きのう書けなかったことのつづき。
「距離」を考えるとき、きのう触れなかたっふたつのシーンが気にかかる。
ひとつは、ラストのアウシュビッツ資料館(?)の映像。収容されたユダヤ人の鞄、靴が積み上げられている。その前にガラスの仕切りがある。そのガラスが気になる。私はアウシュビッツを訪問したことがないのでわからないのだが、あるガラスのせいで、ずいぶんこころが落ち着くのではないだろうか。(落ち着くという表現でいいかどうかわからないが、とりあえず書いておく。)もしガラスの仕切りがなかったら、その鞄や靴がもっている匂いが直接肉体に迫ってくるだろう。触感(実際に触れるわけではないが)も、ずいぶん違ってくるだろう。あのガラスによって、「距離」が一定に保たれている。そこに「一定の距離」が生まれてしまう。近づきうるかもしれないのに、近づけない「拒絶の距離」。それは、そこを訪問したひとが「近づけない」と同時に、そこにある鞄や靴も「近づけない」ということである。訪問者からすれば、それは絶対に私には触れてこないという安堵感となるかもしれない。どこかに、自分は「関係がない」という意識を生み出すかもしれない。「関心」がそのまま「関係」にはならないのだ。
「客観的」になることは大事だ。だが、「主観的」になることも大事なのである。その「主観的」になることを、あのガラスは妨害していないか。これは、映画そのものへの評価とは関係がないことなのかもしれないが、ちょっと気になった。そんなことが可能かどうかわからないが、「フィクション」になったとしても、あのシーンが、ガラス越しではなかったとしたら、とても強い衝撃が生まれたと思う。
もうひとつは冒頭のシーン。灰色、あるいは黒。私は目が悪いせいかもしれないが、その一面の暗い灰色が、特にスクリーンの端が(上辺だったり、下辺だったり、右だったり、左だったり、隅っこだったりするのだが)、ときどき薄っすらと明るくなる、それが揺れる。ちょうど煙の先端が揺れるように。あれはきっとホロコーストのときの煙を描いているのだと思うが、そのときのカメラは煙の真っ只中にある。風が吹いてきて、煙が揺れるので、ときどきその端っこが明るんで見えるのである。そう思ってみていた。それはまるで自分が焼かれたとしたら、そのときに見る煙と空(光)の関係かもしれないと思った。煙は絶望。光は、それでは希望なのか。そうではないだろう。やっと苦しみから解放されるという望みだとしても、そんなものはことばがつくりだす幻想であって、光を感じたからといってそれが希望であるはずがない。そこには「距離」というものはなく、ただ「真ん中」があるだけなのである。「真ん中」を定義するのが「周辺」の光の揺らぎなのである。
この映画では、アウシュビッツの「真ん中」が描かれるのは、この冒頭の煙だけてある。見た瞬間に、アウシュビッツの真ん中に放り込まれ、それからあとはアウシュビッツに接続した(距離のない)外側が描かれる。その「真ん中」と最後のアウシュビッツの資料館が、主人公たちの生活を挟み込んでいるという構造なのだが、つまり、「真ん中」がひっくりかえるようにつくられている映画なのだが。
この煙のシーンにかぶせられた音楽が、私には、どうにも過剰なものに思える。ひとのうめき声とも感じられる、一種、不気味な、不安をあおる音なのだが、このシーンには音がなかった方がよかったのではないか。あったとしても自然の音、風が揺らす木々の葉の音、川の流れる音、鳥のさえずり。人間のやっていることとは無関係に生きている自然の音、あるいはそれされも消してしまう「沈黙」という音。
「沈黙」にも音がある、というのは、きのう書いた少女が奏でるピアノの音にも通じる。それは、その音楽を書いたひとが絶対に聞くことのなかった音(彼、あるいは彼女にとっては「沈黙」の音)だった。その音楽に重ねられた歌詞(実際には字幕だけ)もまた、その音楽を書いたひとには聞くことのない「沈黙の音」だったし、ピアノをとつとつと弾いている少女にとっても「沈黙の音」だった。そういう「沈黙」が結びつけるこころ、「沈黙」が消してしまう「距離」というものもある。
アウシュビッツに残されている鞄や靴。その「沈黙の声」は、「沈黙」であるがゆえにガラス越しでも「同じ」かもしれないが(そう言うひとがいるかもしれないが)、私はやはりガラスがない方が「沈黙」が厳しく迫ってくるように感じられる。「沈黙」が匂いのように肉体をつつんでくるように感じられる。
何に触れるのか、何に触れないのか、何を聞くのか、何を聞かないのか。「客観」ではなく「主観」の問題なのである。「主観」が、問われている。