須藤洋平『赤い内壁』(1)(海棠社、2018年09月30日発行)
須藤洋平『赤い内壁』は「赤い内壁」「プラスチックバット」「ワゴンの記憶」とみっつの章に分かれている。
きょうは「赤い内壁」を読んだ。
とてもおもしろく、ぐいぐい引き込まれる。一気に読み通した方がいいのかもしれないが、ぐっと我慢した。
立ち止まりたいからである。
巻頭の「染み出るピンク色の手の中で」は、
と、始まる。「蟻」が何のことかわからない。
この「わからない」が私には重要だ。わからないとわかったときから、私は考え始める。
詩は、こう続いていく。
読み進んでも、わからない。わからないけれど、「偉大な力」と「全面降伏」が固く結びついていることが感じられる。そして、その「接着剤」のようにして、
という「ことば」がある。
「コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し/叩き割り短い雄叫びを上げた時」は、「アルコールを垂れ流した大男」と結びつく。
コンビニでウイスキーを買って、駐車場でラッパ飲みする。それから瓶を叩き割る。男の口からウイスキーが垂れている。アスファルトの上には瓶に残っていたウイスキーが垂れ流しになっている。「雄叫び」と、自分への怒り、絶望の声かもしれない。「死にたいんじゃなく」ということばも、それに重なる。
私は、どうすることもできなくて、自分で自分を制御することもできなくて、怒り、絶望している男を想像する。そして、怒り、絶望した瞬間、「偉大な力」を感じている、という「矛盾」のようなものに引き込まれる。
絶望している瞬間に感じる「偉大」とはなんだろうか。「生きてしまっている」ということではないだろうか。生きているから「怒り」も「絶望」もある。
途中に出てきた「ピストルに弾を込める」というのは「自殺」のことかもしれない。絶望して、自殺を試みる人(試みた人)もいる。そのときも、その人は「生きてしまっている」ということを向き合っていた。
そういうことを思っていると、突然、「蟻」が「大男/僕」と結びつく。「僕」は「大男」であると同時に「蟻」である。
そこから書き出しにもどる。「蟻」を「僕/大男」と書き換えてみる。読み直してみる。
一度、股を通過した「僕/大男」は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れやしない。
「股」は「女の股」、「母の股」のことだ。「通過する」は、セックスではなく、「生まれる」ということだ。人間は誰でも「女の股」を通って生まれてくる。そして、生まれてきてしまったら、「踏まれてもそう簡単には潰れやしない。」
これは須藤の実感なのだ。
何もかもがいやになって、絶望し、怒りの声をあげる。「こう生きろ」と押しつけてくる社会に対して、「全面降伏」する。その瞬間に、まだ「自分は生きている」(自分を生かしてくれている力がある)と感じる。
人間は死なない。いや、死ねないのだ。
詩は、続いている。
最後がまた、わからないのだが、わからないものはわからないままにしておく。
「偉大な力」を「それはずっと自分の中にあるものだった」ということばをとおして、私は「生きている力」と読み替える。
須藤は、「生きている力」と向き合っている。「生きている力」は須藤を突き破って動こうとしていく。それは、混乱(困惑)を引き起こす。しかし、そこから逃げずに、須藤は向き合う。つまり「偉大な力」そのものになる。
一篇の詩に。
それは血がにじむ。血がにじんでピンク色をしている。
残酷と美の、不思議な結合。結晶、と呼べるかもしれない。
「赤い内壁」には、そういう美しさが、やさしさにかわって、静かに動いている。
ことばが自然に動いている。幸せというのは、こういう具合に、ことばがリズムをもって動く瞬間なのだ。
なんとやさしい人間なのだろう、とこころが震える。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
須藤洋平『赤い内壁』は「赤い内壁」「プラスチックバット」「ワゴンの記憶」とみっつの章に分かれている。
きょうは「赤い内壁」を読んだ。
とてもおもしろく、ぐいぐい引き込まれる。一気に読み通した方がいいのかもしれないが、ぐっと我慢した。
立ち止まりたいからである。
巻頭の「染み出るピンク色の手の中で」は、
一度、股を通過した蟻は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れ
やしない。
と、始まる。「蟻」が何のことかわからない。
この「わからない」が私には重要だ。わからないとわかったときから、私は考え始める。
詩は、こう続いていく。
アルコールを垂れ流した大男は思う。死にたいんじゃなく、
(確かに身体は面倒だが)別に死んだって構いやしないってこと。
それでも中には、何度も何度も、小さな蟻になろうとして、いつ
しか圧縮されていた記憶があふれ、ピストルに弾を込める奴もい
るだろう。けれど、それは別に不思議なことでもなんでもない。
僕も似たような時があった。ただ、こういう奴等は、何かと偉大
な力のようなものを感じることが多いようだ。
実際に僕もそうだった。
コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し
叩き割り短い雄叫びを上げた時もそうだった。
袋詰め作業を思い切って辞めて、無一文になった時にもそれを感
じた。
それはつまり全面降伏を認めた時だ。
読み進んでも、わからない。わからないけれど、「偉大な力」と「全面降伏」が固く結びついていることが感じられる。そして、その「接着剤」のようにして、
コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し
叩き割り短い雄叫びを上げた時もそうだった。
袋詰め作業を思い切って辞めて、無一文になった時にもそれを感
じた。
という「ことば」がある。
「コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し/叩き割り短い雄叫びを上げた時」は、「アルコールを垂れ流した大男」と結びつく。
コンビニでウイスキーを買って、駐車場でラッパ飲みする。それから瓶を叩き割る。男の口からウイスキーが垂れている。アスファルトの上には瓶に残っていたウイスキーが垂れ流しになっている。「雄叫び」と、自分への怒り、絶望の声かもしれない。「死にたいんじゃなく」ということばも、それに重なる。
私は、どうすることもできなくて、自分で自分を制御することもできなくて、怒り、絶望している男を想像する。そして、怒り、絶望した瞬間、「偉大な力」を感じている、という「矛盾」のようなものに引き込まれる。
絶望している瞬間に感じる「偉大」とはなんだろうか。「生きてしまっている」ということではないだろうか。生きているから「怒り」も「絶望」もある。
途中に出てきた「ピストルに弾を込める」というのは「自殺」のことかもしれない。絶望して、自殺を試みる人(試みた人)もいる。そのときも、その人は「生きてしまっている」ということを向き合っていた。
そういうことを思っていると、突然、「蟻」が「大男/僕」と結びつく。「僕」は「大男」であると同時に「蟻」である。
そこから書き出しにもどる。「蟻」を「僕/大男」と書き換えてみる。読み直してみる。
一度、股を通過した「僕/大男」は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れやしない。
「股」は「女の股」、「母の股」のことだ。「通過する」は、セックスではなく、「生まれる」ということだ。人間は誰でも「女の股」を通って生まれてくる。そして、生まれてきてしまったら、「踏まれてもそう簡単には潰れやしない。」
これは須藤の実感なのだ。
何もかもがいやになって、絶望し、怒りの声をあげる。「こう生きろ」と押しつけてくる社会に対して、「全面降伏」する。その瞬間に、まだ「自分は生きている」(自分を生かしてくれている力がある)と感じる。
人間は死なない。いや、死ねないのだ。
詩は、続いている。
何かが手助けしてくれた。医者でもない、カウンセラーでもない、
家族なんて端からいない。
それはずっと自分の中にあるものだった。
おそらく、体液だ。皮肉にも体液のしなやかさだったのだ。
もし、偉大な存在がほんとうにいるのなら、言うだろう。
「それは、私の手の中でこしらえたものだ」と。
染み出るピンク色の両の手の中で。
最後がまた、わからないのだが、わからないものはわからないままにしておく。
「偉大な力」を「それはずっと自分の中にあるものだった」ということばをとおして、私は「生きている力」と読み替える。
須藤は、「生きている力」と向き合っている。「生きている力」は須藤を突き破って動こうとしていく。それは、混乱(困惑)を引き起こす。しかし、そこから逃げずに、須藤は向き合う。つまり「偉大な力」そのものになる。
一篇の詩に。
それは血がにじむ。血がにじんでピンク色をしている。
残酷と美の、不思議な結合。結晶、と呼べるかもしれない。
「赤い内壁」には、そういう美しさが、やさしさにかわって、静かに動いている。
「ちくび、かくせるまでのばすのゆめ」
はっきりとは聞きとれなかったが、真黒い髪を弄りながらあなた
は笑い、
そして、机の上にあった画集を開き
「これ好き!」
と言い、開いて見せてくれたのは、
シャガールの『緑色のバイオリン弾き』だった。
「僕も好き」言うと、いきなりハグしてきた。
ことばが自然に動いている。幸せというのは、こういう具合に、ことばがリズムをもって動く瞬間なのだ。
なんとやさしい人間なのだろう、とこころが震える。
鼻の下にうっすらと髭を生やし、
毛玉のついたセーターを着て、
黒縁メガネのレンズはいつも汚れていて、
あなたと野生のカモシカを見てみたい。
僕はあなたを殴ってしまうこともあるかもしれない。
あなたの胸元を乱暴にはだけてしまうかもしれない。
あなたを指差し、
「同じ顔をしたの何人いるんだよ!」
笑う奴らにはどうあがいていも勝てないかも知れないけれども、
フナムシには時折、立ち向かってくるものもいる。
あなたの服を優しく脱がせたい
あなたと背向いて生きたい。
よじ登る、赤い内壁を。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
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