哲学の科学

science of philosophy

存在は理論なのか(7)

2011-04-30 | xx5存在は理論なのか

そこにそのリンゴが存在している、という意識を伴う存在の認知は、最後のプロセスまで進まないとできません。哲学者や科学者が存在を考えるとき、最後のプロセスばかりを重視する。拙稿の見解では、前のほうのプロセスが重要です。後ろのほうのプロセスは前のプロセスを補っているだけであって、後ろのプロセスばかりを分析しても存在の意味を知ることはできません。

私たちが物事を認知するプロセスは(拙稿の見解では)、その物事を表す言葉が浮かぶ前にすでに無意識のうちに身体がその存在感を感じとって反応しているところから始まります。その後、その物事を表す言葉が浮かんでしっかり意識し記憶できるという順で起こる。

最初のプロセス(1~5)を前段プロセスと呼びましょう。赤ちゃんや人間以外の動物が目の前に見えるリンゴを認知する場合、ここまでで終わりです。

前段プロセスでは「リンゴがそこにある」というような言葉は浮かんできません。赤ちゃんや動物はリンゴを見た次の瞬間、口に入れて噛んでいるでしょう。言葉を話せるようになった人間の場合だけ、後のプロセス(6~10)にまで進んで「リンゴがそこにある」という言葉が浮かびます。

後ろのこの認知プロセスを後段プロセスと呼びましょう。後段プロセスを経ることによって、私たちは「リンゴがそこにある」と思い、人にそれを語りそれを記憶する。つまり目の前のリンゴがこうしてはっきりと存在するようになります。ここまで行くためには(拙稿の見解では)、まず前段プロセスで私たちは人間以外の動物と同じ様にそれがそこにあることを身体反応で感じとって、次に人間特有の後段プロセスで「リンゴがそこにある」と認識するという二段階のプロセスを行わなければなりません。

動物は進化の結果、それぞれの生態環境で生存繁殖に必要な認知機構を発達させています。多くの動物は、リンゴを見た瞬間、身体が動いてそれを口にくわえる。その反射運動が動物にとってのリンゴの認知になっています。人間も、生まれつき備わっている動物共通の前段プロセスで、生活に必要な身の回りの物事の存在を無意識のうちに(身体反射として)認知しています。ここまでの無意識のプロセスで、身体は対象物に反応して動き出しそうになる。動物や幼児は実際に身体が動いてしまいます(二〇〇三年 ブルース・フッド、ヴィクトリア・コール=デイヴィス、マラニー・ディアス『就学前児童における物体視認と探索の方法』)。譫妄状態の人も同様でしょう。意識のしっかりした大人の人間だけが、感覚刺激に対して衝動的に身体を動かさないで冷静に事態を予測できます。逆に言えば、このような身体の状態を私たちは、しっかりとした意識がある状態と言っています。

後段の認知プロセスで、私たちは言葉を使って仲間と一緒に生活に必要な物事の客観的な存在を共有します。私たち人間はほかの動物と違って、実際には仲間がそばにいなくて自分ひとりの時も、仲間の視点に立って集団的に、つまり客観的に、物事を認知できる能力を持っています。逆に言えば、これが私たちの感じる客観性の起源である、といえるでしょう。

ちなみに、この後段プロセスでは、仲間が同時に必要と感じるものだけが存在できるようになるという点に注意が必要です。自分ひとりだけが感じても仲間がそれを必要としないような物事は、仲間と共有できないので、言葉になりません。そういう物事は前段プロセスで止まってしまって、後段プロセスまで進みません。その場合は記憶に残らず後で思い出すこともできません。

私たちはそういう物事を客観的な現実と思うことができません。夢で見た感覚などはそれでしょう。身体内部の感覚なども一過性であればほとんど記憶に残りません(拙稿23章「人類最大の謎」。それらは客観的に存在するものではない。逆に言えば、客観的に存在する物事とは、後段プロセスにまで進んで、仲間がそれを私たちと一緒に必要と感じる(と感じられる)物事のことです。

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存在は理論なのか(6)

2011-04-23 | xx5存在は理論なのか

さてそれでは、私たちの身体のこのような仕組みはどう作られているのでしょうか? 

古代ギリシアで考え出された古典西洋哲学では、理念(たとえばリンゴのイメージあるいはイデア)に合わせて実在の物事(たとえば実物のリンゴ)が現れる、とされました(

二〇〇六年 マーク・コーエン『プラトンのパエド)。理念が実在であって目に映る物事はそれの現れにすぎない、という考え方です。ちょっと直感と違う感じがしますね。

一方、現代の心理学あるいは認知科学においては、感覚器官から取り入れられた情報(たとえば網膜に映るリンゴの映像)が脳内蓄積情報(リンゴという意味記憶)と脳内で(脳神経科学の現状ではまだ解明されていない)何らかの仕組みで融合して認知が行われる、という図式が常識になっています。この常識は私たちの直感に合っていますね。拙稿の見解も、おおすじはこの常識を踏襲しますが、注目点は常識とかなり違います。

認知科学の常識では、物事はまず認知され、その認知された物事に反応して行動が引き起こされることになっています。これはふつうの常識と同じですね。しかし拙稿の見解では、実際の認知プロセスが進む順序は逆です。

拙稿の見解によれば、人間が物事を認知するプロセスは認知→行動の順ではなくて、運動反射→認知の順であると考えます。認知の前段階としてまず無意識の身体運動反応が起こり、これが後段階として意味記憶を引き起こして言語を伴う認知の記憶を作っているという見解です。つまり、感覚器官の興奮→無意識的な身体運動反射→存在の言語的な認知、というプロセスを重視します(拙稿では、「行動」という語は議論をミスリードする危険があると考えますのでなるべく使いません)。

「おいしそうなリンゴがある→リンゴに手を伸ばす」ではなくて、(拙稿の見解によれば)「手が伸びていく→その先においしそうなリンゴがある」という順です。

つまり物事は、それに対して私たちの身体が反応するように存在する。たとえば、リンゴはそれをかじるとおいしそうだから、かじるとおいしそうなものとして存在する。そして私たちが自分の感覚器官で感じとっていると思い込んでいる光、音、触感、味、匂いなどの感覚情報は、それが表す物事そのもの(たとえばおいしそうなリンゴ)としてまず認知され、そう認知されるから感覚情報(リンゴから出る反射

光、音、触感、味、匂いなど)として存在する。たとえば、そこにまずリンゴがあって赤い反射光を出すからその赤い光は存在する。

これを時系列的にいえば、私たちは、次のようなプロセスを順番に経ることによって、そのリンゴが現実に存在していることが分かる。反応時間は、最後までで十分の一秒くらいでしょう。

0.何か身体の動きに影響する変化があるらしいと感じる。

1.身体がその変化に注目しそれを観察する準備をしていることが分かる。

2.その変化はそこにあって、赤く輝いていてまんまるい輪郭をしている物であることが分かる。

3.その物を見た人はそれを手に取りたくなるだろう、と予測できる。

4.その物はだれもがリンゴと思っている類の一つであることが分かる。

5.だれがそれを見ても「リンゴがそこにある」と言うだろうと予測できる。

6.「リンゴがそこにある」という言葉が浮かぶ。

7.私が「リンゴがそこにある」と思っている、と分かる。

8.リンゴを私が見ている、と分かる。

9.リンゴから出る赤い反射光が私の目に入ってくる、と分かる。

10.そのリンゴの存在を私がこの目でたしかに見た、と記憶する。

プロセスが進む順番が重要です。拙稿が強調したいことは、最初から身体が無意識のうちに、そこにある何かを手に取りたくなるという感覚を感じ取ることでリンゴの存在感を取り入れてしまっている、ということです。その後、いろいろなプロセスが働いた結果、(最後のほうでようやく自分というものが登場して)私たちは自分がリンゴの存在というものを認知している、と分かる。そこでようやくそのリンゴの存在が完成する。

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存在は理論なのか(5)

2011-04-16 | xx5存在は理論なのか

具体例を挙げてみましょう。

渋谷のハチ公は、私たちが渋谷でデートするときに必要だから存在する拙稿24章「世界の構造と起源

青い目の遺伝子は、私たちがその目の色を見てその人々の属する社会やカルチャーやアイデンティティを見分けるのに必要だから存在する。つまり私の身体がその青い目を持つ人に関してどう対応すればよいかを知っていてすばやく反応できる(たとえば外国語で話しかけられないように目をそらすとかできる)ために必要だから存在する。同様に職人の遺伝子は、(その物質的実体がないにもかかわらず)その人々のカルチャーやアイデンティティを見分けるのに必要だから存在する。

また同時に、青い目の遺伝子は、そのDNA分子(核塩基配列HERC2

)の発現プロセスを同定することで現代生物学の理論的整合性を確認するために必要だから存在する。さらにまた同時にその遺伝子発現プロセスは、遺伝子医学の発展性を期待するために必要だから存在する。

また木星の極小衛星ユーポリーは、同様に、それが発見されることで天体科学の理論的整合性を確認するための物質として存在する。その天体は、そうして現代科学(この場合特に物理学地学や宇宙工学)の信頼性を担保する現象として私たちの生活に必要だから存在する。また日本人の住居における靴箱は、衛生のために存在するともいえるが、実はむしろ道路は不潔であるという文化的な信念を維持するために必要だから存在する、といえるわけです(拙稿24章「世界の構造と起源

また同様に、放射性物質セシウム137は周期律表のセシウムの位置を占める不安定放射性同位体として物理化学理論の整合性を実証するために存在する、ともいえますが、むしろ、それを体内に摂取すると百日程度筋肉等に滞留してガンマ線を出し続け内臓細胞を損傷し多様な臓器障害を起こす可能性があることから、環境にそれがどの程度放出されているかを公衆衛生の観点から知っておく必要があるために存在する。同時にこの物質は、工業用、医療用の放射線源としても役に立つから必要であると同時に、この物質による食用植物動物の汚染あるいは汚染されたとされる風評被害によって経営が圧迫される農業水産業従事者にとってもそれを避ける必要があるから存在している、といえる。さらにまた同時に、放射能汚染の社会問題を追及するメディアや社会運動家とそれに対応する政治家、官僚、学者、評論家にとっても職業上の仕事になっているという必要性によってこの物質は存在している、といえます。

この世界にある物事について(拙稿の見解による省略した言い方を使えば)

、それがなぜ存在しているのかは、このように、それが私たちの生活のためにどう必要であるのか、そして私たちの身体がそれに対してどう反応するかを見れば分かります。

一万円札は、日本銀行が発行したから存在しているというよりも、それを私たちが大事に財布にしまうから存在している。それをなくすとがっくりと落胆するからそのがっくり具合の量に比例してはっきりと存在する、といえます。同様にダイヤモンドは、炭素原子が正四面体結晶格子を作るから存在する、というよりも、それをロンドンのダイヤモンドシンジケートが独占供給しているから存在する。というか、それを女性に贈るとたいへん快適な見返りが得られるから存在する、というか、女性にとってはそれを身につけると身体の芯から気分がよくなるからそれは存在する、といえるわけです。

チョコレートは、カカオを精製して製造するから存在するというよりも、それを口に含むとあの特有のおいしい味がするから存在するといえる。また同時にバレンタインデーにそれを大量に売りさばくお菓子屋さんにとっては、その後何か月か収入が少なくても困らなくなるために存在する、ともいえる。

高校数学は、世界有数の数学者を育てるために存在するというよりは、大多数の高校生がそれを勉強すると頭が混乱して机から逃げ出したくなるから存在する。あるいはもっと詳しく言えば、教育委員会の議論で、高校生時代に頭が混乱して机から逃げ出したくなる様なつらい経験をしないで成人した国民ばかりでは国が衰退する、という意見が出るとき委員全員がそれももっともだという身体反応をするから、その予算が毎年認められて、数学の先生の給料が支払われることによって高校数学は存在する、といえます。

こういうことを言っている私自身というものも私の生活にとって必要であるから存在している、と(拙稿の見解によれば)

考えられます。つまり私のこの身体は何を目的にして動いていくのか、それを人が見たらどう見えるのか、ということを忘れないで身体を操縦していくために私というものが存在している。それを忘れると生活に困るから(私にとって私というものが)存在している、といえます。

まあ、ふつうの常識では、私が存在しているから私の生活があるということです。ところがここでいう拙稿の見解では逆になります。つまり私の生活に必要だから私が存在する。まずこの身体が生きているという事実がさきにあって、生きているために私が必要だ、ということです。ややこしい言い方ですね。すみません。

私たち人間の身体はこのように(拙稿の見解によれば)生活に必要な物事を感じとって、それが存在すると感じることができます。そして同時に、それがだれにとっても同じように存在している客観的な存在だと感じ取ることができます。

なぜ私たちの身体はこうなっているのか?それは、そういう身体を持つことによって人類が互いに通じ合い協力しあって大繁栄した結果、(そのDNAと文化を受け継いで)現代に生き残っている子孫が私たちだからです。

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存在は理論なのか(4)

2011-04-09 | xx5存在は理論なのか

さて、私たちが住んでいるこの世界はバーチャルなのかリアルなのか? 私たちはこれがリアルとしか思えない。しかし実際、なぜリアルと思えるのか?

哲学的に、あるいは論理的に厳密に言えば、リアルとは何か、それがリアルであるとはいかにして証明できるのか、よく分からない。どうしても分かりようがないことです(一九一二年 バートランド・ラッセル『哲学の諸問題第2章 物質の存在

』既出)。しかしまあ拙稿の見解によれば、世界が存在するかどうかは哲学者の議論で証明すべきことではなくて、私たちの身体が直感でそれが存在すると感じるから存在する、ということでしょう。つまり、私たちが存在感というような感覚を感じるかどうかで決まる、といえます。

目の前に物事が存在することに反応して無意識のうちに私たちの身体は変化します。たとえば、進む方向に石ころがあるとつまずかないように気を付ける。桜が満開だと見上げます。お団子があればつい手を伸ばしそうになる。自分たちの身体のそのような変化の感覚を感じとって(拙稿の見解では)私たちはそこにその物事が存在することを知る。この感覚を(拙稿の言葉づかいでは)存在感といいます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」2)。

物事の存在感は、結局は、私たちの生活にその物事が必要だから私たちの身体がそれらがそこにあることを感じとって無意識のうちに反応する。そうなるように私たちの身体が(拙稿の見解では、進化によって)作られています。

たとえば、テーブルの上においしそうなケーキがある。それは存在する。なぜならば、私の食生活にとってケーキが必要だから私の身体がケーキの存在感を感じとって(よだれを出しそうになったりとか)反応するからです。ケーキに対するそのような自分の身体の反応を私たちは感じとって意識することができる。その感覚がケーキの存在感です。

そのケーキが冷蔵庫にしまわれても、やはりそれは存在する。存在感はある。なぜならば、いつでも冷蔵庫から出して食べることができると身体が感じているからです。いつでも冷蔵庫から出して食べることができることを身体が知っていて、身体全体がそれに対応した準備(冷蔵庫の扉を開けてそれを食べたいとつい思ってしまうとか)をしているからです。

ケーキを冷蔵庫から出して食べてしまうと、それはもう存在しない。それが存在すると思い続けることが、もう生活には必要なくなるからです。あるいはケーキを床に落として埃がついてしまうと、もうケーキは存在しない。その汚くなったケーキは生活の役に立たないからです。

またたとえば冷蔵庫を開けてみたら同じケーキが二十個もあった場合、一度に三個も食べてしまうとその後は冷蔵庫の中のケーキは見るのも嫌になる。忘れてしまう。残り十七個あるはずだが、それらはもう存在しないようなものです。身体にとって生活に必要なくなっているからです。ところがその十七個のケーキを夕食後家族に分けようという場合は違う。その場合は家族の数だけケーキは必要になるので、冷蔵庫内のケーキは存在し続ける必要があるからです。

このように、この世界にある物事は、結局は(拙稿の見解による省略した言い方を使えば)、私たちの生活にその物事が必要だから存在している(拙稿23章「人類最大の謎」 。その物事がそのように存在すると思うことによって私たちの身体がうまく動いてじょうずに生きていくために、それは存在している。その物事がそのように存在すると思うことによって私たちが仲間と通じ合い協力しあってうまく生活していくために、その物事はだれにとっても同じように客観的に存在している。

私たち人間の身体は皆だいたい同じ作りになっているから、同じようなものをだいたい同じように必要とする。だから、同じようなものはだれにとってもだいたい同じように存在することになります。そうであるから、私たちは存在するものを存在すると認めることができる。だれもが、そこにあるものをそこにある、と思う。こういう仕組みで(拙稿の見解では)、この世界はこのように現実としてここに存在する、といえます。

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存在は理論なのか(3)

2011-04-02 | xx5存在は理論なのか

拙稿本章では、これらの問題を考えてみましょう。そのためにまずは、拙稿前章(拙稿24章「世界の構造と起源」)でちょっと話題にした存在の理論をもう少し展開してみることから始めるのがよさそうです。

まず事実として、ここに現実の世界がある。だれが見ても同じ一つの現実がある。実に当たり前です。当たり前すぎるので自覚しないが、言われてみればその通りに決まっている。私はそう思っています。読者もそう思っていらっしゃるでしょう。誕生日前の赤ちゃんとか、認知症の老人とかを除けば、人間ならだれでも、そう思っているはずですね。

まあしかし、改めて考えてみると、ここにこの現実世界が間違いなく存在していると私たち皆が実感できるということは、この現実を感じとることができる認知機構を私たち皆が持っていて、しかも同じ現実世界を共有できるように皆の認知機構が互いに通じ合うようになっている、ということでしょう。そしてそのことは、その共有する現実世界がここに存在すると感じとる存在の理論を私たちのだれもが共有しているということに他なりません。つまり、だれもがこの現実世界を私と同じように感じとっているはずだ、という私たちの実感を支えている考え方、あるいは感じ方が(拙稿の用語法による)存在の理論です。

昔、中国に荘子という人がいました。あるとき荘子は夢で蝶になって飛び回りました。もう完全に蝶になりきっていました。目覚めると荘子に戻りました。全然、蝶ではなくなっていました。荘子が夢で蝶になったのか、それとも、蝶が夢で荘子になったのか、どうなのでしょうか?(紀元前三〇〇年頃 荘子『胡蝶の夢


   

昔者荘周夢為胡蝶栩栩然胡蝶也自喩適志与不知周也俄然覚則蘧蘧然周也不知周之夢為胡蝶与胡蝶之夢為周与周与胡蝶則必有分矣此之謂物化


 

古代中国語で書かれた原文を筆者は高校生の時に授業で習いました。試験に出るというのでいやいや暗唱したような記憶があります。いま読み返すと美しい漢文です。幻想的に蝶が舞う光景が目に浮かびます。発想が鮮烈です。今から二千年以上昔に、こういうことを考えた人がいた。その発想を大事にして後世まで言い伝える人々がいた。昔の賢者たちはすごいですね。

まあ、しかしながら、忙しい現代人の私たちには、(入試問題で漢文を読解するとき以外)それがどうした、という程度の話でしかない。人間が蝶々であるわけないだろ、と思えます。しかし実はこの問題は、たしかに古すぎる問題ではありますが、現代哲学ではとっくに解決されているかというと、そうでもありません。

バーチャルリアリティが近い将来、極度に高性能になった場面を考えると、現実世界よりも現実感があるバーチャルリアリティが作れるといえないことはない。もしそうであるならば、虚実を反転させても話は成り立つ。つまり、私たちが今感じているこの現実世界は実は高度な技術を持った未来の超文明人が過去(つまり私たちが思っている現在)の世界を模擬して作ったバーチャルリアリティなのである。もしそうであるとするならば、今私が私だと思っているこの私は超高性能コンピュータの中を走っているソフトウェアのパラメータである。そうでない証拠はない、という議論があります(一九九五年 ネッド・ブロック脳のソフトウェアとしての心』)。

私がいるこの現実世界が、未来のオタクが超高性能コンピュータの中に作ったバーチャルな作りものではないということを、論理的には、言いきることはできない。この世界は間違いなくリアルであるということを、論理的には証明はできない。(現代哲学では、この問題に関して)できないけれども、一応リアルだということにしようという次のような理論があります。

まず荘子の言うように、人生のすべてそしてこの世界のすべてはバーチャルな夢である、とすることは論理的に不可能ではない。目で見えるものもその他の感覚で感じられるものも、リアルに感じられるすべては外界の実世界ではなくそれらであるように感じられるバーチャルな幻影である、とみなすことは可能である。しかしそうであると仮定すると、ここにあるこの複雑な現実世界の現象のようにみえる幻影を作り出しているバーチャルシステム(たとえば荘子の自我という幻影を作り出している蝶の内部構造、あるいは未来のおたくが二十一世紀の模型として作るバーチャルワールド)はとんでもない複雑な仕掛けになっていなければならない。そう仮定するよりは、単に私たちの内部とは独立にリアルな世界がある、とする理論の方がはるかに単純でよい(一九一二年 バートランド・ラッセル『哲学の諸問題第2章 物質の存在 』)。

たしかに、哲学者が思考実験で極端な可能性を論理的に可能な仮説として掲げて見せるのはよいけれども、本気でそう思っても困る。哲学でも実人生でも極端な懐疑主義におちいると無駄な労力を要求するからよろしくない。ウイルスや放射性物質から身体を遮蔽するために宇宙服を着て学校へ通うとかする必要はふつうないでしょう。石橋をいつまでも叩いていても進めない。携帯メールを見ながら渡るのも危ないが、ちょっとながめてどう見てもふつうの石橋のように見える場合はまず落ちないだろうとして前に進むくらいでよい。つまり適度の懐疑主義がよろしい、と昔の哲学者はいっています(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論 既出)。こういう知恵が本物の哲学だといいたいですね。

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存在は理論なのか(2)

2011-03-26 | xx5存在は理論なのか

理屈ではそうです。しかし人類が滅亡した後の世界というものはどんなものなのか? 地球人そっくりの宇宙人が生きている世界はどんなものなのか? 想像するのがむずかしい。いやその前に、そういうものを想像するということに意味があるのか? 疑問ですね。

人類が滅亡しないとしても、現在生きている私たちがみんな死んでしまっているはずの千年後の世界さえ想像するのはむずかしいですね。千年後といえば、子も孫ももちろんいなくなっているし、自分の血筋が残っているかどうかも、まず分からないでしょう。

だいたい私と何の関係もなくなってしまう世界というものは、存在しているとしても、何の意味があるのか? 日本が全滅してしまったら、日本語を話す人がだれもいなくなってしまったら、世界が残っていても意味がない。そう思う人は多いでしょう。極端に言えば、千年後はもちろん、私が死んでから三十年後の世界などあってもなくてもまったくどうでもいい。いや明日のことでも、大災害に遭遇して自分も家族も全滅してしまったら、その後に世界が残っていてもいなくてもそんなことはどうだっていい。そう思っている人は案外多いのではないでしょうか?

私たちは、この世界が終るか終らないかに、実は、それほど関心があるわけではないのかもしれない。こう考えてくると、世界が終るという怖そうな言葉は結局、たいした意味がない、と言わざるを得ない。それなのになぜ、私たちは、世界が終るという言葉で何かを感じることができるのか? たしかに、世界がなくなるという感じは分かるような気がする。それは、この現実世界が今ここにある、という事実に対して私たちが何らかの神秘感を感じるからだと思われます。

それは私たちが実は、この世界が続くと確信する根拠を持たないからではないでしょうか? あるいは私たちが、この世界が今ここにあることの根拠を知ることができないからではないでしょうか? 

この世界はなぜあるのか、なぜこうであるのか(拙稿24章世界の構造と起源)?

世界がいつまで続くのか私たちは知ることができない、知ることができないけれども知らなくてもいいや、と思っている。いや、皆がそう思っているのだからそれでいいじゃないか、と思っている。世界はいつまでも続くということでいいじゃないか、と思っています。そういうことにしておこう、と思っています。

世界がなぜ続いているのか、私たちは分からない。分かる必要などないのかもしれない。そんなことは、実は、私たちの毎日にとってはどうでもいいことだ、と思っています。そう思うしかない、と思っています。しかしまた、そう思うしかないということは、言葉ではっきりいえば、それは神秘だ、ということになります。

私たちは、世界がある,ということ自体を神秘的だと感じる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)。私たちは、この世界がなぜあるのか知らない。だから、この世界がなぜ終わらないのかも知らない。そしてそれは、たぶん、どうでもいいことなのかもしれない。ただ、その意味が分からない。そうであるから私たちは、世界が終る、という言葉に神秘を感じる。

ここに世界があるのはなぜか?

ここに私がいるのはなぜか?

神秘といえば、それ以上の神秘はないように思えますね(拙稿23章「人類最大の謎」)。

この神秘は科学を使っても哲学を使っても、人間にはとても解けそうにありません。この神秘を解明しようとして真正面から攻めていくと宗教や古典哲学が作れる(そしてもちろん、神秘は解けない)。少し引いて問題の構造を脇から分析すると近代哲学が作れる(そして、やはり神秘は残る)。この問題の構造を表現する言語や論理を研究し始めると、現代哲学が作れます。

いずれにしろ、拙稿ごときが真正面から話をはじめても、これら伝統的な哲学をさらに深めることなどできるはずがありません。そこで拙稿ではこの際、脇のまた脇に引いてみることにしましょう。つまり、この問題を話題にするにあたって、私たちはなぜこれを神秘と思うのか、という観点に問題をすり替えてみます。

なぜ私たちは世界が続くということを神秘と思うのか?そしてなぜその神秘の謎を解けないのか?そしてなぜ私たちは、それがたぶんどうでもいいことだ、と思っているのか?

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存在は理論なのか(1)

2011-03-19 | xx5存在は理論なのか

25 存在は理論なのか? begin

25 存在は理論なのか?

もう飽きられて下火になったようですが、二〇一二年の冬至に世界が終るという予言が、二、三年前からインターネットで出回っています。マヤ文明のカレンダーがその時点で終わりになっているという説から発想された理論らしい。このマヤ理論に重ねられて、ニビルという名の謎の惑星がその日に地球に衝突するという予言がインターネットに広まっていて、NASAに問い合わせが殺到したそうです。NASAのビデオで回答したディヴィッド・モリソン博士は「お金儲けのためにデマをインターネットに流す人たちのおかげで若者が深刻に悩んでいる。自殺した人もいる」と怒っていました。

世界が終る。すごい言葉です。大げさな、でも怖そうな感じがする。まあ、真剣な顔をしてこんなことをいう人に会ったら、その人が怖い。

そういう人は、しかし、いつも出てきます。必ずしもお金儲けのためや、世間を怖がらせて愉快になるという人たちばかりでもない。大地震や津波や洪水や噴火に遭遇すると「世界が全部おかしくなった。もうおしまいだ」と思いたくなる。そういう感覚は、実は、私たちだれもが感じることがあります。

終末、最後の審判、世界の終り、というような言葉にひかれる感覚を私たちだれもが持っているようです。宗教の経典や聖書にそういう言葉があるのは、それがある種の強いイメージを引き起こすからでしょう。

しかし、世界がなくなる、とか、おしまいだとかいうこのような言葉は結局、何を意味しているのでしょうか? この言葉を言っている人に聞いても、おそらく意味はよく分からないでしょう。では全然無意味な言葉なのでしょうか?

そうだとも思えないところもある。どういうことなのでしょうか?

拙稿としてはその辺に興味がある。しかしまじめな顔をしてこんな話をするのはちょっとむずかしいところもあります。

現代人の常識では、世界というものは突然終わるようなものではない。世界が終る、という言葉は何を意味しているか、まったく分からない。あらためて考えると、まずおかしな言葉だと感じられます。どう考えてよいのか、さっぱり分からない。こういう場合は、ふつうまじめな顔をしてそれについて語ってはいけません。皆が困ってしまうからです。

ところが、そういうことを無視して、さらにまじめに無理やりに深く考えてみると、これはまったく無意味な言葉だと言い切ることもできないかもしれない、と思えてきます。私たちがこの言葉から何かを感じることはたしかにあります。世界が終るという言葉は、非論理的な言葉ではあるとしても、詩人の言葉のように、何かを人に強く感じさせるようなものがある、というべきかもしれません。

世界というのは、そもそも、いつか終わるようなものなのでしょうか? 私が死んでも世界は終わらない。日本が全滅しても世界は終わらない。たとえ地球に謎の惑星が衝突しても世界が終るとはいえませんね。

そういう場合でも人類は滅亡しないかもしれない。少なくともだれかが生き残っていれば世界は続く。地球上の人が全滅しても三人くらいがロケットに乗って火星に移住できるかもしれません。燃え上がったソドムの町からロトと娘たち三人が逃げだしたように、ロシアの三人乗りロケット(ソユーズ)で男と女三人は宇宙ステーションへ脱出できるでしょう。また住めるようになったら地球へ帰ってくる。遺伝子多様性が心配だというならば、三万人分くらいのDNAを持って行ったらどうでしょうか?

いや、人類が滅亡したとしても、あるいは、すべての生物ごと地球が破壊されたとしても、世界が終るとはいえないのではないでしょうか? 太陽系が消えても、宇宙には他の惑星系が千兆個以上はある。その中には人間そっくりの宇宙人もいるかもしれない。いや、確率的には必ずいます。それも何万種といるでしょう。

それらの宇宙人(地球外知的生命体というべきでしょうか)が人間と似たような神経系を持っているとすれば、私たちと同じように世界を見ているでしょう。科学も持っているでしょう。相対性理論も量子力学も知っているはずです。地球人が拙稿のような文章を書いていることは知らないでしょうが、その宇宙人も筆者が使っている日本語と似たような言語を使ってこれに似た文章のようなものを書いているはずです。それらの宇宙人にとっては世界は続いている。つまり宇宙全体が消えない限り世界は終わらない。

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