マジド・バルゼガル監督
きのう書きそびれたことの追加。
この映画は、きのう書いたように新しすぎる。暴力の描き方にはいろいろある。大きく分けると
(1)最初から凶暴な人が暴力を振るう。
(2)最初は善良なひとだけれど、暴力に目覚める。
になる。この映画は(2)の方だが、その目覚め方が、まったく新しい。
これまでの映画は、善良な人間が何か許すことのできないものを見て、被害者(?)を救済されるために暴力を振るうものが多かった。「タクシードライバー」のような感じ。そういう暴力に対しては共感のようなものがある。
この映画は、なんといえばいいのか、「共感」を求めていない。求めていないというと変だけれど、暴力に「一分の善」がある、という具合には描いていない。まったく共感できる部分がない。
犬猫を無差別に殺すことに対して、私は共感できない。
赤ん坊を誘拐すること、窒息死させそうになること、道路に置き去りにすることに対しても共感できない。
嘘の被害をでっちあげ、夜警の主任を追い出すということは、まあ、少しは「共感」できないこともないが、すかっとするというカタルシスはない。
少年の飼っている犬をゴミに出すこと、アパートの家主を納戸にとじこめたままにすることにも共感はできない。
クリーニング店の店長を殴り殺すことにも共感できない。
しかし、この「共感できない」は「頭」の反応である。「肉体」は違うのである。
主人公がずるずると暴力にひきこまれていくとき――不思議なことに、目が離せない。引き込まれてしまう。主人公のみつめる「世界」のざらざらしたような手触りが映像としてしっかりスクリーンに表現されている。それは、まったく見たことのない風景かというとそうではなく、私も日常的に見る風景なのである。荒れた部屋。汚れたなべ。だらしない食事……。あるいは、ひとの冷たい態度。人間性を無視する他人のことば。台詞は非常に少なくて、台詞の意味というより、ことばの調子や、その発言のときのひとの表情が、何かむごたらしいのである。そういうものを見ていると、どうすることもできない怒りのようなものがわいてくる。その怒りをどうしていいのか、わからない。普通の人間なら「くそっ」とかなんとか叫んだり、壁をこぶしでたたいたりする。このれでの映画なら、そういう表現でやりすごしてきたものを、この映画は、そういう発散のさせ方を封じることで、暴発させる。暴発するまで、主人公の「肉体」にとじこめておく。デブの男が、だらしない生活と食事のために太っているというより、つもりつもった怒りのために太っているのだと感じるようになる。
このデブの、だらしいない男の暴力というのも、実はとても新しい。
デブはたいていが善良だ。この映画でも団地の小間使いをする善良な人間として描かれている。他人のこどもを学校に送り迎えする善良な隣人として描かれている。父親に食事をつくるやさしい息子として描かれている。それがだんだん変わっていく。
スクリーンに登場したときから凶暴なデブもいるが、善良だったデブが凶暴にかわるというのは、新しい。「タクシードライバー」でも、デニーロが痩せているから、何かしらストーリーが見えてくる。痩せた人間が凶暴になるのは、いわば「予定調和」なのである。最初から神経がぴりぴりしていて、そのために痩せている人間が、そのぴりぴりした精神をおいつめられて暴発する。それは、とても「見えやすい(見なれた)」風景である。
この映画は、それとは逆なのだ。
これが新しさに拍車をかけている。新しすぎて、わからない感じを与えている。
もし主人公が禿げていなくて、デブでもなくて、美男子だったらどうなるか。たとえばジョージ・クルーニーがこの役をやったらどうなるか。そんなことは、まあ、ありえないのだけれど。この「ありえない」という印象(先入観)のなかにも、実は、この映画の描いている「暴力」の「裏の真実」がある。
私たちは無意識のうちに、ある種の人間を「好意的にみつめる」の部類に囲い込み、ある種の人間を「好意的にはみつめない」部類におしのける。この「おしのけ」は、感じられないようにそっと仕組まれる。だれも、そういうことを前面には出さない。差別になるからね。ところが、そういう隠している差別が瞬間的にでてしまうときがある。その瞬間的な差別(理不尽な差別、太っている、禿げている、職をもたい――だらか、だらしない「不良の人間」というレッテルをはる)が「裏の真実」である。
この映画は、実はそういうことを「告発」している。
無意識の差別が暴力を引き出す。そして、差別されている人間の暴力はときには暴発してしまう。人間は、苦悩のなかでは暴力的になる。その暴力は抑制がきかない。
主人公は単純な加害者ではなく、被害者である。けれど、その被害を実証することは、とてもむずかしい。そのむずかしさと向き合いながら、この映画は、主人公の視点に限定して世界を描いている。声高に差別するひとを描くのではなく、ごくごく日常的な調子で描く。だれだって、この主人公を見れば、デブで、禿げていて、だらしない男と見てしまう。そう見られている男が、何もないアパートをみる。ひとりで食べる食事をみる。かよわい犬や赤ん坊をみる。男にも簡単にできる暴力があることを発見する。「弱いものいじめ」ということばがあるが、男の暴力も出発は「弱いものいじめ」である。「弱い部分」を探して、いじめるのである。暴力をふるっても大丈夫な部分を確かめながら、暴力に目覚めていく。
あ、ひどい、と思いながら、(あるいは、ああ、赤ん坊を殺してしまわなくってよかった、まだ精神がこわれきってはないと少し安心しながら)、これなら自分にもできる、自分もやってしまいそう……という感じがしてくる。主人公に、「共感」するのわけではないのに、「肉体」が飲み込まれていく。
きっと、いま、私は主人公と同じように「はあ、はあ、はあ」と荒い息をしているんだろうなあ。
この映画はほんとうに新しい。それはこの映画のあとの観客の反応からもわかった。監督との質疑応答があったのだが(予告されていたのだが)、映画が終わるとすぐに何人もの観客が出ていった。私の右隣にいた熊本から来たという女性と、その隣の女性もすぐに出ていった。おもしろくなかったのだ。感動できなかったのだ。中年の、デブの禿の男が暴力的になっていくという映画にはカタルシスはないからねえ。でも、私は打ちのめされて、席から立てない状態だった。
きちんとした映像で、もう一度見てみたい。時間があるかなあ。監督が「映像が意図とは違っていた。原因はわからないけれど」といったことばが気になっている。その最初の発言がなかったら、なぜ、こんなにくすんだ映像なのか、ということを私は質問したかったのだった。くすんだ映像では、男の見ているものが「現実」から遠くなる。網膜に侵入してくるという感じがなくなる。この映画は、鮮明すぎるくらいの方が強烈に肉体に迫ってくる。どこなら、きちんと上映できるだろうか。(九州の映画館は上映に問題があるところが多すぎる、と思う。)
きのう書きそびれたことの追加。
この映画は、きのう書いたように新しすぎる。暴力の描き方にはいろいろある。大きく分けると
(1)最初から凶暴な人が暴力を振るう。
(2)最初は善良なひとだけれど、暴力に目覚める。
になる。この映画は(2)の方だが、その目覚め方が、まったく新しい。
これまでの映画は、善良な人間が何か許すことのできないものを見て、被害者(?)を救済されるために暴力を振るうものが多かった。「タクシードライバー」のような感じ。そういう暴力に対しては共感のようなものがある。
この映画は、なんといえばいいのか、「共感」を求めていない。求めていないというと変だけれど、暴力に「一分の善」がある、という具合には描いていない。まったく共感できる部分がない。
犬猫を無差別に殺すことに対して、私は共感できない。
赤ん坊を誘拐すること、窒息死させそうになること、道路に置き去りにすることに対しても共感できない。
嘘の被害をでっちあげ、夜警の主任を追い出すということは、まあ、少しは「共感」できないこともないが、すかっとするというカタルシスはない。
少年の飼っている犬をゴミに出すこと、アパートの家主を納戸にとじこめたままにすることにも共感はできない。
クリーニング店の店長を殴り殺すことにも共感できない。
しかし、この「共感できない」は「頭」の反応である。「肉体」は違うのである。
主人公がずるずると暴力にひきこまれていくとき――不思議なことに、目が離せない。引き込まれてしまう。主人公のみつめる「世界」のざらざらしたような手触りが映像としてしっかりスクリーンに表現されている。それは、まったく見たことのない風景かというとそうではなく、私も日常的に見る風景なのである。荒れた部屋。汚れたなべ。だらしない食事……。あるいは、ひとの冷たい態度。人間性を無視する他人のことば。台詞は非常に少なくて、台詞の意味というより、ことばの調子や、その発言のときのひとの表情が、何かむごたらしいのである。そういうものを見ていると、どうすることもできない怒りのようなものがわいてくる。その怒りをどうしていいのか、わからない。普通の人間なら「くそっ」とかなんとか叫んだり、壁をこぶしでたたいたりする。このれでの映画なら、そういう表現でやりすごしてきたものを、この映画は、そういう発散のさせ方を封じることで、暴発させる。暴発するまで、主人公の「肉体」にとじこめておく。デブの男が、だらしない生活と食事のために太っているというより、つもりつもった怒りのために太っているのだと感じるようになる。
このデブの、だらしいない男の暴力というのも、実はとても新しい。
デブはたいていが善良だ。この映画でも団地の小間使いをする善良な人間として描かれている。他人のこどもを学校に送り迎えする善良な隣人として描かれている。父親に食事をつくるやさしい息子として描かれている。それがだんだん変わっていく。
スクリーンに登場したときから凶暴なデブもいるが、善良だったデブが凶暴にかわるというのは、新しい。「タクシードライバー」でも、デニーロが痩せているから、何かしらストーリーが見えてくる。痩せた人間が凶暴になるのは、いわば「予定調和」なのである。最初から神経がぴりぴりしていて、そのために痩せている人間が、そのぴりぴりした精神をおいつめられて暴発する。それは、とても「見えやすい(見なれた)」風景である。
この映画は、それとは逆なのだ。
これが新しさに拍車をかけている。新しすぎて、わからない感じを与えている。
もし主人公が禿げていなくて、デブでもなくて、美男子だったらどうなるか。たとえばジョージ・クルーニーがこの役をやったらどうなるか。そんなことは、まあ、ありえないのだけれど。この「ありえない」という印象(先入観)のなかにも、実は、この映画の描いている「暴力」の「裏の真実」がある。
私たちは無意識のうちに、ある種の人間を「好意的にみつめる」の部類に囲い込み、ある種の人間を「好意的にはみつめない」部類におしのける。この「おしのけ」は、感じられないようにそっと仕組まれる。だれも、そういうことを前面には出さない。差別になるからね。ところが、そういう隠している差別が瞬間的にでてしまうときがある。その瞬間的な差別(理不尽な差別、太っている、禿げている、職をもたい――だらか、だらしない「不良の人間」というレッテルをはる)が「裏の真実」である。
この映画は、実はそういうことを「告発」している。
無意識の差別が暴力を引き出す。そして、差別されている人間の暴力はときには暴発してしまう。人間は、苦悩のなかでは暴力的になる。その暴力は抑制がきかない。
主人公は単純な加害者ではなく、被害者である。けれど、その被害を実証することは、とてもむずかしい。そのむずかしさと向き合いながら、この映画は、主人公の視点に限定して世界を描いている。声高に差別するひとを描くのではなく、ごくごく日常的な調子で描く。だれだって、この主人公を見れば、デブで、禿げていて、だらしない男と見てしまう。そう見られている男が、何もないアパートをみる。ひとりで食べる食事をみる。かよわい犬や赤ん坊をみる。男にも簡単にできる暴力があることを発見する。「弱いものいじめ」ということばがあるが、男の暴力も出発は「弱いものいじめ」である。「弱い部分」を探して、いじめるのである。暴力をふるっても大丈夫な部分を確かめながら、暴力に目覚めていく。
あ、ひどい、と思いながら、(あるいは、ああ、赤ん坊を殺してしまわなくってよかった、まだ精神がこわれきってはないと少し安心しながら)、これなら自分にもできる、自分もやってしまいそう……という感じがしてくる。主人公に、「共感」するのわけではないのに、「肉体」が飲み込まれていく。
きっと、いま、私は主人公と同じように「はあ、はあ、はあ」と荒い息をしているんだろうなあ。
この映画はほんとうに新しい。それはこの映画のあとの観客の反応からもわかった。監督との質疑応答があったのだが(予告されていたのだが)、映画が終わるとすぐに何人もの観客が出ていった。私の右隣にいた熊本から来たという女性と、その隣の女性もすぐに出ていった。おもしろくなかったのだ。感動できなかったのだ。中年の、デブの禿の男が暴力的になっていくという映画にはカタルシスはないからねえ。でも、私は打ちのめされて、席から立てない状態だった。
きちんとした映像で、もう一度見てみたい。時間があるかなあ。監督が「映像が意図とは違っていた。原因はわからないけれど」といったことばが気になっている。その最初の発言がなかったら、なぜ、こんなにくすんだ映像なのか、ということを私は質問したかったのだった。くすんだ映像では、男の見ているものが「現実」から遠くなる。網膜に侵入してくるという感じがなくなる。この映画は、鮮明すぎるくらいの方が強烈に肉体に迫ってくる。どこなら、きちんと上映できるだろうか。(九州の映画館は上映に問題があるところが多すぎる、と思う。)