詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

こころは存在するか(35)

2024-05-05 22:53:18 | こころは存在するか

 和辻哲郎「倫理学」のなかに、和辻ならではのことばがある。ピラミッドについて触れた部分だが、ピラミッドの壁に描かれた絵について、それは

死者、その霊が見て楽しんだというよりも、まだ死なない死者が、死後の生活として、すでに生前において、満足をもって眺めているのである。

 記憶で引用しているので、たぶん、ずいぶん間違えて書いているところがあると思うが、私はそんなふうに読んだ。
 何がおもしろいかといって、ピラミッドをつくるように命じた王が、どこかにそんなことを書いていたわけではなく(そんな記録は残ってはいない)、ここに書かれていることは和辻の想像だからである。「歴史」なのに、想像を書いている。そして、それは王の想像力を想像したものである。
 それにしても「まだ死なない死者」という表現が、とてもおもしろい。「まだ死なない」なら「死者」ではない。でも、「これから何年かしたら死ぬであろう王」と書くよりも、「まだ死なない死者」という矛盾した表現の方が、とても強いものを持っている。
 矛盾というのは、ひとつの「論理の形」だが、和辻はときどき「論理」を超える。この「超論理」を「直観」と呼べばいいのかもしれない。和辻のことばには「直観の強さ」がある。

 

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堤隆夫「幸福を追求するために」ほか

2024-05-05 21:39:17 | 現代詩講座

堤隆夫「幸福を追求するために」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年04月15日)

 受講生の作品。

「幸福を追求するために」  堤隆夫

朝やけに匂い立つ 草いきれの躍動
夜風にそよぐ 柿の葉の風鈴
私は三十五億年前の 三葉虫の記憶の中から 生まれてきた

去りゆく日々 去りゆく人たち 去りゆく悲しみ 去りゆく歓び
みんな私を育ててくれた
みんな私を愛してくれた
みんな私を懐かしんでくれた

嘆くまい 悔やむまい

今 私が立つ 慈愛の夕陽のこの丘は 
三十五億年前に 私の祖先が 立っていた場所
私の祖先が 愛しあっていた場所

私という個が 普遍であるからには
あなたという個も 普遍である
私とあなたは 互いの差異を認めあい
今 ここで生きていくために 共に手を携えている

幸福を追求するために
それ以上のことが 他になにがあろうか!

多様で複雑な 個々の苦しみを思いあう 
想像力こそが 人間の尊厳の源泉

今 ここにあるということは ありがたいこと
ありがたいとは 有難いこと
有ることは 存在することは
何兆分の一の確率で この世に生まれてきたということ

何をなしたとか 何ができたかという前に
生まれきて この世に共に 今 ここにいるという 奇跡の僥倖
生きることの幸せは あなたと共に 穏やかな日々をおくること

幸福を追求するために
それ以上のことが 他になにがあろうか!

 「強い気持ちをそのままことばに乗せている。『私は三十五億年前の 三葉虫の記憶の中から 生まれてきた』という書き方は私にはできない。『幸福の追求』以後、さらに強くなり、最後に繰り返される。後半は思想の表明になっている。詩としては途中まででいいのではないか。全体が強くなりすぎる」「長い詩。木をひきしめて読まないといけない。『生きることの幸せは あなたと共に 穏やかな日々をおくること』という境地には、私はまだ到達していないと思った」「人生観を言い尽くしている。ことばから知性の深さを感じた」
 五連目、「私という個が 普遍であるからには/あなたという個も 普遍である」に堤の特徴があらわれていると思う。ことばを少し変えて、繰り返す。そのとき、繰り返されたことばが深く、強くなる。八連目、「今 ここにあるということは ありがたいこと/ありがたいとは 有難いこと」と「感謝」から「有難い(あることがむずかしい)」へかわって、そこから「ある」をめぐる哲学が深くなる。「有ることは 存在することは/何兆分の一の確率で この世に生まれてきたということ」。考えていることを書くというよりも、書くことをとおして考えを深めている。ことばなしでは考えられない、をそのまま実践している。だから、必然的に長くなるのだが(つまり、結論が先にあって書くのではないから、模索しながら書くことになるから、必然的に長くなるのだが)、これは「欠点」というよりも「長所」だと思う。
 「幸福を追求するために/それ以上のことが 他になにがあろうか!」は、形を変えず、そっくりそのまま繰り返されているが、しかし、これは「外見」が同じに見えるだけであって、その「強度」は変化している。ことばの「強度」がどんなぐあいにかわっていくか、それを緩ませることなく高め続けるというのは、ことばに力があるからできることである。

四月の朝  池田清子

四月の朝早く
二人でダム湖に行った
空気がとても澄んでいた

週に一度二人で
同じバイト先に通った
帰りの夜道を覚えている

下宿の二階は八部屋
上ってくる足音が
誰なのか私にはわかった

言葉はいらないと思っていた
言葉はいったのだ きっと

ロミオとジュリエット
にはならなかった

顔を左に向けて
シャガールの絵に飛び込みたかった

遠い昔の 四月の たった一日の朝が
四月になるとするりと現れる

 「最終連の二行と、それまでの連の時間的な関係がリアル。こころが如実にあらわれている。切実な印象がある」「青春の一ページ。シャガール、最終行の『するり』がいいなあ」
 ここで、私は意地悪な質問。「するり」を自分のことばで言いなおすと、どうなる?
 「くっきり」「はっきり」「ふいに」「ぱあっと」「知らぬ間に」。
 言い換えてみると、池田のつかっている「するり」がいちばんあっている感じがする。そういうことを確かめるのも、詩の面白さだ。
 池田の詩にも、似たことばの繰り返しがある。「言葉はいらないと思っていた/言葉はいったのだ きっと」。これは似ている問いよりも「違うことば」の類かもしれないが。しかし、こうやって、ひとは少しずつ自分の考えを自分で確かめはっきりさせる。繰り返さないと言えないことがあるのだ。
 三連目に一回だけ出てくる「私」。「私」がなくても、たぶん読者は「私」を補って読む。しかし、ここに「私」がないと、なにか、ぼんやりした感じになる。抽象的になってしまう。「私」が、この詩のなかではいちばんの「固有名詞」になっている。ダムもバイトも下宿も抽象的だが、「私」はリアルである。そして、そのリアルが、先に引用した「言葉は……」という形で深まっていく。だから、印象に残る。

うまれた日  杉惠美子

はじめての朝を知った日
桜が舞っていたという
その日から
私の時計とともに

  父を知り
  母を知り
  さまざまの姿を知り
  そして
  さまざまの瞬間を知った
  確かなことを
  確かめながら
  やがて
  その谷間にある
  風景も知った
  気まぐれな展開も知った

おもて表紙は桜色
うら表紙は真っ白のままで

さよならもいっぱいしたけれど
何にも心配いらないよって
最後のページに
小さく書いた

 「生まれた日から現在までを二字下げの部分で表現している。五連目の表現がおもしろい」「構成が巧み。本を閉じるようなつくり方でできている。最終連がおだやかな気持ちにさせてくれる」
 この杉の詩にも、繰り返しがある。「確かなことを/確かめながら」。もっと簡単にいうことばがあるかもしれないが、こういう繰り返しのなかでしか動かないものがあり、それを明らかにするには繰り返すしかないのである。「知り」「知った」も繰り返されてるが、その「知る」は「確かめる」なのだろう。
 私が興味深く感じたのは「そして」と「やがて」のつかい方。単純なことばだが、ここには時間の経過がある。この時間の経過のなかで、認識が深まり、その深まりがことばに反映する。

雨に立つ幻  青柳俊哉

睡蓮の茎の中に雨がふる

蓮の花を抱えて
女が雨の中を通り過ぎる
空のうえでほおずきを吹く蛙
女をみつめるヘラサギの水かげがそよぐ 
恋する牛蛙の星の声のようなモノローグ 
夕闇の雨に物思いにしずむ羅生門のキリギリスの
想いはかれに届かない

星がきえて雨がふりやむ 
睡蓮の茎もはじける

柿の木のてっぺんで満月にささげる
少年の笛吹きはなりやまない

 「最終連の『柿の木のてっぺんで満月にささげる』の一行が異分子みたい。「全体世界がとらえられないのだが、絵にすればイメージが重なり合い面白いと思う。睡蓮、蛙と詩のなかにいろいろなものが納まっている。」「一連目から絵がはじまっている」
 書き出しの「茎の中に」が青柳の特徴をあらわしている。「茎の中」がどうなっているかは、外からは客観的に見ることはできない。しかし、ことばをつかえば、その見えないものを主観的に出現させることができる。そして、それが出現してきたとき、そのことばは読者に問いかけるのだ。そのイメージをしっかりと自分のものとして把握するために、読者は、自分自身のことばをどんなふうにして組み立てなおすことができるのか。
 詩を読むことは、自分のことばがほんとうに動いているかどうか、新しいことばの動きにであったとき、どこまで自分自身のことばを組み立てなおすことができるかを確かめることでもある。


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毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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