詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年11月30日(日曜日)

2020-11-30 10:45:05 | 考える日記
 私は少しずつスペイン語を勉強している。どうしてもわからないことがある。特にややこしいのが「接続法」である。日本語にはない概念である。「主節にこの動詞(ことば)があるとき、従節は接続法になる。覚えるしかない」という乱暴な人もいる。そのうちになれる、というのである。
 そうかもしれない。
 しかし、私は突然、気づいた。「ことば」とはなによりも「哲学」である。つまり、人間そのものである。「ことばをつかむ」ということは「人間をつかむ」ということである。「文法をつかむ」ことではない。
 「接続法」はスペイン語だけではなく、フランス語にもある。たぶん、イタリア語にもドイツ語にもあるだろう。そして、その言語を話す「人間」はどういう人間か。私はある日、インターネットでスペインの友人と話していて、突然、気づいたのだ。あ、このひとは「他人」なのだ。独立した存在なのだ、と。あたりまえなのだが、この「個人(他人)の重視」という哲学が「接続法」のなかに生きている。
 言い直すと、私(主節)が何を考えようが、従節(他人)は別個の次元を生きている。主節と従節で「主語」が変わるならば、動詞(私の好きな言い方で言うと、肉体の動き)は私とは関係がない。無関係に生きている。他人は私の感情や意志では動かない。そういうことをヨーロッパの言語は「文法」として人間にたたき込むのである。

 日本で「同調圧力」というものが語られる。そんなものはスペイン語やフランス語では成立しない。日本語は、日本語を話す相手は「自分と同じように考える」ということを前提としている。でもヨーロッパのことばは、「他人は自分の考えとは関係なく生きている」と明確に意識している。
 「文法」の正しさをいくら追求しても何も始まらない。まず「人間」をつかむこと。そこから出発しないといけないのだ。


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