詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫「山麓の石原の思ひ出」

2006-08-27 23:18:12 | 詩集
 入沢康夫「山麓の石原の思ひ出」(「現代詩手帖」9月号)。
 従兄と馬にのって山へゆく。その途中、石原で不思議な光景を見る。急に日がかげる。すると、離れた場所で、子どもたちが石積み囲んで歌を歌っている。声は聞こえない。
 そうした描写につづく最終連。理解できないことばがある。

厚い雲が去つて あたりに色彩が戻つたとき 石積みの周り
にもはや子どもたちの姿は無かつた ただし その恰度真上
に当たる空に 淡い淡い昼の月が懸かつてゐた

 「ただし」とは何だろうか。なぜ、ここにこのことばがあるのか。
 「ただし」とは何か。思わず辞書を引いてみた。岩波の「国語辞典」第6版に次のようにある。「先に述べた事に補足的な説明・条件・例外をつけるときに使う語。」例文として「これはすぐれた説だ。ただし疑えば疑える点もある」。
 私には「その恰度……」以下が「厚い雲が……」につけられた補足や条件、例外とは思えないのである。
 もし「ただし」がなかった場合、この最終連はどう違ってくるのだろうか。
 もし「ただし」のかわりに「けれど」ということばがあった場合はどうだろうか。「そして」の場合はどうだろうか。
 実際に見える光景、ことばによって呼び起こされる光景は変わらない。子どものいない石原。上空に昼の月がある。どんな接続詞を置いても、その光景にかわりはない。
 しかし、何かが違う。
 その何かとは何か。こころの動き。精神の動きだ。それも、ことばで説明することができない、あいまいな動きである。その動きについて、私は何もいうことができない。何も書くことができない。ただ、入沢にとっては、この「ただし」は絶対必要なのだろう。その絶対に必要な根拠というか精神の動きの起点のようなものは、この詩だけではわからない。詩集になったとき、10篇を読み返せば何か手がかりがあるだろうか。それもわからない。
 「ただし」(と、ここで入沢のことばをまねてみよう)、この「ただし」のなかにこそ、入沢が今回の連作で書かずにはいられなかった何かがある。
 「偽記憶」の10篇は、どの作品にも「事実」と「幻」(偽の記憶?)が描かれている。そのふたつは互いに他者を否定しない。むしろ依存し合っている。事実(現実)として明確にかかれるものが一方にあり、他方に現実の世界のこととは思えないような「幻」に似たものがある。そのふたつは一方が現実であることによって、他方は幻になる。一方が幻であるからこそ、他方は現実になる。そういう「依存関係」にある。どちらかが欠けても「偽記憶」にはならないのである。
 同じ号に粕谷栄市が「もぐら座」を含む3篇の詩を書いている。粕谷の作品は最初から最後まで「架空」である。「架空」を利用して、そのことばの運動のなかに「現実」をもぐりこませる。あるいは「架空」を利用して、「架空」のなかでしか言えない真実(思想)を語る。粕谷の詩は「架空」に依存している。「架空」がなければ「現実」が書けない。
 入沢の作品はまったく違う。「現実」と「幻」がないと書けない。ふたつが互いに依存し合わないと世界が成立しない。

 入沢は、世界というものが「現実」と「幻」が依存し合ってはじめて成立しているものだと考えているのかもしれない。
 「ただし」ということばは、先行することがらを補足することがらを導くための接続詞と定義されるけれど、そうした論の展開のとき、私たちは先行することがらだけを先にみつめているわけではない。先行することがらを言ってしまった後で補足を思いつくわけではない。ふたつをいっしょに思いついている。ただ、ふたつをいっしょに語ることができないので、どちらかを先に語るだけである。
 「史実」も「幻」も、それはいっしょに存在する。並列というよりも、ふたつは溶け合い、混じり合っている。融合したものを、ことばで明確に語ることは難しい。私たちは便宜的に一方を先に語る。そのうえで、先に語ったことばでは語れなかったものを補足する。それは、単に補足というよりは、先行することばを、もういちど「混沌」(カオス、現実と幻がまだ分離する前の世界)へ引き戻すことなのかもしれない。

 「偽記憶」はことばにした瞬間に「偽」(他人にとって信じられないもの)に変わってしまう世界の総称だろう。体験した入沢にとっては「偽」ではない。真実・現実と科学的な視点から見ると事実とは認められないものが融合した、非常になまなましいものであるだろう。そして「記憶」にとって真実とは、それが事実に適合するかどうかではなく、それがなまなましいかどうかが問題である。なまなましいものは他人が見て「偽」であろうと、本人にとっては「真」である。
 「偽」とくくられてしまうような、記憶の「なまなましさ」を入沢は書きたかったのだろうと私は思う。なまなましい記憶ではなく、記憶のなまなましさを入沢は書きたかったのだと思う。「ただし」には、入沢の肉体が記憶しているなまなましさを、なんとしてもなまなましい形のまま再現したいという思いがこめられているかもしれない。
 そうであるなら、この「ただし」こそが、入沢の「詩」である。「ただし」のなかに「詩」があるということになるだろう。

 詩集の形でもう一度読み直してみたい作品群だ。

 

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