濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)
映画監督・山崎哲がフェイスブックで「ドライブ・マイ・カー」を批判していた。ポイントは「日本の俳優は例によって声( 言葉) が肚に落ちてない。言葉が自分の言葉になってないんだよね。」このことばで、ふと思いついたことがあるので書いておく。
昨年のカンヌ映画祭で「脚本賞」を受賞し、多くの人が見るようになった。先日発表されたアカデミー賞でも「国際長編映画賞」を受賞した。アカデミー賞は、まあ、追認のようなものだから、ほんとうの評価かどうか、私は怪しんでいる。でも、カンヌ映画祭の「脚本賞」は、納得はできる。「脚本」はたしかによく書かれていると思う。でも「脚本」と映画は別物なのだ。
「脚本」も、作品によっては一こまずつ時間を指定しているものもあるだろうけれど、基本的には時間を指定しないだろう。さらに、誰が演じ、どんな声を出すかという指定はないだろう。つまり、ひとは(読者は)、脚本を自分のスピードで読むことができる。登場人物の「声」は、自分の好き勝手に想像できる。脚本を読み、30分の映画を想像する人もいれば6時間の映画を想像する人もいる。張りつめた声を想像する人もいれば、弱々しい声を想像する人もいる。時間のことは、ここでは、ちょっとわきにおいておく。
「声」の問題を、もう一度書いておく。
私は前回、「ドライブ・マイ・カー」について書いたとき、この映画のテーマは「声」だと書いた。そして、その「声」に作為がみえみえなので、ぞっとしたというようなことを書いた。それは最初のシーンで、すぐにわかった。見なくてもというと変だが、作為が見えるということは、結末に驚かないということである。結末に感動しない、ということである。予想された通りの展開、予想された通りの結末。安直な、すでに知っている物語の紙芝居、という感じ。
脱線したが。
この「声」がテーマ、そして「声」が作為に満ちているということは、たぶん、私が日本人で、日本の俳優の「声」だったから気づいたのである。ネイティブだから気がついた。初めて聞く外国人の「声」(しかもスピーカーで増幅された声)の場合、「作為の声」に気がつくかどうかは、かなりむずかしい。現実の場でなら、あ、いま、声の調子を変えた、ということは、声だけではなく、表情や仕草でもわかるが、それにしたって、話されていることば(声)を聞き慣れていないと、むずかしいかもしれない。
カンヌ映画祭の審査員に、この「声の演技」がわかったかどうか。「声の演技」の「まずさ」が原因でパルム・ドールを逃し、「脚本賞」にとどまったのかどうか、それはわからないが。「声の演技」を気にしないで、この映画が「声」を基本にして展開し、それが「声」をもたない(というと、いいすぎになるが)手話話者との対話でクライマックスをつくりあげるという、ストーリーの構造は「脚本」を読めばわかる。映画を見れば(映画から脚本を想像すれば)、明確にわかる。
別なことばで言いなおすと、「脚本」というのは、実際の映画、演技とは関係なく評価できるということである。「声」を聞き取る能力がなくても、「脚本」を読むことはできるのである。「声の演技」(そのよしあし)が理解できない外国人審査員だったからこそ、脚本に注目したということがありうるのだ。「声」がテーマなのに、「声」を理解できない外国人審査員が、その「ストーリーの展開の仕方」だけに焦点を当て、「脚本賞」に選んだということが、可能性としてあるのだ。
彼らは訳者の「声」を聞かず、彼ら自身のなかにある「人間の声」を「脚本/字幕(?)」から再現し、「彼ら自身の声」に感動したのだろう。
もちろん「日本人の声」(作為、無作為)に習熟している審査員がいて、そういう日本人の声を生かしている脚本だと評価したのかもしれないが、私には、そうは思えない。
だってねえ。
映画はたしかに脚本と監督が担う部分は非常に大きいが、脚本の狙いや監督の求めていることと違う何かがあらわれた瞬間が、いちばん輝かしい。脚本を超えて、役者の肉体が動き出し、まるで脚本がないかのように感じる一瞬が、おもしろいのだ。
ちょっと思いだしたのだが。
「サユリ」という映画。役所広司が、ほんとうはもてているわけでもないのに、女にちょっと親切にされ、それを女が自分に気があると信じて、女に「ほら、酒をのめ」と言い寄るシーンがある。その、もてない男の、一瞬の正直さ。思わず、「おいおい、おまえは振られ役なんだぞ。脚本を読んだのか。振られるのを知っているのか。ばかじゃないのか」とちゃちゃをいれなくなる。笑い出したくなる。役者は脚本(結末)を知らずに、つまり、その瞬間しか知らない人間として動いていなければならない。そういうものがないと、映画として成り立たない。
「ドライブ・マイ・カー」の役者は、みんな「結末」を知っていて、その「結末」のために「作為の演技(声)」をしている。役所広司のように、自分の生きている現実の一瞬を、自分本位に勘違いしていない。だから、おもしろくない。すべての映像も、みんな「結末」を知っていて、それに向かって収束していく。そこには「脚本」しかないのだ。
だいたい、劇中劇に「ワーニャ伯父さん」をつかうというのも見え透いている。「ワーニャ伯父さん」の結末(ストーリー)を知っているひとは多い。そのストーリーをちょっと見えにくくするために、他国語で演技する、なんて、「作為」以外の何でもない。「脚本賞」は「作為の構図の完成度が高かった」という評価なんだろうなあ、と思う。「ストーリーが単純明快に整理されていた脚本」という評価なんだと思う。