私たちが中学校で習う幾何は、身体に備わっている空間感覚を利用して理解する論理手続きです。教科書に描いてある図形を見ながら問題を解く。補助線を引いてみたりして考えます。このように幾何学は、ふつうの人が理解する場合は、空間感覚と身体運動の感覚を、無意識のうちに、手掛かりにして理解している、といえるでしょう。その証拠に、プロの数学者でないふつうの人は3次元空間までは楽に理解できるものの、体感できない4次元空間や非ユークリッド幾何学 の話になると、とたんに理解できなくなります。
プロの数学者がこれらの高等数学を議論する場合は、洗練された術語体系を駆使して楽々と論じますが、実は数学者といえども、頭の中では、ふつうの人と同じように身体を使って考えています。数学者は、結局は訓練によって、それら抽象的な不思議な空間を体感で感じ取るようになることで自由に高等数学を取り扱うことができるようになっています。科学者が物理学や宇宙科学や分子生物学などを理解する場合も、結局は同じように、専門的訓練による身体運動が理論を理解するための基礎になっています。つまり空間概念や数学の概念を使って表現される科学はすべて (拙稿の見解では)、私たちの身体に備わっている運動形成機構を使って理解されている、ということができます。
空間は、視覚や触覚で感じ取ることができるとともに、目玉や顔の運動、あるいは身体全体の移動や回転など身体運動によっても、しっかりと感じ取れます。また、言葉で表現することもできるし、地図や図面で示すこともできます。さらに、座標で表現することで数学的操作の対象とすることができ、物理学、地学、工学など科学的表現に使われます。
このようにいろいろと表現や現れ方は違いますが、いずれの場合も (拙稿の見解では)、空間というものが私たち人間の身体運動を基礎として現われてくることは変わりありません。実際、空間を視覚で見とる場合も、脳神経系は仮想運動を実行することで空間構造を認知しています。見えないところを手探りする場合などに触って分かる空間も同じように、身体運動の感覚として認知されます。図に描く場合も、言葉で語る場合も、人に分かるような表現のルールにしたがって身体運動を表していくことで、空間は表現されます。
このように空間というものは人間の身体運動によって作られるものである、という考え方が拙稿の見解です。これは科学者の考え方とはまったく違います。科学者は、空間というものを何よりも先に存在する絶対的なものだ、と考えています。
物理学など科学では、空間はまずアプリオリに(先験的に)ここにある、として理論を展開します。科学者は、私たちが地球人であろうとも、火星人であろうとも、はたまた猿の惑星 のサルであろうとも、空間のありようは変わらない、と考えています。科学者でないふつうの人ももちろん、そう考えているでしょう。しかし拙稿の見解によれば、それは間違いです。私たちがこのような人間の身体を持ち、このような運動能力を持っているから空間はこうなっている、という見解になります。
では、拙稿の見解を使うと、火星人にとって空間とはどういうものなのか?
それは火星人の身体を持っていない私たちには分かりません。あるいはたとえばクラゲにとって空間とはどういうものか(拙稿24章「世界の構造と起源{11}」 )?それもクラゲの身体を持っていない私たちには分からない。私たちは人間の身体しか持っていないので、人間が分かるような空間しか分からない。
逆にいえば (拙稿の見解では)、空間というものは(仮想運動を含めて)身体が動くことで作られるものですから、それは身体がどう動くかによって決まってしまいます。空間は(拙稿の見解によれば)身体が作るものである以上、身体に付随したものである、ということができます。
こうして私たち人間の身体によって分かる空間のすべてがこの現実の空間ですから、これ以外の空間のあり方があるのかないのか、私たちには、まったく分からないというべきでしょう。あるはそういうあり方を問うこと自体、まったく意味がない、というべきです。あるといっても意味がないし、ないといっても、やはり意味がない、ということになります。
私たちが現実の空間について語るときは、私たちの身体が動く限りにおいてしか語ることはできません。つまり私たち人間の身体が動く限り、かつ運動共鳴 によってその動きを人間仲間と共有できる限りにおいて、現実の空間を語ることができる、といえます。