幕が開くと、姫路城の最上階の広間、中央で可愛い童が「此処は何処の細道じゃ・・・」と歌っていて、5人の着飾った侍女達が欄干に寄りかかって釣り糸を垂れている。
ここは、魔界の住人・天守夫人富姫(玉三郎)の居所、侍女たちは、白露を餌にして秋草を釣っていると言う何とも優雅な設定で舞台が展開される。
これは、戦乱の世に自害した城主の娘刑部姫の怨霊が住むと言う怪奇伝説を題材にして泉鏡花が書いた戯曲「天守物語」の歌舞伎版だが、オペラや芝居、映画、漫画とバリエーション豊かに作品化されていて、先の宮沢りえとの共演作を含めて玉三郎の人気舞台でもある。
同じく魔界に住む岩代国猪苗代の亀姫(春猿)が富姫と蹴鞠を楽しむために火の玉を供に天空から来訪する。ひと時の逢瀬を楽しんで帰り際に、富姫は、亀姫が気に入ったと言うので土産に城主播磨守の白鷹を招き寄せて与える。
播磨守に仕える若侍で鷹匠の姫川図書之助(海老蔵)が、鷹を失ったので主君の怒りをかって切腹を命じられたが、天守を見届ければ助命すると言われて鷹を求めて富姫の住む魔界に入り込む。
富姫に、二度と来るなと言って返されるが、途中で大蝙蝠に出くわし雪洞の灯を消されて、困った図書之助は、仕方なく天守に舞い戻る。富姫は、あろうことか人間界の図書之助にゾッコン惚れ込む。
富姫に会った印として貰って持ち帰った家宝の兜を見て、播磨守に兜を盗んだ謀反人として討たれようとしたので、富姫に殺される方がマシだと天守に帰る。
二人は恋に落ち生きることを決心するが、追っ手に包囲される。守り神の獅子頭に隠れて戦うが、獅子頭の目を射抜かれると、二人の目は突然見えなくなってしまう。
富姫が、亀姫の持参した土産・猪苗代亀ヶ城主の首(播磨守の兄弟)を引っ張り出して投げつけたので、領主の首と勘違いして追手は退散する。
手を弄りながらしっかと抱き合った二人は死を覚悟する。
ところが、そこへ獅子頭を彫った工人・近江之丞桃六(猿弥)が現れて、鑿を獅子頭に当てると二人の目が開く。
それだけの話と言ってしまえばそれまでだが、先触れで大山伏の扮装でやって来た亀姫の眷属珠の盤坊(右近)の豪快で一寸コミカルな童達との対話、そして、土産の亀ヶ城主の首に血が付いたので綺麗に拭う為にぺろぺろ舌を出して舐め清める茅野ヶ原の舌長姥(門之助)のおもちゃの舌を使っての入念な演技、それに、図書之助を天守まで追い詰めて獅子頭と戦う追手の大将小田原修理(薪車)の颯爽とした井手達など芸達者の脇役の活躍が楽しい。
やはり注目は富姫の玉三郎の芸で、一寸姉御風で気風がよい美しい夫人を程々に品良く、自分が憲法だと言わんばかりの威厳を示しながら一途に恋に溺れ込む、そんな魔界の住人を美しいだけではない、自由奔放に演じているようで気持ちが良い。
春猿の亀姫は、やはりモダンでヤングっぽいところが実に上手く玉三郎と好対照で、その爽やかさが良い。
図書之助を演じる海老蔵だが、芸がどうのと言うのは野暮で、とにかく、舞台に立っているだけで絵になり凛と光り輝いている。最近とみに風格と芸に厚みが出てきた感じで玉三郎と互角に勝負していて清清しい。
泉鏡花の「天守物語」の戯曲だが、私には旧仮名遣いで何となく読み辛かったが、大正時代のロマンをほっと感じさせるような、実にビビッドでモダンな表現にびくっとしながら読んだ。日本古来の怪奇と大正ロマンを綯交ぜにした不思議な雰囲気を醸し出す作品である。
シェイクスピアの戯曲と違って、ト書きや舞台説明が詳細に書かれていて面白い。
海老蔵も玉三郎も美しい台詞に出会った感激を述べているが、やはり、明治大正時代は、われ等の時代、文化世代であることを感じた。
冒頭、侍女薄(吉弥)の、「二階から目薬とやらではあるまいし、お天守の五重から釣をするものがありますかえ。」と言う台詞も一寸粋だが、
ただの下界の若侍に富姫は、ボエームのミミとロドルフォではないが、雪洞に灯を灯しながら、”燭をとって熟(じっ)と図書の面を視る、恍惚とす。(蝋燭を手にしたるまま)「帰したくなくなった、もう帰すまいと私は思う。」とつぶやく。
「今まで、あの人を知らなかった、目の及ばなかった私は恥ずかしいよ。」と薄に言うと、何故そんなに思うのなら図書を帰したのか、貴方の容色と力をすればいくら抵抗しても手に入れられたものをと薄は答えるが、「否、容色(きりょう)は此方から見せたくない。力で、人を強いるは、播磨守なんぞの事、真の恋は、心と心・・・」と言う。
舞台の大詰め、目が見えなくなった二人が寄り添い自害する決心をする。
「私も本望でございます。貴方のお手にかかるのが。」
「真実のお声か、姫君。」
「ええ何の。然うおっしゃる、お顔が見たい、唯一目。千歳百歳(ちとせももとせ)に唯一度、たった一度の恋だのに。」
「ああ、私も、もう一度、あの、気高い、美しいお顔が見たい。」
舞台では、絶世の美男美女が歯の浮くような台詞を交わしながら苦衷の中の恍惚境を泳いでいる。
夢か現か幻か、魔界の世界に入り込んだ唯一の現実世界の理想的な男性像を通して至高の恋を描こうとした泉鏡花の幽玄の世界を、玉三郎は真正面から受けてたって描こうとした。
昨年7月のNINAGAWA十二夜も素晴らしかったが、玉三郎の泉鏡花の異界と現世を綴りあわせたどこかモダンで美しい歌舞伎の世界も素晴らしい。
ここは、魔界の住人・天守夫人富姫(玉三郎)の居所、侍女たちは、白露を餌にして秋草を釣っていると言う何とも優雅な設定で舞台が展開される。
これは、戦乱の世に自害した城主の娘刑部姫の怨霊が住むと言う怪奇伝説を題材にして泉鏡花が書いた戯曲「天守物語」の歌舞伎版だが、オペラや芝居、映画、漫画とバリエーション豊かに作品化されていて、先の宮沢りえとの共演作を含めて玉三郎の人気舞台でもある。
同じく魔界に住む岩代国猪苗代の亀姫(春猿)が富姫と蹴鞠を楽しむために火の玉を供に天空から来訪する。ひと時の逢瀬を楽しんで帰り際に、富姫は、亀姫が気に入ったと言うので土産に城主播磨守の白鷹を招き寄せて与える。
播磨守に仕える若侍で鷹匠の姫川図書之助(海老蔵)が、鷹を失ったので主君の怒りをかって切腹を命じられたが、天守を見届ければ助命すると言われて鷹を求めて富姫の住む魔界に入り込む。
富姫に、二度と来るなと言って返されるが、途中で大蝙蝠に出くわし雪洞の灯を消されて、困った図書之助は、仕方なく天守に舞い戻る。富姫は、あろうことか人間界の図書之助にゾッコン惚れ込む。
富姫に会った印として貰って持ち帰った家宝の兜を見て、播磨守に兜を盗んだ謀反人として討たれようとしたので、富姫に殺される方がマシだと天守に帰る。
二人は恋に落ち生きることを決心するが、追っ手に包囲される。守り神の獅子頭に隠れて戦うが、獅子頭の目を射抜かれると、二人の目は突然見えなくなってしまう。
富姫が、亀姫の持参した土産・猪苗代亀ヶ城主の首(播磨守の兄弟)を引っ張り出して投げつけたので、領主の首と勘違いして追手は退散する。
手を弄りながらしっかと抱き合った二人は死を覚悟する。
ところが、そこへ獅子頭を彫った工人・近江之丞桃六(猿弥)が現れて、鑿を獅子頭に当てると二人の目が開く。
それだけの話と言ってしまえばそれまでだが、先触れで大山伏の扮装でやって来た亀姫の眷属珠の盤坊(右近)の豪快で一寸コミカルな童達との対話、そして、土産の亀ヶ城主の首に血が付いたので綺麗に拭う為にぺろぺろ舌を出して舐め清める茅野ヶ原の舌長姥(門之助)のおもちゃの舌を使っての入念な演技、それに、図書之助を天守まで追い詰めて獅子頭と戦う追手の大将小田原修理(薪車)の颯爽とした井手達など芸達者の脇役の活躍が楽しい。
やはり注目は富姫の玉三郎の芸で、一寸姉御風で気風がよい美しい夫人を程々に品良く、自分が憲法だと言わんばかりの威厳を示しながら一途に恋に溺れ込む、そんな魔界の住人を美しいだけではない、自由奔放に演じているようで気持ちが良い。
春猿の亀姫は、やはりモダンでヤングっぽいところが実に上手く玉三郎と好対照で、その爽やかさが良い。
図書之助を演じる海老蔵だが、芸がどうのと言うのは野暮で、とにかく、舞台に立っているだけで絵になり凛と光り輝いている。最近とみに風格と芸に厚みが出てきた感じで玉三郎と互角に勝負していて清清しい。
泉鏡花の「天守物語」の戯曲だが、私には旧仮名遣いで何となく読み辛かったが、大正時代のロマンをほっと感じさせるような、実にビビッドでモダンな表現にびくっとしながら読んだ。日本古来の怪奇と大正ロマンを綯交ぜにした不思議な雰囲気を醸し出す作品である。
シェイクスピアの戯曲と違って、ト書きや舞台説明が詳細に書かれていて面白い。
海老蔵も玉三郎も美しい台詞に出会った感激を述べているが、やはり、明治大正時代は、われ等の時代、文化世代であることを感じた。
冒頭、侍女薄(吉弥)の、「二階から目薬とやらではあるまいし、お天守の五重から釣をするものがありますかえ。」と言う台詞も一寸粋だが、
ただの下界の若侍に富姫は、ボエームのミミとロドルフォではないが、雪洞に灯を灯しながら、”燭をとって熟(じっ)と図書の面を視る、恍惚とす。(蝋燭を手にしたるまま)「帰したくなくなった、もう帰すまいと私は思う。」とつぶやく。
「今まで、あの人を知らなかった、目の及ばなかった私は恥ずかしいよ。」と薄に言うと、何故そんなに思うのなら図書を帰したのか、貴方の容色と力をすればいくら抵抗しても手に入れられたものをと薄は答えるが、「否、容色(きりょう)は此方から見せたくない。力で、人を強いるは、播磨守なんぞの事、真の恋は、心と心・・・」と言う。
舞台の大詰め、目が見えなくなった二人が寄り添い自害する決心をする。
「私も本望でございます。貴方のお手にかかるのが。」
「真実のお声か、姫君。」
「ええ何の。然うおっしゃる、お顔が見たい、唯一目。千歳百歳(ちとせももとせ)に唯一度、たった一度の恋だのに。」
「ああ、私も、もう一度、あの、気高い、美しいお顔が見たい。」
舞台では、絶世の美男美女が歯の浮くような台詞を交わしながら苦衷の中の恍惚境を泳いでいる。
夢か現か幻か、魔界の世界に入り込んだ唯一の現実世界の理想的な男性像を通して至高の恋を描こうとした泉鏡花の幽玄の世界を、玉三郎は真正面から受けてたって描こうとした。
昨年7月のNINAGAWA十二夜も素晴らしかったが、玉三郎の泉鏡花の異界と現世を綴りあわせたどこかモダンで美しい歌舞伎の世界も素晴らしい。