このように物質の微細構造から大宇宙の生成と歴史までが、幾何学や方程式を用いて、定量的に解明されているということは、ようするに、現代人は科学およびその他の知識を総動員すれば、原理的には、すべての真実を知ることができる、ということではないのか? そうも思えます。宗教家からは、神を恐れぬ人間の傲慢、と叱られそうですが、実際、人類の知識は、どこまでも広く深くなっていくことができるのでしょうか?
人類は、望遠鏡や顕微鏡や粒子加速器を発明して、あらゆる自然現象を認知することができるのでしょうか?コンピュータを使って、天体の生成から生物の進化、あるいは囲碁将棋のすべての棋譜を予測計算できるのでしょうか?
どうにも腑に落ちない疑問が残ります。他の動物はどれもできないのに、なぜ人間だけが真実を知ることができるのでしょうか? それも、ついこの百年で発展した現代科学を知っている私たち現代人だけがすべての真実を知ることができるというのは、あまりにも自己中心的な見解ではないでしょうか?
現代の人類だけが、自分たちの知識を過信し、近いうちにすべての真実を知ることができる、と思いこんでいるのでしょうか? 昔の人々は、現代人に比べると、ずっと謙虚であって、人間が永久に知ることができないものはたくさんある(不可知論という) 、と思っていたようです。何千年、何万年にわたって謙虚に生きてきた人類は、現代に至って、この百年足らずで突然、自分たち人類だけが真実を知り得ると思い、自己中心的で不遜になってしまったのでしょうか?
あるいはいつの時代でも、人類というものは、実は、自分たちがすべての真実を知っていると思い込めるほど自己中心的で不遜な種族なのか? あるいは私たちは特に自己中心的ではないものの、たまたま現代科学が頂点に達してしまって、実際に、この世界の重要な真実がだいたい分かってしまった時代に、私たちがいるだけなのか? どれが本当なのでしょうか?
人類という存在が自己中心的で不遜な種族である、という考えは、胸に手を当ててみれば、まあ、当たっているような気がしますね。だいたい、だれよりも栄えていて数も多く、だれよりも多くの資源を消費しているという点からも、そういうものはまず、自己中心的で不遜であるに違いありません。しかもごく最近、つい昨日くらいから、そういう大きな態度ができるようになった、という成り上がり者です。
最強で一人勝ちしたというだけでも不遜な存在です。口を開けばすぐ、真実がどうかとか、現実はどうかとか、えらそうにしゃべっている。そういう者は、実は、自身が全知全能に近いと思っているはずです。おごれるもの久しからず(平家物語) 、という警句が思い浮かびます。