哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ空間を語るのか(7)

2011-11-12 | xx7私はなぜ空間を語るのか

私たちが中学校で習う幾何は、身体に備わっている空間感覚を利用して理解する論理手続きです。教科書に描いてある図形を見ながら問題を解く。補助線を引いてみたりして考えます。このように幾何学は、ふつうの人が理解する場合は、空間感覚と身体運動の感覚を、無意識のうちに、手掛かりにして理解している、といえるでしょう。その証拠に、プロの数学者でないふつうの人は3次元空間までは楽に理解できるものの、体感できない4次元空間非ユークリッド幾何学 の話になると、とたんに理解できなくなります。

プロの数学者がこれらの高等数学を議論する場合は、洗練された術語体系を駆使して楽々と論じますが、実は数学者といえども、頭の中では、ふつうの人と同じように身体を使って考えています。数学者は、結局は訓練によって、それら抽象的な不思議な空間を体感で感じ取るようになることで自由に高等数学を取り扱うことができるようになっています。科学者が物理学や宇宙科学や分子生物学などを理解する場合も、結局は同じように、専門的訓練による身体運動が理論を理解するための基礎になっています。つまり空間概念や数学の概念を使って表現される科学はすべて (拙稿の見解では)、私たちの身体に備わっている運動形成機構を使って理解されている、ということができます。

空間は、視覚や触覚で感じ取ることができるとともに、目玉や顔の運動、あるいは身体全体の移動や回転など身体運動によっても、しっかりと感じ取れます。また、言葉で表現することもできるし、地図や図面で示すこともできます。さらに、座標で表現することで数学的操作の対象とすることができ、物理学、地学、工学など科学的表現に使われます。

このようにいろいろと表現や現れ方は違いますが、いずれの場合も (拙稿の見解では)、空間というものが私たち人間の身体運動を基礎として現われてくることは変わりありません。実際、空間を視覚で見とる場合も、脳神経系は仮想運動を実行することで空間構造を認知しています。見えないところを手探りする場合などに触って分かる空間も同じように、身体運動の感覚として認知されます。図に描く場合も、言葉で語る場合も、人に分かるような表現のルールにしたがって身体運動を表していくことで、空間は表現されます。

このように空間というものは人間の身体運動によって作られるものである、という考え方が拙稿の見解です。これは科学者の考え方とはまったく違います。科学者は、空間というものを何よりも先に存在する絶対的なものだ、と考えています。

物理学など科学では、空間はまずアプリオリに(先験的に)ここにある、として理論を展開します。科学者は、私たちが地球人であろうとも、火星人であろうとも、はたまた猿の惑星 のサルであろうとも、空間のありようは変わらない、と考えています。科学者でないふつうの人ももちろん、そう考えているでしょう。しかし拙稿の見解によれば、それは間違いです。私たちがこのような人間の身体を持ち、このような運動能力を持っているから空間はこうなっている、という見解になります。

では、拙稿の見解を使うと、火星人にとって空間とはどういうものなのか?

それは火星人の身体を持っていない私たちには分かりません。あるいはたとえばクラゲにとって空間とはどういうものか(拙稿24章「世界の構造と起源{11}」 )?それもクラゲの身体を持っていない私たちには分からない。私たちは人間の身体しか持っていないので、人間が分かるような空間しか分からない。

逆にいえば (拙稿の見解では)、空間というものは(仮想運動を含めて)身体が動くことで作られるものですから、それは身体がどう動くかによって決まってしまいます。空間は(拙稿の見解によれば)身体が作るものである以上、身体に付随したものである、ということができます。

こうして私たち人間の身体によって分かる空間のすべてがこの現実の空間ですから、これ以外の空間のあり方があるのかないのか、私たちには、まったく分からないというべきでしょう。あるはそういうあり方を問うこと自体、まったく意味がない、というべきです。あるといっても意味がないし、ないといっても、やはり意味がない、ということになります。

私たちが現実の空間について語るときは、私たちの身体が動く限りにおいてしか語ることはできません。つまり私たち人間の身体が動く限り、かつ運動共鳴 によってその動きを人間仲間と共有できる限りにおいて、現実の空間を語ることができる、といえます。

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私はなぜ空間を語るのか(6)

2011-11-05 | xx7私はなぜ空間を語るのか

たとえば、アメリカのど真ん中、カンザス州の大草原にある一軒家の描写:

「彼らの家は小さかった。それというのも、家を建てる材木は遠くから馬車で運んでくるしかなかったから。家には壁が四つと床と屋根があって一部屋になっていた。その部屋には錆びたようなストーブと皿を入れる食器棚とテーブルと三つ四つの椅子とベッドがあった。ヘンリーおじさんとエムおばさんが片隅にある大きなベッド、そしてドロシーが別の隅にある小さなベッドを使っていた」(一九〇〇年 ライマン・
フランク・ボーム『
オズの魔法使い 』訳文筆者)

この文章を読んで私たちは、どういう空間について述べられているのか、直感で分かります。こういうことが分かるということは、私たちが言語を使って空間概念を共有しているからです。

この家の間口、奥行き、高さ、家具の配置など幾何学的データをコンピュータに入力すれば、立体図や3次元透視図などいろいろな図面を正確に描いてくれます。また体積などもすぐに算出してくれます。しかし、コンピュータはこの家の空間概念は感知できません。家の形や大きさ、位置など私たちが直感で感じ取れる空間概念は (拙稿の見解では)、私たちの身体運動の感覚から来ているからです。文章による描写を読んで瞬時に私たちが感じるような空間概念を感知するためには、人間の身体を持って、人間と同じ運動能力を持ち、さらに運動経路を積分する、人間が持つような神経機構を持っている必要があるといえます。

たとえば「家は小さかった。家には壁が四つと床と屋根があって一部屋になっていた。」という言葉を聞いた瞬間、私たちの身体はその空間を想像できます。私たちは、聞いただけで想像したその家を外から、あるいは中から、見まわしたり、触れて歩いたり、あるいは空間に立体的な線画を描いたりする運動を頭の中で準備(拙稿の用語では仮想運動という)しています。つまり無意識のうちに自分の身体がその空間に働きかける、あるいはその空間の中を動き回る場面を想像しています。この仮想運動によって (拙稿の見解では)私たちは空間の概念を作っている、といえます。

ある空間に対して、私たちが身体で無意識のうちに反応する場合、この家くらいの大きさ、つまり私たちの身長の数倍くらいの大きさのものならば、それに対しては身体全体を動かしてみる。まあ、三十階建てのビルくらいでも、その大きさは体感で想像できます。一方、その空間が小さくて指の大きさくらい、つまり数センチメートルの大きさならば、指先でなぞったり、ひっくり返したりする。

このように、空間の大きさが私たちの身体の数十倍から数十分の一くらいの範囲内ならば、私たちは直感でその大きさが分かるし、その形や構造も体感で感じ取れます。ところが、空間が身体に比べて非常に大きい(地球とか銀河とか)か、非常に小さい(細胞とか分子とか)空間は、そういう身体運動をうまく当てはめることがむずかしいので、私たちはそういうものを想像することが苦手です。

ちなみに、ふつうの人が苦手でうまく想像できない巨大な空間や微小な空間をうまく取り扱うことを、やすやすとしてしまうのがそれぞれの専門家です。銀河の形状を研究する宇宙科学者とか、たんぱく質の形状変化を研究する分子生物学者などは、毎日の訓練によって想像力が専門的になっているので、これらマクロやミクロの空間構造をやすやすと思い描くことができます。

地球の大きさなどは、宇宙飛行士以外のふつうの人にとっては、まったくの想像でしかありませんね。それでも、私たちは自分が飛行機になって高速で地球を飛行したり、あるいは宇宙飛行士になって丸い地球を見下ろしたりする感覚を想像できます。あるいは地球を手玉に取るほどの超巨大な神様になることを想像したりもする。つまり私たちは、空を飛んだり巨大な身体になったりすることを空想することで、そのような巨大な想像の空間(たとえば地球全体)に身体で関わることで、その空間概念を直感で感じ取ろうとします。そのような身体感覚を想像することから、地球や宇宙という空間概念は作られています。

逆に、ウィルスのような微細構造をも私たちは想像できます。この場合も、素人の私たちは科学者の書いた解説記事等の挿絵をみながら目の前にウィルスの分子構造が見えるかのごとく会話することができます。極小の小人になったつもりで、掌にのる茶碗くらいの大きさのウィルスをなでたりつまんだりすることを想像することで私たちはウィルスの構造を体感できます。分子生物学者ならばウィルスの外皮を構成するたんぱく質や糖鎖が水素結合エネルギーによって引き付けられている力加減を体感で感じることもできます。もちろんすべて想像ですが、その想像は、基本的には、私たちの身体筋肉の収縮反応から作られているという点で、私たちの身体運動と同等のものだといえます。

私たちは仲間の動作を見たり言葉を聞いたりして、仲間が空間を感じ取っていることを感知することで、自分の身体が仲間の動きにつられて無意識のうちに動きそうになります。人間の身体は、(拙稿の見解では)生まれつきそのようにできています。自分の身体が動きそうになるその身体反応を手掛かりにして私たちは空間を感知しています。自分一人で空間に関して考えるときも、同じように、(だれでもよい)仲間が空間を感知することを想像して(拙稿の見解では)、仲間がその空間を動き回るその運動に共鳴して(運動共鳴)、自分の身体が動きそうになること(仮想運動 )で、空間を感知します。

哺乳類に限らず、鳥類、あるいは昆虫類など多くの帰巣性動物と同じように、私たち人類も自分の身体の移動の距離や方向を(ユークリッド空間が数学的に生成されることと同様の計算手続きが神経系の上で実行されることで)空間積分によって感知しています( 一九八八年 ミューラー、ウェーナー『砂漠アリの経路積分』既出)。その結果、人間は、この現実の空間をユークリッド空間と感じている、といえます。このような空間概念を私たちは仲間と共有しているので、それを言語で表現できます。またそれを数学で表現できます。

逆にいえば、私たちが空間を感じ取ることができ、空間について語り合うことができ、空間を図で表したり、言葉や数学で表したりすることができるということは、 (拙稿の見解では)私たちの身体(の神経系)が運動を積分することでユークリッド空間を生成することができる、ということを示している、といえます。

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私はなぜ空間を語るのか(5)

2011-10-29 | xx7私はなぜ空間を語るのか

文系人間は言葉がよく分かるのに対して、理系人間は空間がよく分かる、などと言われます。こういう比較がよく使われるということは、言葉と空間とがそれぞれ別の感覚で捉えられるものと思われているからでしょう。言葉と空間というものは、このように、互いに関係がなさそうに思われがちですが、実は深い関係があります。私たちが空間について考えるときは(拙稿の見解では)、結局は、だれかとそれについて語り合う場合です。書きものとして書いているときも読者に語っています。一人で考えているときでも、私たちは自分自身と語り合っています。つまり、私たちが空間についてはっきりと考えているときは、言葉を使うときです。

空間について語り合うとき、私たちはお互いに共鳴できる運動を使って語ります。たとえば「まず私の立っている所へ来てください。そこから私が見ている方向へ10メートル進んでから左を向いて20メートル進みます。・・・」などと言って空間の位置を示すことができます。

つまり私たちはその空間に身体を移動させる動作について語っていきます。動作の順序に従って移動の手続きを述べていくことで、空間の構造を語ります。空間の位置を示すときはその位置に至る移動の過程を語ることで位置を示します。

ごく小さい、原子の世界について考えるときも、巨大な銀河について考えるときも、私たちは、実は、自分の身体を動かすことを想像することで考えています。たとえば水素分子の回転について考えるときも、あるいは巨大な銀河の回転について考えるときも、私たちはその物体を手にとって指でひねる場面を考える。つまり指をどうひねるか?指の運動感覚で抽象的な回転を直感しようとします。

動物が身体を移動すると身体と接する地面が相対的にずれていきます。また周囲の風景がずれていきます。進行方向を変えると体軸と太陽方向の角度が変わります。風景も回旋します。さらに筋肉にかかる抗力の履歴も記憶できます。これらの連続的な記憶を脳内で(ユークリッド空間のベクトル積分として)積算していくとユークリッド空間が生成されます。多くの昆虫や脊椎動物など左右対称形動物はこのような空間積算能力を備えた神経機構を持っていて、帰巣性の動物は特に、巣の周辺などの地理を作り出し、記憶しています。

伊能忠敬 が日本地図を作製したとき、日本列島がどんな形をしているのか、地図が完成するまで誰も分かりませんでした。測量隊が歩いている山や海岸の形は目で見て分かるけれども、大きな地域の全体像は地図ができて初めて分かる。大きな地図は、毎日歩ける範囲の地形を何日分も作図して継ぎ足していって描いていくものだからです。精密な日本全図ができてしまうと、もう自分が立っている場所がどういう位置であるか、周りにはどういう空間が広がっているのかが直感ではっきり分かるようになります。

このように空間というものはその中を動き回る経験を蓄積し積算して作られていくものです。動物は無意識のうちにこの地図つくりのような測量と積算を繰り返して記憶し空間を把握します。

私たち人類も身体を動かして移動することによって生成されるユークリッド空間構造を(読者が今身体の周りに感じておられるような)現実の空間として身体感覚で感知しています。人間はだれもが (拙稿の見解では)空間を感じ取るその感覚を運動共鳴によって仲間と共有しています。人類はさらに、その共有する空間感覚を言葉で語り合うことで、空間についての知識を固定することができます。

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私はなぜ空間を語るのか(4)

2011-10-22 | xx7私はなぜ空間を語るのか

読者のご推察の通り、拙稿では後者の見解を採ります。

節足動物や脊椎動物など左右対称形動物は、三歩進んで同じ方向にさらに続けてまた四歩進めば七歩進んだ地点に至る。一歩進んでから六歩進んでも七歩進んだ地点に至る。つまり「今の位置」=「今までに(その方向に)進んだ距離の合計」という法則を満たすように身体が移動する。こういう構造の空間がユークリッド空間です。

実質的にユークリッド空間の中を動いているのと同じ経験しかできない環境で進化する動物は、その運動環境に適応することで、ユークリッド空間を知覚する機構を備えるようになるでしょう。

実際、たいていの動物が一日くらいで移動できる距離の範囲内では地球の陸地はだいたい平らとみなすことができます。渡り鳥などの例外を除けば、ほとんどの動物が一日で移動する距離は数十キロ以内です。東京都心から成田空港までが約50キロですから、大した距離ではありませんね。50キロ進んでも、水平線の方向は0.45度しか変わりません。一日歩いてこの程度の変化しかないならば、ふつう、感じ取れません。それに地平線や水平線はいつでも重力方向に垂直ですから、身体を水平に保てばいつでも視線方向に水平線、地平線がある。

そうであれば、地面や水面は、いつでも平面であると感じられます。平面上ではいつでもユークリッド幾何学の法則が成り立つので、そこはユークリッド空間となります。

もし仮に宇宙空間に浮かぶ回転円筒形の宇宙ステーションの中で進化した動物がいるとすれば、自分が住む空間をユークリッド空間であるとは認知しないでしょう。円筒形の地面を進んでいると、いつかは元の地点に戻ってしまうからです。たとえば千歩くらい歩くと元の地点に戻ってしまうような空間にいる場合、地球上とは違う感覚が発達するでしょう。

銀座通りを新橋から京橋まで歩くと京橋を渡った瞬間に新橋に戻ってしまうようなものです。千一歩歩くと一歩歩いたのと同じ地点に到達するということになります。つまり何万歩歩いても下三桁の歩数だけ歩いたのと同じ、という世界です。一歩ごとに重力の方向が0.4度くらい変化する。そういう世界で神経系を進化させた動物は、千歩進むごとに元の場所に戻るという非ユークリッド的な空間感覚を身につけることになるでしょう。

私たち人類は(拙稿の見解によれば)地球の広々とした陸地で進化したので、ユークリッド空間を認知する神経系を持っている。私たちが千歩歩けば元に戻ってしまうような(遠心力が働くように)回転する円筒形の宇宙ステーションや星の王子様の住む家くらいの大きさの(重力だけは地球くらい強いとされているらしい架空の)小惑星のうえで進化した動物であるとすれば、無限に進めるという感覚を持つ必要がありません。

そうであれば無限に大きくなる自然数を感じ取る必要もない。そういう人類が使う自然数は千まで数えると次は一でしょう。ふつう999,1000,1001,1002、・・・と数えるところが、999,1000,1,2、・・・となってしまいます。無限に伸びる直線を感じ取る必要もない。すべての直線は円である、とかになる。無限の時間という概念もないでしょう。時間も円環的である。つまり千年たつと千年前に戻ってしまうと信じているかもしれません。あるいは千年もたつとすべては死滅して何も変化しなくなる、とか思っているでしょう。私たちがもし、そういう世界に生きる動物であれば、ユークリッド空間を認知する神経系を持つ必要もありません。

人類は実際、身体の大きさに比べて無限に広い陸地の上で進化した。だからこの現実世界は、四方八方に等方的に無限に広がっているのです。

このことは、物理学理論でいう宇宙がユークリッド空間であるとしても、あるいはそうでない(非ユークリッド空間である)としても、どちらでも同じことです。地球の広々とした陸地を移動する小さな左右対称の動物は、その移動空間を近似的にユークリッド空間として感じ取るように進化しているはずです。

そうであれば、そういう動物の子孫である私たち人類は、宇宙全体が実際はどんな空間であろうとも、直感としてはそれをユークリッド空間としてしか感じ取ることはできません。時間の流れもまた、人類がそういう動物であれば、空間の比喩で感じ取る限り、直感としては、無限に続く直線のような概念でしか感じ取ることはできないことになります。

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私はなぜ空間を語るのか(3)

2011-10-15 | xx7私はなぜ空間を語るのか

私たちはこの空間がユークリッド空間であると感じます。つまり私たちが移動すれば移動した先でまた周囲に新しいユークリッド空間が広がっていると感じることができる。そこからまた同じように移動することでこの状況はいくらでも繰り返される。移動を繰り返すことで私たちが経験する空間はどんどん無限に大きくなる、1.2.3.4.5・・・と数えていくとどこまでも大きい数が出てくることに似ています。数学用語では(無限)群の生成といいます。移動によって空間が広げられていく。このことは、移動の手続きを示すことで空間上の位置を示すことができる、ということです。移動を繰り返せば、いくらでも自分がいる位置を先へ進ませることができます。

私たちは二、三歩歩くことで1メートル先へ進むことができますが、その先でさらに同じように二、三歩歩くことでさらに1メートル先へ進むことができます。こうして私たちは2メートル進むことができます。これを繰り返すことで百メートル進めます。さらに繰り返せば、千キロメートルあるいは百億キロメートルでも進むことができる。

疲れてしまうので実際はそんなに進めませんが、仮に疲れを知らずに永久に歩き続けるとどうなるか?地球を一周してしまいますね。地球の上を歩く代りに宇宙空間を直線的に進むとどうなるか?千億キロメートルでも億兆キロメートルでも無限にまっすぐに進むことができる。太陽系を飛び出して、さらに銀河のかなたに進むことも想像できる。こういう空間がユークリッド空間です。

「宇宙の果てはどうなっているの?」という有名な問題があります。小学生が真面目に質問します。大人は、どうせ分からないと思っているので質問しません。こういう問題は、科学者に難解な理論を使って答えてもらえばよい、と思っています。実は科学者でも、この問題の意味がよく分かっている人は多くありません。

地球から離れて、宇宙をどこまでも進むとどうなるのか、と思うと不思議です。小学生が正しい。この問題が不思議なのは当然です。私たちがユークリッド空間に住んでいると思っているならば、当然、宇宙は無限に広い。四方八方に無限に広がっているはずです。では無限の先はどうなっているのか? 宇宙に果てはないのか? すごく不思議な感じがする。そういう疑問ですね。

この疑問は、この宇宙がユークリッド空間であると前提することから来ます。

百年ほど前までは科学者もこれが不思議でした。現代科学では、アインシュタインが理論化した一般相対性原理によって、宇宙は近似的にユークリッド空間であるが正確にはユークリッド空間ではないということが分かっているので、無限にまっすぐに進むことはできません。

その場その場では(微分すれば)まっすぐに進んでいるはずでも(積分すれば)少しずつ曲がっていって遠くまで行くと全然まっすぐに進めていない。こうなると、進んだだけ遠ざかるという私たちの直感が使えないことになります。宇宙は非常に大きいけれども無限に大きいと考える必要はない、ということになります。

「宇宙の果てはどうなっているの?」という質問は素朴で、それを知りたい気持ちはよく分かりますが、実はこの質問は質問になっていない、と言わざるを得ません。少しきちんと整理すると、この質問は「宇宙は四方八方に無限に広がっているみたいだ。けれども、そうするとそういう無限の先の先がどこまでもあるというのはどう考えてもふしぎだ。どう考えればよいの?」というような質問に置き換えられそうです。この質問はさらに次のような質問に置き換えられます。

「私たちは、なぜ無限の空間とか無限の時間とかを想像することができるか?その無限というのは一体何なのか?」

無限というのは、どこまで進んでもさらに先がある、ということですね。こういう空間はユークリッド空間です。ユークリッド空間という数学用語を使ってよいならば、先の質問は、次のように簡単な言い方にできます。

「私たちはなぜ、この宇宙がユークリッド空間であるかのように感じるのか?」

私たち人間は、なぜ自分たちの身の回りのこの空間がユークリッド空間であると感じるのか?これが、つまり、「宇宙の果て」問題の正しい問い方です。

人間は真実の空間を感じ取れるのか? あるいは、空間は実在するのか?

近代哲学(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判 』第二版)が論じたように、人間の理性に先験的に埋め込まれている感覚は真実の空間を見通せるのか?それとも私たちの感覚は、動物進化の結果、環境に適応して、身体運動の環境空間をユークリッド空間として認知するようになっているだけなのか?

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私はなぜ空間を語るのか(2)

2011-10-08 | xx7私はなぜ空間を語るのか

「印鑑はどこにありますか?」「自宅の書斎の机の手前の引き出しの中の茶色の箱の中にあります」

この回答を聞いた質問者は、この人は自宅を持っていてそこに(ひとつだけ)書斎を持っていて、そこには机がひとつだけあって、その手前の引き出しはすぐそれと分かるようなものであって、しかもその引き出しの中にはすぐそれと分かるような茶色の箱があるのだな、と思います。つまり回答者は、印鑑のありかを語っていると同時に印鑑の位置を同定するのに必要な空間構造決定の手続きを示している。

私たちが空間について語る時、ふつう空間の構造を利用して位置を示します。向かいのビルの地階だとか、書斎の机だとか、大きなものの内部にある小さなものであってそこに近づけばどれを指しているか分かるような空間構造を利用して位置を語っていきます。何々の内部にある何々の内部にある何々の・・・という具合に領域を狭めていきます。住所表記なども同じ原理を使っています。

私たちはこのように、空間の構造をたどってその地点に至る身体の動きを語ることで位置を決めつけています。原始時代の人々は、まさに洞窟住居から出てどこをどう歩いてその地点に行きつくかを語り合うことで空間を決めつけていたのでしょう。この同じ原理を、現代人の私たちも使っています。

インターネットの地図検索サービス等はいろいろ便利な検索機能ができています。地球上どこでも国名と住所を入力すればすぐに詳しい地図が現れます。その地点の道路から周辺を撮影した画像もパソコンで見られますね。上空から航空撮影した俯瞰写真も出せます。もっと上空からの衛星画像も出ます。宇宙から撮影した地球全体の画像から好きな地点をクリックで拡大して、そこに「着陸」するように画像をズームアップできます。もちろん緯度経度を東経何度何分何秒・・・と詳しく入力して、ピンポイントの地図や俯瞰画像を表示させることもできます。

緯度経度から地点を検索する方法は、住所や建物を頼りにせずに正確に位置を決めつける方法です。科学や工学では、このように空間の構造を無視して数学的な空間座標で位置を決定する方法がよく採られます。

「北極星はどこですか?」

「北極の上空にあります」

天体の位置などは方位角と上下角で決めます。カメラでいうパンとチルトですね。もともとは昔の戦争で大砲を撃つときの砲身方向の決め方からきています。十六世紀の大航海時代には海上で船の緯度経度を割り出すのに天体観測を使ったので三次元の空間座標が発達しました。船上で使用する航海用の天体観測装置は六分儀と呼ばれるプリズム望遠鏡ですが、この装置でも方位角、上下角を測定して天体の位置を決め、逆算して船の緯度経度を決めます。これらの場合、三次元空間の位置は方位角、上下角、距離の三個の数値で表記します。

これはカメラをパンさせて、次にチルトさせて、それからレンズを回してピントを合わせる動作の手続きに相当しています。昔の戦争で大砲を撃つ場合、砲兵将校が命令する「方位2時の方向。上下角30度。(水平)距離5キロ。用意。撃て!」という動作手続きからきています。

いずれにしても、狙いを定める装置を使って私たちが身体を動かして目標の位置を決める手続きを数値で表現することで、空間内の位置を表現しています。このように三次元空間の位置を方位角、上下角、距離の三個の数値で表記する方法は球面極座標表示といわれます。

数学ではデカルト座標系を使って(x、y、z)と三個の数値の組で三次元空間を表記することが一般的です。x方向に距離xだけ進んで、次に90度方向を変えてy方向に距離yだけ進んで、最後に真上の方向、つまりz方向に距離zだけ進んで至る位置が(x、y、z)と表記されます。この方法もまた、抽象化されて洗練されてはいますが、人間の身体が移動して位置が決まっていくという動作の手続きによって位置決定を行っています。この表記法はコンピュータの積分に便利なので物理学や工学の計算によく使われます。

現代人の私たちはデカルト座標系で表されるような構造の空間が現実の空間だと直感で感じるようになっています。この空間はユークリッド幾何学の空間なのでユークリッド空間と呼ばれます。しかし私たちの直感の通り現実の空間がユークリッド空間であるとすると物理学としては矛盾が生じてしまいます。そこで非ユークリッド幾何学を使うアインシュタインの相対性原理を採用すると矛盾が解消されるので、現代物理学では、現実の空間は近似的にユークリッド空間ではあるが正確には非ユークリッド空間である、と見なされています。

ユークリッド幾何学は私たちの直感とよく合っている空間を作る幾何学です。その特徴は、原点をどこへ移動してもそこから同じ法則で新しい空間が無限に広がっていく、ということです。どこへどう動いても近づいて拡大しても遠く離れても同じ法則で空間が無限の遠方にまで広がっていると思うことができる。実際、私たちの身体がどこへどう移動しても、腕の長さは変わりません。1メートルのものは1メートルに感じられる。三角形の内角の和は180度です。また遠くの大きなものを見ても近くの小さなものを見ても、空間の法則は同じと思える。巨大な三角形も微小な三角形も、内角の和は180度です。私たちが住んでいる空間はまさにこのようなものだ、と思えます。

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私はなぜ空間を語るのか(1)

2011-10-01 | xx7私はなぜ空間を語るのか

(27 私はなぜ空間を語るのか?  begin


 27 私はなぜ空間を語るのか?



「トイレはどこですか?」

たとえばミラノの駅で駅員さんに聞く必要があったとします。

「ドーヴェ・ウン・バーニョ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

親切に答えてくれるのですが、何を言っているのか分からない。これではイタリア語会話集を使ったのが裏目に出てしまいます。

身振りから推測すると、あちらの待合室らしい部屋の裏手にあるらしい。実際行ってみると掲示板があるので安心します。私たち観光客は駅の空間構造も知らない、案内掲示の記号も日本と同じかどうか心もとない。

青が男で赤が女であると思ってよいのか?反対だったら困ります。

言葉はさっぱり分からない。しかしトイレがどこか近くに必ずあるはずだ、という確信はある。こういう状況です。

トイレは私が立っているところから、たぶん、百歩以内の距離に少なくとも一か所はあるはずだろう。左側はプラットフォームだから、たぶん、ない。右は待合室や切符売り場やベンチがあって入り組んでいる。ここからはトイレの掲示が見あたらないけれども、少し移動すれば掲示板が見えるだろう。そう考えると、人が行き交っている通路のほうへ少しだけ移動して、案内掲示を探すという戦略をとることが一番よさそうです。

こういう状況で、私たちが日本人の二人組ならば、次のような会話になるでしょう。

「おい、あっちへ行ってみよう」

「あっちってどっち?」

「こっちだよ」と歩き出す。

「待ってよ。そっちはさっき来たほうじゃない。トイレはなかったわよ」

「じゃあ、どっちだ?」

「さあ、人に聞いてみたら?」

「日本語も英語も通じないよ」

困った二人は、周りをきょろきょろと見回して、何か手掛かりを発見しようとします。こういう状況で、私たちは空間について語らざるを得ない。

空間とは何か? 私たちの身体の周りに広がっている空間とは、何なのだろうか?あらためて考えてみれば不思議なものだ、と筆者は思います。

身体のすぐ近くから空間は広がっている。

たとえば目の前にパソコンがあります。手を伸ばすとキーボードに触れる。距離は30センチくらいか。キーボードの斜め上方20センチくらいにディスプレーがある。縦20センチ横40センチの長方形です。筆者が自分の目線に合わせて傾きを調整したので、垂直に対して20度くらい後方に傾いています。

私たちは、パッと見て目の前にある物体の空間配置がこのように分かる。なぜ分かるのだろうか?

人間の視覚については古くは哲学者たち(たとえば一七〇九年 ジョージ・バークリー『視覚新論』あるいは一七〇四年 ゴットフリード・ライプニッツ人知新論 )が、現代では認知科学者たちが、深く研究しています。両眼の網膜に映る画像から3次元空間にある物体の位置と形を推定するメカニズムは、詳しく知られています。しかしそうして感覚器官の情報から推定された情報としての3次元空間の画像データが自分の身体の周りにあるということをなぜ私たちは知っているのだろうか?そしてその3次元空間の中に自分たちの身体があることをなぜ私たちは知っているのでしょうか?

私たちは自分がここにいることを知っています(拙稿19章「私はここにいる」 )。ここがどこであるかも知っています。ここは私の部屋です。私の家の私の部屋です。私は私の家がどこにあるか知っています。私の家は日本の東京にあります。もちろん地球の太平洋側にあるわけです。私がこういうことを知っているのは、しごく当たり前です。逆にこういうことを知らなかったらおかしいですね。

「私はだれでしょう?ここはどこでしょう?」などいうセリフをテレビドラマで記憶喪失の人が言います。ドラマだけあって不思議な状況を設定している。しかし、不思議とは言っても、この記憶喪失の人は自分がだれかという疑問を持ち、ここはどこかという疑問を持っています。こういう疑問さえ持たないのが、生まれたばかりの赤ちゃんや認知症の老人でしょう。赤ちゃんや認知症患者は、身の回りに広がっている空間というものを認めていない。だから自分はだれか、とか、ここはどこか、とかいう疑問を持つはずがありません。

私たちは空間について語る。「それはどこにあるか?」と聞くためには空間の構造をすでに知っている必要があります。たとえば「郵便局はどこですか?」と聞かれて「向かいのビルの地下一階にあります」という会話をする場合、話し手と聞き手は、自分たちが立っているところは道路際であってその道路を渡った向かいにはビルがあること、そしてそのビルには地下があって店舗などが営業していること、などをすでによく知っていなければなりません。話し手と聞き手が、空間の構造に関するそのような知識を共有しているから、空間についてこのような会話がなり立つ。

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