『女に』が谷川俊太郎との「最初の出合い」だとすれば、『こころ』は「二度目の出合い」である。朝日新聞に「こころ」が連載されていたとき、何度かブログに感想を書いていた。連載が一冊になったとき、全部の感想書き直してみようと思った。ただし、「書き直す」(整え直す)という感覚ではなく、「初めて読む感覚」で書き直してみようと思った。最初は数篇をまとめてとりあげたが、そのあとは一日一篇、書く時間は15分、長くても30分と決めて書き始めた。「評論」でなく、「評論以前」を目指していた。詩を読むとき、だれも評論を書こうとは思わずに読み始めるだろう。その感じを、ことばにしてみたいと思った。詩に限らないが、どんなことばでも、それを読んだときの状況によって印象が違う。その「違う」ということを大切にしてみたいと思った。
前回、ことばは鏡のように自分を映し出す。ことばを読まないと、自分の姿が確かめられないというようなことを書いたが、毎日鏡を見ても、その鏡に映しだす顔が違って見えるように、詩を読むたびに自分が違って見える。しかし、その「違い」はほかのひとから見れば「違い」ではないかもしれない。同じ「私の顔」かもしれない。また逆に「きょうの私の顔はいつもと同じだ」と私が思っても、他人から見れば「いつもと違う谷内の顔」ということもあるだろう。
「違い」なんて、あってないも同然なのだが、それでも何らかの「私の変化」が誘い出されてくるだろう、そんなことを思った。
これは、私には、想像以上におもしろい体験だった。何かを書くとき、どうしても、何かかっこいいことを書こう、ひとを驚かすような新しい視点を書こう、結論を書こうと身構えてしまうところがある。私には。
『女に』を読んで「キーワード」を見つけ、そこから詩を読み直したというのも、まあ、気取っているといえば気取っている。
ひとを驚かす、読者を驚かすのではなく、ただ自分の驚きを書くというのは、とても楽しい。書いていて、あ、これはさっき書いたことと矛盾するなあ、さっき書いたことが間違っているのかなあ、いま書いたことの方が間違っているのかなあ。どっちだっていい。間違えるには間違えるだけの「根拠」のようなものが、どこかにあるのだ。私の「読み違い」か、谷川の「書き違い」か、はたまたは、さっき食べた目玉焼きが原因か、隣の家で名吠えている犬の声が原因か。
もし、さっき書いたことがはっきり「間違い」だとわかれば、そのとき「さっき書いたことは間違い」と言って書き続ければいいだけである。そう思った。
私は「自由になる方法(自由になる、そのなり方)」を、『こころ』を読み、それについて書くことで学んだのである。きっと毎日一篇ずつ、30分以内という「制約」が逆自由になる方法を後押ししてくれたのかもしれない。そういえば、谷川は若いときから詩だけで食っているから、画板のようなカレンダーに締め切りを書き込んで、せっせと詩を書いたというようなことをどこかで読んだ記憶があるが、締め切りが迫っていると、どこかで「ことば」を手放さないといけない。もっと修正する時間が知ればと思いながら、一種の「あきらめ」と同時にほうりだし、書いてきたことばから解放される。そういうことかもしれないなあ、と思う。
どんなに「でたらめ」を書こうとしても、どこかに自分が信じていることがまぎれこむし(そういうものを土台にしないとことばは動いてくれないし)、どんなに「ほんとうのこと」を書こうとしても、どうしても正直ではないものが紛れ込む。あっ、これはかっこよく書けたなあ、よし、これを「結論」にしよう、とか。
この方法を、谷川自身がおもしろいと言ってくれたことが、私にはいちばんの収穫だった。
打ち合わせのとき、私が「私はずいぶん失礼なことも書いていると思うけれど」というと、
「いや、ほかのひとはみんな私(谷川)のことをほめよう、ほめようと身構えて書いているからつまらない」
ということばが即座に返ってきた。
そういえば、谷川と親しい田原が、「私は中国人で、敬語がうまくつかえない。だから、谷川先生となかよくしている」と言うようなことを、私に教えてくれた。
そうか。
それは別にして。
このあと、私は不思議なことを体験した。
『心を読む』と同じ方法をほかの谷川の詩集、あるいはほかの詩人の詩集でもやってみるのだが、どうもうまくいかない。自由に書けない。あれは田中角栄がやった「日本列島改造」と同じように、一度やったら二度とできない何かなのである。
一冊の詩集の全編に対する感想、あるいは批評を書くときは、何かもっと新しい方法でやり始めないとだめなのである。自分のなかに新たな基準をつくり、同時にその基準を読んでいる作品を通して、壊しながら進むということばの運動をしないといけないのだろう。
どういうことができるかわからないが、いつか、『世間知ラズ』の全篇について感想を書いてみたい。「父の死」は、私の好きな詩だし、それを書くことで「谷川俊太郎の死」を書けたらなあ、と思う。
(「谷川俊太郎の『こころ』を読む」出版の経緯は、「往復書簡」の形で本に書いてあるので、ここでは省略した。)
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