない。「過剰反応」のひとつが、発作である。
女医は、少年を診察しながら、少女の写真を見せる。そして、脈の変化を見て取る。「過剰反応」に気づき、そこからさらに「事件」にのめりこむことになる。
少年の両親は両親で、発作の息子を女医が「過剰に苦しめている」と感じる。かかわるな、と要求してくる。その反応も、どこか「過剰」なものを含んでいる。それは、あとでわかることだが……。
女医は少女の足跡(?)を追い求めて、あやしげなネットカフェに足を運んだりする。そこは、それまで女医にとっては「無関心」の領域だった。「無関心」の領域にも、人がいる。しかも、それは女医の属する世界が「無関心」に遠ざけている何かでもある。存在していることは知っている。しかし知らなかったことにしている何か。知らないことにはできない何か。
難民の問題である。
そこには少女の姉(あとで、わかる)がいて、少女の写真を見て、やはり「過剰反応」をしめす。「無関心」を装うという「過剰反応」である。ふつうの姉のように反応してしまえば、その反応は自分自身の問題に跳ね返ってきてしまう。だから「無関心(無関係)」を装ってしまう。
「無関心」を強要するものがある。
少女の姉の「無関心(無関係)」とは違う形の「無関心の強要」もある。女医の「過剰反応」に対して、ドラッグの売人(?)らしい男たちが、「ネットカフェに来るな、関心を持つな」と脅迫したりする。
うーん、この「関心」と「無関心」、そして「過剰反応」。これを日本にあてはめるとどうなるかなあ。日本の「難民問題」にあてはめると、どうなるかなあ。
もし、日本に、難民が押し寄せてきて、そのひとたちが暮らしに苦労しながら、「無関心」の世界にとじこもっていたと仮定して。あるいは、「無関心の世界」であることをいいことに、そこで「過剰な行為」のはけ口として利用するようなことがあったとして。
つまり、父親が難民の少女を性処理の道具として利用し、それをその息子が見てしまう。そしてその少女が何かの原因で事故にまきこまれる、ということがあったとき、その周辺の人物はどう動くだろうか。
女医だったら、どうするだろう。少年だったら、どうするだろう。父親だったら、どうするだろう。
「無関心」は「無関心」をいっそう拡大させるのではないだろうか。
そう思うと、映画の主人公の女医の「過剰反応」は、なんとも美しい。美しいという言い方は妙だが、そこには「善意」というものがある。
自分にできることは何なのか。それを追い求めて、「過剰反応」する。
医師になることをやめる、という研修医には、彼が働いている山中まで行って、あきらめないでほしいと言ったりする。ひとに深くかかわる。そうすると、そこから人が少しずつ動き始める。
能力のある医師なのだが、「診療所」を必要とする人がいるとわかれば、高給が保障されている病院での勤務よりも「診療所」を選ぶ。ひととより密接に、深くかかわる方を選ぶ。そのひととの関わりを選ぶという生き方に「善意」を感じる。
「善意」というものなどなくても生きていける世界がいいのかもしれないが、「善意」を必要とするひとがいる。
こういうことを「過剰」にならずに、つまり押しつけにならずに、淡々と描いている。「過剰反応」の「過剰」を抑えきったアデル・エネルの演技がすばらしい。
(KBCシネマ2、2017年04月19日)
*
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私は謎解き(犯人探し)の映画は嫌いである。「答え」がすぐわかるので、退屈してしまう。しかし、この映画は違った。ぐいぐい引き込まれていく。何が起きているのか、さっぱりわからないのである。
さっぱりわからない、と書きながら、まあ、矛盾したことを書くのだが、とてもよくわかるのである。ストーリーはわからないが、いま、そこで起きていることがわかる。
主人公は医者で、研修医をかかえながら診察している。患者も気になるが、研修医も気になる。待合室で少年が発作を起こす。てきぱきと仕事をしないといけないのだが、研修医は少年の症状に反応して動けない。医師として失格である。それやこれやで、主人公は研修医に対して過剰に反応する。
そのとき、「事件」が起きる。
主人公は研修医に対して「患者に過剰反応する」と批判するのだが、彼女もまた研修医に対して過剰反応しているのである。(後半で「力関係を示したかった」という具合に、自分自身の態度を反省しているが。)
こういうことは、だれにでも起きることである。何かに過剰に反応して、集中力が分散する。ほんとうにしなければならないことが何か、正確な判断ができずに、状況から逸脱していく。
主人公の女医が「事件」の犯人探しにのめりこむのも「過剰反応」と言えるかもしれない。彼女の「無関心」がなければ「事件」は防げたかもしれない。しかし、それは単なる「仮説」だ。「無関心」は「犯罪」ではない。警察も、診療時間が終わっているのだから、患者がベルを鳴らしても出なかったことをとがめることはできないと言っている。
しかし、一方で「無関心」こそが、この映画が描こうとしている問題点であるとも言える。「無関心」であるがゆえに、「逸脱」がはじまると。あ、こういう抽象的なことを書き始めると、おかしくなるなあ……。
映画に戻って。
「事件」のカギはいくつもある。少年は、父親がフェラチオされているのを見てしまう。「事件」で死んだのは、父親にフェラチオをしていた少女である。どう反応していいのかわからない。「過剰反応」のひとつが、発作である。
女医は、少年を診察しながら、少女の写真を見せる。そして、脈の変化を見て取る。「過剰反応」に気づき、そこからさらに「事件」にのめりこむことになる。
少年の両親は両親で、発作の息子を女医が「過剰に苦しめている」と感じる。かかわるな、と要求してくる。その反応も、どこか「過剰」なものを含んでいる。それは、あとでわかることだが……。
女医は少女の足跡(?)を追い求めて、あやしげなネットカフェに足を運んだりする。そこは、それまで女医にとっては「無関心」の領域だった。「無関心」の領域にも、人がいる。しかも、それは女医の属する世界が「無関心」に遠ざけている何かでもある。存在していることは知っている。しかし知らなかったことにしている何か。知らないことにはできない何か。
難民の問題である。
そこには少女の姉(あとで、わかる)がいて、少女の写真を見て、やはり「過剰反応」をしめす。「無関心」を装うという「過剰反応」である。ふつうの姉のように反応してしまえば、その反応は自分自身の問題に跳ね返ってきてしまう。だから「無関心(無関係)」を装ってしまう。
「無関心」を強要するものがある。
少女の姉の「無関心(無関係)」とは違う形の「無関心の強要」もある。女医の「過剰反応」に対して、ドラッグの売人(?)らしい男たちが、「ネットカフェに来るな、関心を持つな」と脅迫したりする。
うーん、この「関心」と「無関心」、そして「過剰反応」。これを日本にあてはめるとどうなるかなあ。日本の「難民問題」にあてはめると、どうなるかなあ。
もし、日本に、難民が押し寄せてきて、そのひとたちが暮らしに苦労しながら、「無関心」の世界にとじこもっていたと仮定して。あるいは、「無関心の世界」であることをいいことに、そこで「過剰な行為」のはけ口として利用するようなことがあったとして。
つまり、父親が難民の少女を性処理の道具として利用し、それをその息子が見てしまう。そしてその少女が何かの原因で事故にまきこまれる、ということがあったとき、その周辺の人物はどう動くだろうか。
女医だったら、どうするだろう。少年だったら、どうするだろう。父親だったら、どうするだろう。
「無関心」は「無関心」をいっそう拡大させるのではないだろうか。
そう思うと、映画の主人公の女医の「過剰反応」は、なんとも美しい。美しいという言い方は妙だが、そこには「善意」というものがある。
自分にできることは何なのか。それを追い求めて、「過剰反応」する。
医師になることをやめる、という研修医には、彼が働いている山中まで行って、あきらめないでほしいと言ったりする。ひとに深くかかわる。そうすると、そこから人が少しずつ動き始める。
能力のある医師なのだが、「診療所」を必要とする人がいるとわかれば、高給が保障されている病院での勤務よりも「診療所」を選ぶ。ひととより密接に、深くかかわる方を選ぶ。そのひととの関わりを選ぶという生き方に「善意」を感じる。
「善意」というものなどなくても生きていける世界がいいのかもしれないが、「善意」を必要とするひとがいる。
こういうことを「過剰」にならずに、つまり押しつけにならずに、淡々と描いている。「過剰反応」の「過剰」を抑えきったアデル・エネルの演技がすばらしい。
(KBCシネマ2、2017年04月19日)
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