哲学の科学

science of philosophy

心はなぜあるのか(1)

2007-07-21 | 8心はなぜあるのか

8  心はなぜあるのか?

 心。

「あの人の本当の心が分からない!」、少女は空を仰いでつぶやく。

「私の心は沈んでいく」、男は両手で頭を抱える。

ドラマでいつも聞くセリフです。

 心、という言葉を使わなければ、ドラマも小説もマンガも作れません。実際、私たちが話し合いたいと思うような大事な話はひとつもできません。人間が興味を持つ、人の感情を揺さぶるような話は、必ず心に関する話です。心こそ、人間にとって一番大事なものだと思えます。

しかしこの心、というものを改めてしっかり見つめようとすると、実は目に見えないし、手で触ることもできません。だから(すべての存在を疑うことにしている拙稿としては、この際仮にですが)もしかしたら心というものは存在しないのかもしれない、と疑ってみましょう。

 その場合、心というものは、それがないのにあるかのように脳で感じられる錯覚だ、ということになります。では、心というものはそういう錯覚である、と仮定して、人間の脳にはなぜそのような現象が生じるのでしょうか? 科学的に考えてみましょう。

 目の前にいる人を観察すると、心を持っているとしか思えない。その人が何を考えて手足や視線を動かしているのか、よく分かる。あたりまえですね。さらに、その人と会話をすれば、これはもう、心のないロボットが出す音波振動を聞いている、などと思い込むことは絶対にできない。

 生きている人間は、疑いようもなく、みな心を持っているように見える。逆に言えば、心を持っているように見えるものを人間と呼ぶ、といってもよいくらいです。

この世には、自分という人間と自分以外のたくさんの人間がいて、それぞれの人間はみな、その身体の中にそれぞれの心を持っている。その心が働いてお互いに気持ちを伝え合い、会話をすることができる。こういうふうにこの世はできている。それがあたりまえだ、と私たちは思っている。

死んだら心はどうなってしまうのか不思議ですが、心は消えないのではないか、とも思える。そこで、人間は霊魂というものを考え出した。死んだら霊魂はあの世へいく。あの世って何だ? まあ、そっちの話へ進むとますます謎は深まっていきますね。

また、改めて考えてみると、物質である脳のどこに心がしまってあるのか不思議ですが、心は脳のどこかにあるらしい、という気がする。たいていの人は、ふつうそう思っています。心と脳はどういう関係なの? こういう発想から最近数十年、心脳問題(心の哲学)という哲学が提起され、さかんに議論されています。これは昔から、精神と物質の心身二元論とも呼ばれていた古典的な近代哲学の問題の現代版です。現代哲学や認知科学ハードプロブレムと呼ばれる問題もこの類です。哲学者に科学者も加わって、真剣にむずかしい議論が戦わされています(たとえば一九九五年  デイヴィッド・チャーマーズ 『意識の問題に取り組む』、一九八〇年 ジョン・サール『心、脳、そしてプログラム』などすでに古典)。

そういう哲学的な謎の中心である心。それが結局は存在しない。錯覚に過ぎない。そうだとしたら、すごい錯覚です。もしそうならば、私の心に映っている目の前のこの物質世界も存在しないことになってしまいそうですね。怖い話です。

まあ、でも、怖いもの知らずの拙稿としては、そういう仮説でどんどん進んでみましょう。

 なぜ私たちは、生きている人体に心が入っていると感じるのか。

 石ころや机には心は入っていませんね。このパソコンにも入っていないらしい。人体という物質だけが、なぜ石ころや机やパソコンと違って特別に心を持っていると、私たちは感じるのか? ただの物質の中に、なぜ心があるという錯覚を感じるのでしょうか?

 だれかに教えられたからでしょうか? いや人間は生まれつき、仲間の人間を見ると、それが心を持っているように感じる感覚を持っているらしい。生まれつき脳の中に、そういう機構があるようです。

 人間は、相手の人間が身体を動かしたり声を出したりすると、まるで自分自身がそういう動きをしたり声を出したりしているように感じることができる。

つまり人間の脳の運動形成神経回路は、他の人間の身体の動きを見ると、(拙稿の見解では)それに共鳴して同じような運動信号を脳の内部で発生する。こうすることで相手の身体の動きを感じ取り、次に相手がどういう運動をするか、無意識のうちに予測している。これは人間どうしが協力したり、戦ったりする場合に不可欠な能力です。

人間の脳の運動形成神経回路は、実際に自分の筋肉を動かすばかりでなく、たぶんその何十倍の計算量で、瞬間瞬間の(目に触れる、あるいは想像している)他人の運動を予測計算している。もちろん、次の瞬間の自分の運動計画もそれに連動して、猛烈な速度で計算しているのでしょう。

(拙稿の見解では)この「運動共鳴(拙稿の造語)」によって、人間は他人の脳内で作られている運動のシミュレーションを自分の運動形成回路で(無意識のうちに)読み取ることができる。自分の脳の運動形成回路の上に作られる他人のその内部運動シミュレーションによる錯覚を、人間は他人の「心」と思っている。

人間は生きている人体を見ると、いつもその中にある「心」を意識する。その人体の中に入っている心がこちらに注意を向けているかどうか、こちらの合図や話しかけに応答するかどうか、関心がその目に見えない「心の動き」に集中してしまう。

周りの人間に対しての、こういう感じ方と動きをしながら、私たちは毎日生きていく。それで人生はうまくいく。目に直接見えない他人の心を、その人体の見かけの動作と音声だけを頼りにいつも読み取りながら、その人の行動を予測し、そして時には自分自身の心も読みながら、自分の行動を決めていく。こういうことが、自分にとって、今のこの瞬間では最も重要な仕事だ、と人間は無意識に思っている。まさに人間どうしのその心の動き、という錯覚の検知と操作が、社会生活において、私たちの関心のほとんどを占めている。

その際、相手が本当に人間であるかどうかは、問題ではない。見かけが人間のように見えて人間のように動くものには、私たちは心を感じる。人間らしい動きに誘発される私たち観察者の脳神経系の自動的な運動共鳴によって、運動形成回路は動いてしまう。だから人間は、アニメーションを見て、泣いたり笑ったりすることができる。猿がアニメを見て泣いたり笑ったりするのは、ちょっと無理なようですね。

 人類の脳の運動シミュレーション機能は(拙稿の見解では)、身体を動かすことなく脳の中だけで仮想的な運動信号を発生できるように進化した、と考えられる。この仮想運動の能力は、もともとは自分の運動の準備のためのシミュレーションをするために進化したと思われますが、それが他人の運動を予想するためにも使われるようになったのでしょう。他人の身体の動き方を見ることで、その人の運動の連続的な実行を予想できる。これによって他人の心を読む。つまりその人がこれからするであろう行動を予想する。脳のこの働きの進化は、原始人類の生活能力を飛躍的に向上させることになった、と考えられる。

仲間の人間の動き方を見ることでその身体運動に共鳴する脳の仕組みは(拙稿の見解では)、赤ちゃんの頃から発達してくる。生まれつき身についている機能と学習の相互作用でしょう。赤ちゃんは、何よりも近くに寄ってくる人間(ふつうママですが)の動きを、自分の運動形成神経回路で写し取る。それで(拙稿の見解では)、相手の動きに自分の仮想運動を共鳴させる仕組みを獲得する。

動く人間の存在感を感じる感覚は、動かない物質の存在感を感じる感覚とは脳内で働く仕組みが違っているらしく、赤ちゃんは前者を早く獲得するようです。だから人間にとって一番存在感が強いものは仲間の人間であり、次に動物など動くもの、最後に動物でないものたち、食べ物、道具、役立たないガラクタなどという順番になる。動くものが目など感覚器官に信号を発生すると、(拙稿の見解では)人間は無意識に感情回路が動いて不安、興味などの感情を引き起こす。それに続いて意識的に、その物が何でどうなっているかを感じる。このときは自分の脳の運動形成神経回路が対象物の動きに共鳴して自動的に仮想運動を起こす仕組みを使っているらしい。

つまり私たちが、意識的に、他の人間あるいは動物の存在を感じるときは、(拙稿の見解では)その動きを自分の運動形成神経回路の共鳴によって写し取って、自分の動きのように感じる。さらにその人間あるいは動物の、これからの動きを自動的に予測する。つまり無意識のうちに、その観察対象に乗り移って自分が運動しているように感じる。その予測できた運動を自分の脳内の運動回路で感じて、その人間あるいは動物の心、という錯覚を脳内に作る。

さらに対象が人間の場合、私たちは、仲間の人間の動きを他の動物とは区別して、強烈な存在感をともなって感じる。つまり、人間の脳は、そこに人間が存在するという知覚に特異に反応する。

仲間の存在にするどく反応する。これは、人類だけの能力ではなく哺乳類の脳に共通の機能です。動物が同種の仲間を識別する仕組みでしょう。もともと夜行性の哺乳類には匂いが重要な情報だったと考えられます。夜行性から昼行性になった霊長類では、視覚が発達し、嗅覚の役割を果たすように置き換わっている。霊長類の脳では、視覚情報を変換した信号が古い嗅覚情報処理回路に流れ込むように改良されているらしい。たとえば、目で人間の姿を見ることで、それが仲間だと感じさせる強烈な臭いの信号が脳内(の臭い情報処理回路)に立ち現われてくるような配線になっている。それで、人間は、目の前の人間の存在を他のどの物質よりも強烈に感じる。その上、人間は仲間のする運動をみると自分の運動形成回路が共鳴する機構を持っている。それで他人の運動形成が分かる。これからその人がどう動こうとしているか、分かる。その神経機構が(拙稿の見解では)、心を感じさせる基底になっている。こうして、人間は、仲間の人間の内部に心がある、という感覚、というか理論、つまりいわゆる、心の理論、を身につける。

人間の脳のこの仕組みによって、心というものがこの世界にある。

このような脳の無意識な運動共鳴が働くことを感じて、私たちは、すべての人間は身体の中に心という目に見えない仕組みを持っていると思い込んでいる。心があるように見えることを心があると思い込む。実際、心があるように見えて心がないものなどありませんから、これで問題はないのです。SFに出てくる人と会話するロボットとか超コンピュータとか、人間の言葉を話す動物とかは実際はいませんから、問題はありません。実際、私たちが、心を持つと思っているものは生きている人間しかいない。そのため、心があるように見えるときは心がある、と思っていれば間違いない。

人間というものは心を持つ。自然現象や機械仕掛けと違って、心がその身体を動かしている。つまり、私たちは、人間というものは心が動くことで身体が動くものなのだ、というものの見方(というか一種の理論)を持っている。他人の動作や表情などの知覚から自分の脳の運動形成回路に運動共鳴が誘発されることを感じると、私たちはそれを、その人の心が動く、と感じる。

その見方を自分自身のイメージにも当てはめれば、自分も自分の心を動かして行動しているのだ、と思えるようになる。自分の動作、表情を自覚して、それが自分の心を表わしているのだ、と感じられるようになる。このような運動共鳴による神経活動の働きを自覚することで、私たちは(拙稿の見解では)その仮想運動(身体が動いていこうとする感覚)を感じ取って、自分の心があると思い、それが自分の意図、意志、欲望、なのだ、と思うわけです。

私は本当に私の心を持っているのだろうか? 改めて考えてみると、だんだん自信がなくなってきますね。確かに私だって、ほかの人と同じように心を持っているはずだ、とは思うものの、それを目で見ることはできません。見極めることができません。まあ、ここで拙稿得意の言い方を使えば、他人の心というものがあることはよく分かるけれども、私の心というものがあるかどうかはよく分からない、ということになってしまいます。

Banner_01

コメント    この記事についてブログを書く
« 命はなぜあるのか(2) | トップ | 心はなぜあるのか(2) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

文献