詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

許暁●『共に春風を』(訳・竹内新)

2024-05-11 23:50:11 | 詩集

許暁●『共に春風を』(訳・竹内新)(澪標、2024年04月30日発行)

 許暁●(●は「雨」冠の下に「文」を組み合わせた漢字)の『共に春風を』を読む。
 詩は、簡単にいえば存在とことばが対になること。
 と、中国の詩を読むといつも感じる。
 対(二)を超えると、つまり三以上はすべて無限。中国人の書いたものを読んでいると、いつもそう感じてしまう。
 「謎」には、それに通じる一行がある。

一が二を生み 二が三を生み 三が万物を生んでいる

 三のあとは突然、万になる。四も五も、十も百も千も関係がない。そして、ここでの「万物」とはもちろん「万」ではない。「無数(無限)」である。「万物」のなかの「一つ」が「対」を求める。その結果「二」が生まれる。それは、次々に起こる。その運動を止めることはできない。「万物」が「万物」として存在するのは、「一つ」が「対」を求め「二」を生み出した結果、しかも、それは「必然」なのだ。
 一即二(一対)、三即万(無限)。

 「対(一対)」は、たとえば、「境地」では、こんな風につかわれる。

葉と花がチラホラ 薄紅と深緑が対を成し

 「葉」と「花」は「対」になったあと、「薄紅」と「深緑」が「対」にとなってあらわれてくるわけだが、ここには「薄」と「深」の「対」と同時に「紅」と「緑」の「対」もある。かけ離れたものが「対」になり、それが増えていく。
 さらに「境地」には、こういう行もある。

陽のまぶしいキラメキに沈着に対抗し

 「対」とは「対抗する」ことでもある。単なる組み合わせではない。「対抗」を含んでいなくてはならない。(これは、いわゆる「陰陽思想」の反映かもしれない。)「紅」と「緑」は、補色という「対抗関係」にある。「まぶしいキラメキ」には「沈着」が「対抗している」。「まぶしいキラメキ」が輝きなら、「沈着」は輝きを拒否した落ち着き(暗さ)である。
 こうした関係を「牧歌」では、こんなふうに書いている。

田野には牧歌が響き それらの全ては
やっぱり詩歌のなかに 対応する言葉が見つかる
人の孤独は 夕暮れとともにゆっくり広がってゆく

 「対抗」は「対応」でもあるのだ。「対」そのものが「対応」なのである。だから、先に引用した行は、こう書き直しても「誤読」とは言えないかもしれない。(私は、先に引用した行を、こう「誤読」するのである。)

葉と花がチラホラ 薄紅に深緑が「対応し」

陽のまぶしいキラメキに沈着に「対応し」

 「意味」は変わらないだろう。「ニュアンス」が違うというひともいるかもしれないが、私には「ニュアンス」もかわらないように思える。
 許自身が「対」「対抗」「対応」とことばを書き分けているのかもしれないが(竹内はそれに忠実に従って翻訳しているのだと思うが)、その書き分けにどれだけの「意味」があるか、私は、わからない。「論語」を読んでいると(読んだのに、具体的な漢字を思い出せないので、テキトウに書くのだが)、一つの「意味」のことばが、いくつもの漢字で書かれている。それは厳密な書き分けなのか、たまたま思いついた漢字がそれだったためにそう書いたのか、私には、わからない。絶対にその漢字でなければならないというわけでもないだろう。大体「孔子のたまわく」「弟子いわく」の「曰」と「曰」は同じ漢字。日本の「読みくだし文」では「曰わく」「曰く」と書き分けることが多いようだけれど、原典では「曰」であり、区別しようがない(と、私には思える)。だから逆に、「対」「対抗」「対応」と書き分けたところで、ほんとうは「大差ない」と思ってしまうのだ。実際、日本語で書き換えてみると「大差がない」。

 で、ここまでが、ちょっとした「準備」。私が書きたいのは、このあと。

 漢字は、「意味」をもっている。そして、その「読み方」(音)は、地域によってずいぶん違う。中国人は、中国人動詞であっても「会話」がむずかしいときがある。しかし、彼らは「文章」でなら、違う発音をしていても「意思の疎通(意味の確認)」がまちがいなくできる。「意味」と「漢字」が「対応」している。「対」になっている。「意味」は、また「もの(存在)」でもある。
 「存在=意味=漢字」。
  このことを考えるとき、おもしろいのは「時制」である。日本語では「動いた」「動く」「動くだろう」という「活用」があり、それを「ひらがな」であらわすが、中国語では「動」しかない。「事実」が大事であって「時制」は、二の次の問題なのだろう。「時制」をあらわすには、別のことばが必要なのだ。「過去」とか「現在」とか「未来」とか。(中国語で何と言うか知らないが。)
 ともかく(と、私は言い切ってしまう)。
 中国語では「存在(意味)」と「漢字」は「対」になっている。この「漢字」を許は「漢字」と言わずに「言葉」と言っているのだ。

やっぱり詩歌のなかに 対応する言葉が見つかる

 これは詩歌のなかに書かれた存在には、それぞれの漢字が対応しているという意味である。「存在」と「ことば(漢字)」が「対」になっている。(最初に私が書いたのは、このことである。)
 そして、この「対」というのは、簡単に言うと「結びつき」(切り離せないもの)ということになるが。つまり「存在即漢字」「漢字即意味」「意味即存在」というような世界になるのだが。
 とてもおもしろいのは、この「即」が「ゼロ(密着)」ではないということ。「対」が「対の外」に「無限」をつくりだすように、「対」は「対の内」も無限をつくりだす。(「人の孤独は 夕暮れとともにゆっくり広がってゆく」の「広がってゆく」が象徴的だ。)そして、その「対の外の無限」と「対の内の無限」がまた一つの「対」というか、「対抗」といおうか、「対応」といおうか、引き合い、反発しあい、「宇宙」をつくっていくのである。
 中国の古典の詩を読んでいると、そこに書かれているのが「風景」なのか「精神」なのか、判然としなくなるときがあるが、これは「対の外の無限」と「対の内の無限」の区別がつかなくなることだ。
 「「藍色」について」は、そういうことばの運動が強く感じられる作品だ。

もしかしたら それは尽きることのない白い氷河なのかも知れない
藍色を拭い取るのは氷河上のピアノ 鳥が弾き鳴らすだけだ
音楽は無限なのであり それは神の鍵盤だ
そうして一人一人は誰もが孤独で神秘的な星なのだ
内心にはすべて孤独な海が住んでいて

 「尽きることのない=無限」と「一人(孤独)」が拮抗し、その「内面」には「海」がある。「住んでいる」と、許は、海を人間のように把握している。ふつうはに考えれば「一人」の人間よりも「海」は大きい。つまり、この詩では「小」のなかに「大」があり、それがあるがゆえに「小」である「一人」はその外の「無限」に対抗し、対応し、対になることができるのである。
 「一人(ひとつ)」が生み出す、内と外の「無限」。

もしかしたら それは藍色の調べの狂詩曲なのかも知れない
音符のなかに理想の王国を数珠のようにつなぎ
ブルースの憂鬱とジャズの狂気によって
世界の意識回復を急かしている
通り抜ける 延々と続く 到着する みんな静かだ
宇宙に暗く深く隠された藍色から来ている
粋 ユーモア 軽快 冗談

 「対の外」に「無限」が存在するように、「対の内」にも「無限」が存在する。そして、その「無限」には、すべて「ことば(漢字)」が対応している。この「無限の氾濫」は「無限の反乱」のように魅惑的だ。

 


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