以倉紘平「幸福」、池井昌樹「未来」(「歴程」584 、2013年05月01日発行)
以倉紘平「幸福」は亡くなった娘のことを書いている。自転車で通勤していた。
娘を思い出すだけではなく「左折するとき なぜか私はいずみになっている。」この「なっている」「なる」がとてもいい。その娘になりながら、以倉は「我が家に帰る歓びのようなものにひたされている。」とも書いている。それはそのとおりなのだろうけれど、それよりも前の、
という1行がとてもいい。「颯爽と」がいい。これは、ほんとうに娘に「なる」ということ以外では感じることができない「体感」である。「肉体」の感じるものである。その前にある
もいい。実際の肉体の動き。以倉も同じように、そこで斜めにカーブするのだろう。同じカーブを描いて道を曲がるのだろう。気持ちよりも「肉体」がひとつに「なる」。
ひとは不思議なことに、自分でありながら自分以外の人間に「なる」とき、幸福を感じる。自分では「なくなる」ときに幸せを感じる。
だから、
この後半にあらわれる「いずみ」。それが「幻」の姿ではなく、たとえば知らないどこかの女性であっても、それは「いずみ」なのである。斜めにカーブして左折する--その肉体として家へ帰る人。それは「いずみ」であり、「以倉」であり、「ほかのひと」でもある。それがだれであろうと、以倉は娘に「なり」、幸福の中へ帰る。帰るという幸福へと帰る。帰るのは「気持ち」ではない。あくまでも「肉体」である。
「肉体」があらわれる部分だけを引用したが、その前後の「地図」の部分のことばは、簡潔で、具体的でとてもいい。地図が地図ではなく、具体的な「道」、つまり人が通るときの姿でことばにはりついている。
*
池井昌樹「未来」は池井の世代の人間と若い世代の人間との違いを書いている。
激しい断絶に何をしていいかわからず呆然とする池井がいる。途中省略して、詩の後半。
何だがあきらめきった調子にも読めるのだけれど、「まなこらんらんかがやかせ/おいかけてくるもののかげ/またおいすがるいきづかい」の3行に、私は池井の「肉体」を見るのである。池井もまたいままで「まなこらんらんかがやかせ」「おいかけて」「またおいすがる」を繰り返していたのではない。そして、その激しい動きのなかで、どこか遠くから、池井を見守る何かを感じていたのではないだろうか。
新人を否定するようなことばを重ねながら、いま、池井が、その「遠い彼方の目」の肉体になっているとも私には感じられる。
「肉体」はいつでもいれかわる。自分のものであって自分のものではない。
池井にとって、いつでも、どこでも、どんなことでも「幕開け」なのだと思う。「幕開け」以外の「とき」というものは池井の肉体には存在しない、と私は感じている。
以倉紘平「幸福」は亡くなった娘のことを書いている。自転車で通勤していた。
どういうわけか私は自転車で生活道路に入るとき
きまってむすめのいずみのことを思い出す。
勤めに出ていた我がむすめは駅から自転車で帰ってくる。
左折して生活道路に姿をあらわす。
遠くから見ていると
斜めにカーブして現れるという印象が
記憶に強く残っているせいだろうか。
左折するとき なぜか私はいずみになっている。
颯爽と 自転車を漕ぐいずみになって
務めを終え
我が家に帰る歓びのようなものにひたされている。
娘を思い出すだけではなく「左折するとき なぜか私はいずみになっている。」この「なっている」「なる」がとてもいい。その娘になりながら、以倉は「我が家に帰る歓びのようなものにひたされている。」とも書いている。それはそのとおりなのだろうけれど、それよりも前の、
颯爽と 自転車を漕ぐいずみになって
という1行がとてもいい。「颯爽と」がいい。これは、ほんとうに娘に「なる」ということ以外では感じることができない「体感」である。「肉体」の感じるものである。その前にある
斜めにカーブして現れる
もいい。実際の肉体の動き。以倉も同じように、そこで斜めにカーブするのだろう。同じカーブを描いて道を曲がるのだろう。気持ちよりも「肉体」がひとつに「なる」。
ひとは不思議なことに、自分でありながら自分以外の人間に「なる」とき、幸福を感じる。自分では「なくなる」ときに幸せを感じる。
だから、
しずかな静かな 春の夕暮れ
遠くから自転車が近づいてくる。
あれはいずみではないかと 佇んでいたら
やはりいずみだった。
この後半にあらわれる「いずみ」。それが「幻」の姿ではなく、たとえば知らないどこかの女性であっても、それは「いずみ」なのである。斜めにカーブして左折する--その肉体として家へ帰る人。それは「いずみ」であり、「以倉」であり、「ほかのひと」でもある。それがだれであろうと、以倉は娘に「なり」、幸福の中へ帰る。帰るという幸福へと帰る。帰るのは「気持ち」ではない。あくまでも「肉体」である。
「肉体」があらわれる部分だけを引用したが、その前後の「地図」の部分のことばは、簡潔で、具体的でとてもいい。地図が地図ではなく、具体的な「道」、つまり人が通るときの姿でことばにはりついている。
*
池井昌樹「未来」は池井の世代の人間と若い世代の人間との違いを書いている。
これですよ
ゆびさしたのは
ぬぎすてられたぼろジャンパー
これもですよ
ペットボトルにあきかんのやま
そうしてこれも
エレヴェイタアはへどのうみ
かれらにちがいないですな
とうとうやってきましたな
かたをおとしてためいきついて
あおざめているわれら旧人
われらとかれら新人は
ヒトであっても係累はなく
うけつぎつがれるものはなにもなく
激しい断絶に何をしていいかわからず呆然とする池井がいる。途中省略して、詩の後半。
ケータイかたてにかたいからせて
当世暴君のおでましだ
しっぽをまいてたいさんだ
新人さまのばらいろの
かがやけるみらいのかなた
まなこらんらんかがやかせ
おいかけてくるもののかげ
またおいすがるいきづかい
幕開けだ!
何だがあきらめきった調子にも読めるのだけれど、「まなこらんらんかがやかせ/おいかけてくるもののかげ/またおいすがるいきづかい」の3行に、私は池井の「肉体」を見るのである。池井もまたいままで「まなこらんらんかがやかせ」「おいかけて」「またおいすがる」を繰り返していたのではない。そして、その激しい動きのなかで、どこか遠くから、池井を見守る何かを感じていたのではないだろうか。
新人を否定するようなことばを重ねながら、いま、池井が、その「遠い彼方の目」の肉体になっているとも私には感じられる。
「肉体」はいつでもいれかわる。自分のものであって自分のものではない。
池井にとって、いつでも、どこでも、どんなことでも「幕開け」なのだと思う。「幕開け」以外の「とき」というものは池井の肉体には存在しない、と私は感じている。
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