詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「五百年後のミコト」

2006-08-28 14:34:48 | 詩集
 豊原清明「五百年後のミコト」(「SPACE 」69)。
 豊原のことばの動きは不思議だ。「なまなましさ」を再現するのに入沢は「ただし」という接続詞、無機質(?)なことばをつかっていた。その無機質であり、抽象的である接続詞がなまなましかったが、豊原のことばは、接続詞、あるいは論理を説明するための補助線が欠如した部分になまなましさがある。
 最終連。その最後の部分。

だらだら流れる僕だけの
ケの時間は
尊のマンガを書くことに
費やされた
口を3の字にしたギャグ漫画
絡まった頭の配線を
ほどかすように
寂しい強風が僕を貫く。

 「費やされた」と「口を……」の行のあいだに、どんなつながりがあるだろうか。ギャグ漫画の顔、その口が「3」の字に書かれている。たしかに、これは補足なのだが、その補足を接続詞でつなぐとき、それはどんな接続詞なのか。豊原は考えない。そして私も考えない。考えないまま、ごく自然に、そのことばを補足として受け入れる。
 次の「口を……」と「絡まった配線を……」はどうだろうか。ふたつの文はどうつながっているのか。豊原は考えない。私も考えない。ただそれが自然のままにつながっていくのである。
 --と書いて(書きながら)、私は、いま書いたこととは違ったことを同時に考えている。「口を3の字にしたギャグ漫画」という行が、入沢の作品の接続詞と同じ働きをしている。抽象的なことばではなく、実態のあることば、具体的なものを指し示すことばが豊原にとっては「接続詞」なのである。そこにおもしろさ、不思議さがつまっている。あることがらと別のことがらをつなぐとき、接続詞ではなく、具体的な「もの」がそこに立ち現れる。「接続」するということが精神の運動ではなく、何か、もっと手触りのある肉体のように感じられる。そこになまなましさがある。

 私の説明は奇妙だと思う。いま書いたことは説明になりきれていないだろうと思う。論理として通用しないだろう。だが、私は「口を3の字にしたギャグ漫画」という行は、やはり「接続詞」の働きをしていると思う。
 以下は、かなり乱暴な方法なのだが……。たとえば「口を3の字にしたギャグ漫画」という行を「そのとき」と書き換えてみたらどうだろうか。

だらだら流れる僕だけの
ケの時間は
尊のマンガを書くことに
費やされた
そのとき
絡まった頭の配線を
ほどかすように
寂しい強風が僕を貫く。

 マンガを書く。マンガを書いて時間をすごす。そのとき、頭のなかを寂しい強風が貫く。前の3行と後の3行は、論理的(?)にはすっきりとつながる。前の3行を後半の3行が補足する。説明する。
 だが、豊原は「そのとき」ではなく「口を3の字にしたギャグ漫画」と書く。
 「そのとき」のように、前の3行を、切り離して客観化しない。いったん分離して、それから心情(こころ、精神)、いったい豊原が何を感じたかを書かない。むしろ逆に、前の3行の内部に深く押し入り、そのなかから具体的なものをひっぱりだしてきて、その「もの」そのものを接着剤にして後の3行へと突き進んでいく。
 あるいは、こういえばいいだろうか。
 豊原は、あることがらを書くにあたって、それを抽象化しない。「こと」と「精神」を分離しない。「こと」と「こと」をつなぐときに、「こと」を精神化(抽象化)することでふたつの「こと」に共通するものがある、ふたつの「こと」に一貫性があるというふうには表現しない。「こと」と「こと」のあいだに、もうひとつ「こと」を持ってくる。その「こと」(もの)に接着剤の仕事をさせてしまうのだ。
 この「こと」(もの)だけを描くという姿勢があるからこそ、最後の「寂しい強風が僕を貫く」が抒情ではなく、なまなましい肉体となって立ち上がってくる。「寂しさ」も剛直で、自律したものに見えてくる。そして、そのとき私の目の前にあるのは「寂しさ」を抱え込んだ巨大な肉体、強靱な肉体、どんな「もの」でも自分の手でつかみ取る健康な肉体が見えてくる。

 入沢の作品を読んだときは「精神」を強く感じた。豊原の作品には肉体を強く感じる。肉体が持っている健康さ(病気もすることを含めての健康さ)を感じる。入沢も現実には病気をするだろうが、詩を読むかぎりにおいては、入沢が病気をする肉体を持った人間としては見えてこない。何かを明確にしようとする精神としてのみ見えてくる。豊原の場合、精神というよりも、まず肉体そのものとして存在が見えてくる。人間だからもちろん精神もあるのだが、それはけっして肉体と分離して存在するのではなく(つまり、肉体から分離した状態で表現できる形で存在するのではなく)、あくまで肉体に溶け込んだもの、肉体と一体になったものとしてしか見えてこない。
 「接続詞」によって、精神を分離し、その運動が明確になるような書き方を豊原はしない。いつも肉体に精神をとけこませる。そこに豊原のなまなましさがある。


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