呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」(★★★+★)(2024年09月22日、KBSシネマ、スクリーン2)
監督 呉美保 出演 吉沢亮、忍足亜希子
「侍タイムスリッパー」の対極にある映画。「侍タイムスリッパー」は幕末を生きていた侍が現代にタイムスリップしてきて「時代劇」を体験する。江戸時代と現代、現実と虚構というふたつの世界を主人公が生きている。
一方の「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、耳と口が不自由な両親から生まれた主人公が、耳が聞こえる世界と、耳が聞こえない人の世界をつなぐ。「ふたつの世界」を生きているという意味では似ている。
しかし。
「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を紹介する記事は、私の読んだ限り(あるいはたまたま知人から聞いた範囲内では)、五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を題材にした映画であり、主人公は「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きているという具合にとらえているのだが。
このとらえ方は、違っていると思う。私は呉美保の作品には何か引きつけられる部分があって、その私が感じている引きつけられる部分が、いま世間で言われている「解説(感想)」とはずいぶんかけ離れている感じがする。それで、ほんとうなのか、という気持ちもあり、映画を見た。(呉は、個人の意識(認識)を深く掘り下げるタイプの作風ではなく、人間の「幅」を広げるタイプの作風だと思う。)
そして、やっぱり違っていた。
「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、たしかに簡単に説明すれば、主人公が体験した「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いている。私は見が聞こえない人、口がきけない人と対話したことがないので(手話も知らないので)、私が知っている世界は「聴こえる世界」であって「聴こえない世界」ではないから、このふたつの世界を体験しているということはそれだけで、そこから教えられることは多いのだが。
でも、この映画を「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を生きている主人公を描いているというだけでは、この映画を語ったことにはならない。
たまたま、この映画の主人公は、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を描いているが、そういう定義でなら、「侍タイムスリッパー」も「武士の世界(幕末)」と「現代」という「ふたつの世界」を生きているということもでき、そこには違いがなくなってしまう。だいたい、ひとはそれぞれ独自の世界を生きている(というか、人はだれでも自分を主人公とする世界を生きている)という言い方をしてしまえば、そして、それぞれの独自の世界を生きていることを認める(マルチ世界を認め、尊重し合う)という方向へ論理を展開していけば、それは、どんな「現実」についても言えることである。こんな抽象的なことを言っても始まらない。
だいたい、呉美保の映画は、そういう「抽象的説明(解説?)」とは遠い「リアル」な描写そのものに基本がある。抽象的な道徳倫理にくくってしまって、そこから何かを語っても、この映画を語ったことにはならないだろう。
これまで書いてきた「ふたつの世界」は、実は「主人公が体験した世界」と言いなおせば「ひとつの世界」である。それを「ふたつ」に分割しているのは主人公ではなく、その映画を見ている観客が聴こえるか、聴こえないかの視点である。それは裏を返せば「私は聴こえる」という「ひとつ」の世界からみた世界、いままで気がつかなかった世界というにすぎなくて、それは「ふたつ」と数えてはならないものである。単に、「見てこなかった世界、見ようとしなかった世界」である。それをふくめて「世界はひとつ」と言ってしまえば、それでおしまい。
なぜ、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのか。
この日本語は、ふたつの意味をもっている。ひとつは「ぼくが主人公として体験した世界」という意味であり、もうひとつは「ぼくが主人公として生きている世界」である。後者には、実は、もうひとり「主人公」がいる。
この映画に関して言えば、「母親」である。「母親の世界の中でぼくが主人公として動いている」。主人公「ぼく」は、このことを知らなかった。だれでも自分を主人公と考える(自分中心に考える)から、「ぼくは聴こえる世界」を生きるとと同時に、「聴こえない人のいる世界にも足を踏み入れ、そのひとたちを助けたりする」ことになる。そう考える。しかし、母親にとって「聴こえる世界」はない。「聴こえない世界」しかない。補聴器をつかって主人公の声を聞くことがあっても、それはあくまでも「聴こえない世界」でのひとつのエピソード。その「母の世界」で「母」は主人公であるのはもちろんだが、それだけでは終わらない。「母の世界」のなかで、主人公は「母」ではなかった。「ぼく」だった。「はは」は「ぼく」を主人公にするために生きていた。母にとって主人公は「ぼく」だった、と主人公が気づく。
これが、この映画のテーマ、呉のテーマである。呉がくりかえし描く「家族」とは何かというテーマである。「私ではない、相手が主人公なのである」。「他人が主人公の世界」。そういう世界でも、私たちは実は生きているのである。
ラストシーン直前。ぼくと母が列車の中で手話で話している。そのあと母が、ぼくにありがとうという。みんなが見ているところで手話で話してくれて、うれしかったというようなことを言う。こここそが、ほんとうのクライマックス。列車の中で手話で話しているとき、ぼくは「主役」ではなくかった。母が主役であり、ぼくは「脇役」だった。だが、「脇役」もできるというのが「主役」の強みであり、「脇役」は「主役」にはなれない。「母の世界」のなかで「主役」のぼくが「脇役」になり、母を「主役」に引き上げている。母は、それをほんとうにびっくりし、こころから喜んでいる。森進一の歌った「おふくろさん」ではないが、自分ではなく他人のために何かをするとき、そのときこそ、人間は「主役」になっているのである。「人間」になっているのである。
主人公は、両親のために苦労させられていると感じていた。「こんな家に生まれたくなっかた」と思っていた。しかし、両親は違ったのだ。「生まれてきてくれてありがとう。おまえが私たちの主人公」と思って生きてきたのである。そして「主人公」のおまえが、主人公をやめて「脇役」になる。その瞬間、それは母が主役になるというより、ふたりが「主役」になる、「家族が主役になる」という瞬間なのだ。
私は映画ではめったに泣かないが、思わず泣いてしまう瞬間がある。呉の、この映画でも、母が「ありがとう」と言ったあと、生きてきた苦しみが何もかも消えてしまったというような、さっぱりした後ろ姿で駅のホームを歩いていくのを見たとき、私は主人公が泣きだす前に泣いてしまった。
あの忍足亜希子の後ろ姿、歩く姿は、もう一度見てみたい。あの瞬間までは、なんというか、映画のチラシやネットの解説がまくしたてているように「耳と口が不自由な両親をもつ主人公が体験した、聴こえる世界と聴こえない世界」をリアリティーにこだわって描いていた映画だったが、そのリアリティーは「ぼく」が見たリアリティーだけではなく、「母」の見たリアリティーでもあったのだと断言し、その世界で「ぼく」という主人公はどう母から見えていたかを教える。「ぼく」が思い出すのは母の笑顔、「主人公=ぼく」が幸福だったとき、母は「脇役」から「主役」にかわる。それを変えることができるのは「ぼく」だけなのである。
多くの人は(私も含めてだが)、もしかしたら、私は「誰かの世界のなかで主人公しもしれない(主人公だったのだ)」と気づくことはない。だが、「世界」は、そんな不思議に満ちている。
ホームを歩く忍足亜希子の後ろ姿までは、すこし紋切り型かもしれない。しかし、このシーンはほんとうに美しい。このシーンのために★を追加した。
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