7 命はなぜあるのか?
「言うことを聞かないと、命がないぞ」と、ピストルを構えたギャングが脅します。そうなったら私たちは、ギャングの言うことを聞くしかないでしょう。命がなくなるのは、とてもいやですからね。つまり命は、だれにとっても一番大事なものです。それはまさにその通りなのですが、ここではそのことは置いておいて、ちょっとちがう観点から話をはじめましょう。
拙稿では、その命というものが実は存在しないのではないか、という話をしてみます。「あなたが言っているその命とかいうものは、この世には存在しませんよ」とギャングに言ってみましょう。まあたぶん、ギャングは怒り狂って、ズドンとあなたの心臓を撃ちぬくでしょう。
そのとき、あなたの命はなくなるはずです。では、そのなくなったものは何でしょうか? 身体ですか? 死んでも身体は残っているでしょう? あなたの身体の物質は、弾丸の運動エネルギーを受け取ってすこし変形しますが、大体残っているでしょう。
弾丸が当たらなかったのに、あなたの心臓が弱くて発作を起こして停止してしまうこともありそうです。その場合など、心臓が止まる以外、身体のどこも破壊されていません。それでも命はなくなってしまうわけです。
では、なくなった命とは何でしょうか?
命とは何か? 生きているものが持っていて、それ以外の無生物や死んだものが持っていないものを「命」という。しかし、こういう言い方は国語辞典のようですね。同意語反復ですから、内容がない。実はこの場合、辞典など必要ない。言葉など要りません。実際、言葉などしゃべれない幼児でも、「命」あるいは「生きていること」、とは何かを知っている。
道端に転がっている虫を指差して、幼稚園児に聞いて見ましょう。「これ、いきてるかなあ?」 棒でつついてみる。虫がもぞっと動く。「あ、いきてるう」 幼稚園児は、目を輝かせて叫ぶ。
このように、人間はだれでも、目の前にある物質が生きているのか、いないのか、一目で分かる。刺激に反応し、身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感知する。脳の辺縁系―扁桃体が自動的に、命の検出信号を出します。人間の脳に、生まれつきできている仕組みです。
この脳の知覚反応を自覚して、人間は、命とか、生きているとかいう言葉を作って使ってきた。それをさらに抽象化して、生物という概念を作った。そこから生物学を作り、生物の特徴として、科学用語としての生命現象が再定義された。
現代人の言う「命」はふつうこれを指す。直感としての「命」、それが抽象化されたいわゆる「いきもの」、それと科学用語として厳密に定義された「生命現象」。新聞雑誌などにあるふつうの文章では、これらが全部ごっちゃにされて、「命は何よりも大切だ」とか書かれているのが実情です。
「命ってナーニ?」という小学生の質問に答えて、生物学者がやさしい理科の解説を書く。それはそれで教育としてはとても良いことですが、こういうことが哲学の混乱にも一役買っている。
新聞記者は、生命の神秘について生物学の権威に質問する。しかしそれでは実は答えは得られない。科学者に神秘について聞いても無駄です。生命の神秘について知りたければ、生物の先生に聞くよりも、幼稚園児に聞くことが正しい。そこにある虫が命を持っているかいないか、子供はすぐ答えてくれる。科学者は駄目です。神秘について分かりやすい答えはできない。科学者は、科学的事実についてだけ分かりやすく答えられる。でもそれは、命の神秘とは関係ない話なのです。
科学の話は単純です。古来畏敬の念で見られていた生命現象は、現代科学によって、ほぼ完全に理解された。二十一世紀に入って生命科学の研究は加速されている。人のDNA配列(ゲノム)は完全に解読された。今後まもなく、科学の進展によって、細胞内でのDNA―RNA―たんぱく質の分子レベルの生成機構など、構成的で詳細な知識が蓄積されてくるでしょう。それらの知識は遠くない将来、多様な生物の発生、進化、形態、行動の完全な物理化学的理解を導くに違いありません。
科学の観点から見ると、すべての地球生物はひとつながりの物理化学現象です。つまり、三十数億年前の地球上で、たまたまそこらへんに多量にあった炭素、窒素、酸素、水素などありふれた原子が何億、何兆個と絡まって巨大な化合物が無数にできて、そのうちの一つがたまたま自己複製構造になって増殖進化してしまったものです。
三十数億年の間に、千億回くらい自己複製により世代交代した。世代交代のたびに、突然変異でわずかずつデザインを改善して、各回、数万の試作品を作り、一番できの良いものを生き残らせ、残りを捨てる。そういう大量試作大量廃棄により千億回くらい試行錯誤を繰り返した結果、奇跡的としか思えないすばらしい設計になったものが、現代の生物です。
現存の生物のデザインは、どれをとってもすばらしい傑作です。生き延びて子孫を残したい、という強烈な目的意識を持って、その身体が作られているようにしか見えない。現在の地球の生命圏は、天才芸術家の傑作だけを陳列している、最高級の美術館です。
千億回も試行錯誤しながら、毎回、数万に一つの最良品を選んで改良を続ければ、だれだって天才的な作品を創れる。たしかに、最後の完成品である現存の生物体だけを見ると、神様が創った、としか思えないすばらしさです。
宝くじの一等に当たった人にとっては、幸運の女神は間違いなくいる。一等に当たった人たちだけが住んでいる町が、現在の地球です。われわれ人間はもちろん、地球上に現存する他のどの生物も、宝くじで六億円当たるより何百万倍も幸運だったから、こういうすばらしい身体を持っている。
生きていること、命、はなぜ神秘的なのか? 自分が宝くじに当たった人にとっては、その幸運は神秘的としか思えないでしょう。それと同じ話です。
だから科学としてみると、神秘的な命などはどこにも存在しない。
命、という言葉が強い印象を持っているのは、なぜでしょうか? それは、(拙稿の見解では)刺激に反応し身を守るかのごとく運動する動物を見るとき、私たち人間の脳に、その場合に特有のはっきりとした感覚(仮に命の存在感と呼ぶことにします)が生じることからきている。このような認知活動の仕組みの解明については、現在の神経科学では、残念ながらよい研究アプローチの手法がみつかっていない。
命について、私たち現代人が会話したり意見表明したりする場合にも、その根底には命の存在感に対する無意識の神経反応の学習が働いているわけですが、それに加えて、近年の生物学、医学が語る生命現象の巧緻な設計に関する私たちの知識が、生命についての神秘的な印象を強めている。細胞内分子構造、DNA、RNA、たんぱく質、生殖、分化、進化、適応、など近年の科学が明らかにした生物体の仕組みを詳しく知れば知るほど、このようなものがこの世に存在していること自体がまさに自然の驚異だ、と思いたくなる。しかしこちらのほうは、科学知識ですから、むずかしいことは何もない。これら生物に関する最近発見された種々の事実は、よく調べてみると、地球誕生以来、四十数億年にわたって続いてきた地表物質の変遷の結果であり、科学で理解できるふつうの物質現象の組み合わせです。地球全体に関する自然現象ですから、地球が太陽の周りを回っているように、大規模な現象ではありますが、神秘なことはない。最近の生命科学の発展によって、生殖や遺伝や病気や老化など、かつては神秘的に感じられた種々の生命現象も、今日では、物理化学的に詳しい仕組みが分かってきている。命に関する個々の現象は、近い将来、科学知識を持つ人々にとっては、特に神秘でも不思議でもなくなるでしょう。
地球表面の分子の塊に物質の法則が働いて自己複製の仕組みができ、複製のたびに少しずつ変化が蓄積し、三十数億年後に今のような種々の生物になった。このことは地球のような物質世界では、数十億年かければいかにも起こりそうな、ありふれたふつうの物質変化の一種です。地球ができてから四十六億年のうちの最初の数億年の間に、最初の生命ができてしまった事実から見れば、地球に似た惑星の表面では、いずれにしろ起こってしまう自然現象とみてよいでしょう。
現在、目に見える生命現象の巧緻な仕組みに驚嘆するのは素直な反応ですが、これは千億回の試行錯誤の結果です。むしろ驚嘆すべきは三十数億年にわたって、温暖で恒常的な環境を維持してきた地球という惑星の特異性でしょう。太陽は非常に安定した恒星で、その放射エネルギーは0・1%の範囲でしか変動しない。また地球は特に強い磁場と適当な気圧の大気を持っているために、有害な宇宙線と紫外線が地表面に達しない。
現在までの天文観測では、宇宙でこのように温和で安定した環境は地球にしか見つかっていない。しかしこれもたぶん、確率の問題でしょう。銀河系に地球型の惑星は数千万個以上あると推定される。近い将来、遠くのいくつもの惑星系に地球そっくりの環境を持った惑星が発見されるに違いない。そこに地球のように多種多様な生物が進化していても、まったく不思議はない。