今年は、国立劇場創立45周年で、当分、意欲的な舞台が展開されると言う。
昼の部の冒頭は、そのお祝いを込めて豪華な舞台だったが、いつもの調子で、11時開演と思って出かけたので、既に、10時半に幕が開いており、簔助の翁の退場の直前で、住大夫の語りも僅かに聞いただけで、残念なことをした。
昔、ニューヨークのメトロポリタン・オペラで、遅れて入場できずに、「ばらの騎士」のパバロッティのイタリア人歌手を、地下室ロビーの貧弱な白黒モニターで聞かざるを得なかった時のことを思い出した。
しかし、その後の「伽羅先代萩」が凄い。
御殿の場だけだが、紋寿が政岡、簔助が八汐、文雀が栄御前を遣い、嶋大夫と團七、津駒大夫と寛治が語り奏するのであるから、正に、決定版とも言うべき舞台である。
6年前のこの劇場で、簔助の政岡、住大夫の語りの素晴らしい舞台を見て感動したのだが、今回、あらためて、歌舞伎とは違った文楽の面白さに接して、感激を新たにした。
歌舞伎では、これでもかこれでもかと言うほど、名優の素晴らしい舞台を見ているのだが、何故か、この悲劇を、生身の役者ではない人形が、浄瑠璃語りと言う、いわば間接的な手法を通じて訴えかけてくる、その虚実の入り混じった虚構の世界が、何倍にも増幅して迫ってくる凄さである。
私は、紋寿の「女形ひとすじ」を読んでから、ずっと、紋寿のファンで注目して見ているのだが、今回の紋寿の政岡の何という気品と優雅さ。
若君・鶴喜代君(玉翔)の暗殺を恐れて、自分で茶道具を使って飯炊きをして給仕しなければならない政岡の胸を締め付けるのは、必死になって空腹に耐える若君と実子千松の健気な姿と悲運。
茶道具の脇に両手を添えて頭を垂れて必死に堪えながら慟哭に泣く政岡の気品とその優雅さなどは絶品で、右手を腰に当てて左手一本で人形を遣う颯爽とした紋寿の姿は、正に、千両役者の風格である。
それに、この舞台の命とも言うべき、政岡の赤い着物が、眩しいくらい目に染みて美しい。
勿論、政岡の心情吐露は、絶命したわが子をかき抱いて、
「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの喰ふなと云うて叱るのに、毒と見たら試して死んでくれと云うやうな、胴慾非道な母親が又と一人とあるものか。」と、忠義一途に堪えに堪えて来たわが子への愛しさ済まなさが一挙に迸って、気が狂ったように慟哭するところで頂点に達する。
実子千松が嬲り殺されるのを目前にしながらも、表情を変えずに涙さえ流さぬ政岡を見て、薬師の娘小巻に取り換えっ子だと吹きこまれていたので、死んだのは鶴喜代君に間違いないと、菓子を持ってきた栄御前に信じさせた。忠義が何ものにも優先する臣下の義務だとしても、人間政岡の激しく渦巻く心情の起伏と懊悩は、この芝居のメインテーマ。紋寿の遣う政岡は、生身の人間以上に、激しく観客に迫る。
簔助の八汐は、非常に動きをセーブした演技で、歌舞伎役者のようなこわもてのエゲツナサはなくて、かなり淡泊な遣い方なのだが、それが、不思議にも、もだえ苦しむ千松(玉勢)の悲哀をいや増す。
菓子を蹴散らす千松を即座に抑え込んで脇差を突きつけるところなどは、毒菓子であることを匂わせる歌舞伎と違うのだが、このあたりも直截明確な文楽ならの演出であろうか、
これ程、モーションを切り詰めて感情表現を抑制して、非情の限りを人形に語らせる簔助の芸の冴えに感激して観ていた。
八汐の大きな丁々発止の挑戦がなければ、政岡が生きてこないことは当然で、簔助を尊敬する紋寿にとっては、最高の舞台であったのだろうと思う。
もう一つ感激であったのは、文雀の栄御前であるが、威厳と風格は勿論のことだが、悪の女ボスと言ったニュアンスと、一寸単細胞的な雰囲気が高貴さと綯い交ぜに滲み出ていて面白かった。
いずれにしろ、人間国宝ふたりを相手にして、主役政岡を遣った紋寿の晴れ舞台であろうが、簔助と文雀が共演する舞台を見るのは初めてだし、女形のトップ3人の共演を見るのも初めてだったが、とにかく、人形が、生身の役者以上に語り演じる舞台の凄さを見たような気がしている。
飯炊きの場で、政岡と鶴喜代君と千松と言う、全く性格と役割の違った、それも、ハイクラスのレイディと若君と言う高貴な子供とわが子と言う途轍もないキャラクターの差をものともせず、単調になりがちな長丁場を、感動的に語り切った嶋大夫の語りと團七の三味線の素晴らしさは格別である。
非常に良質な「伽羅先代萩」の舞台を見て、次の歌舞伎の舞台を見るのが楽しみになってきた。
最後の「近頃河原の達引」だが、勘十郎の猿廻し与次郎が実に良かった。
貧しい京都の裏長屋を舞台にした世話物で、妹と母思いのしがない猿回しをしみじみと演じる勘十郎は、やはり、大阪人、あの与次郎は、典型的な人情の厚い掛け値なしの真剣勝負で生きている大阪人で、あのニュアンスと、ほろり、しんみりとさせる心の底から滲み出る人間味と温かさは格別なのである。
門出を祝う猿回しは泣かせるが、演じる題材は、「曽根崎心中」だと言う。
昼の部の冒頭は、そのお祝いを込めて豪華な舞台だったが、いつもの調子で、11時開演と思って出かけたので、既に、10時半に幕が開いており、簔助の翁の退場の直前で、住大夫の語りも僅かに聞いただけで、残念なことをした。
昔、ニューヨークのメトロポリタン・オペラで、遅れて入場できずに、「ばらの騎士」のパバロッティのイタリア人歌手を、地下室ロビーの貧弱な白黒モニターで聞かざるを得なかった時のことを思い出した。
しかし、その後の「伽羅先代萩」が凄い。
御殿の場だけだが、紋寿が政岡、簔助が八汐、文雀が栄御前を遣い、嶋大夫と團七、津駒大夫と寛治が語り奏するのであるから、正に、決定版とも言うべき舞台である。
6年前のこの劇場で、簔助の政岡、住大夫の語りの素晴らしい舞台を見て感動したのだが、今回、あらためて、歌舞伎とは違った文楽の面白さに接して、感激を新たにした。
歌舞伎では、これでもかこれでもかと言うほど、名優の素晴らしい舞台を見ているのだが、何故か、この悲劇を、生身の役者ではない人形が、浄瑠璃語りと言う、いわば間接的な手法を通じて訴えかけてくる、その虚実の入り混じった虚構の世界が、何倍にも増幅して迫ってくる凄さである。
私は、紋寿の「女形ひとすじ」を読んでから、ずっと、紋寿のファンで注目して見ているのだが、今回の紋寿の政岡の何という気品と優雅さ。
若君・鶴喜代君(玉翔)の暗殺を恐れて、自分で茶道具を使って飯炊きをして給仕しなければならない政岡の胸を締め付けるのは、必死になって空腹に耐える若君と実子千松の健気な姿と悲運。
茶道具の脇に両手を添えて頭を垂れて必死に堪えながら慟哭に泣く政岡の気品とその優雅さなどは絶品で、右手を腰に当てて左手一本で人形を遣う颯爽とした紋寿の姿は、正に、千両役者の風格である。
それに、この舞台の命とも言うべき、政岡の赤い着物が、眩しいくらい目に染みて美しい。
勿論、政岡の心情吐露は、絶命したわが子をかき抱いて、
「三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの喰ふなと云うて叱るのに、毒と見たら試して死んでくれと云うやうな、胴慾非道な母親が又と一人とあるものか。」と、忠義一途に堪えに堪えて来たわが子への愛しさ済まなさが一挙に迸って、気が狂ったように慟哭するところで頂点に達する。
実子千松が嬲り殺されるのを目前にしながらも、表情を変えずに涙さえ流さぬ政岡を見て、薬師の娘小巻に取り換えっ子だと吹きこまれていたので、死んだのは鶴喜代君に間違いないと、菓子を持ってきた栄御前に信じさせた。忠義が何ものにも優先する臣下の義務だとしても、人間政岡の激しく渦巻く心情の起伏と懊悩は、この芝居のメインテーマ。紋寿の遣う政岡は、生身の人間以上に、激しく観客に迫る。
簔助の八汐は、非常に動きをセーブした演技で、歌舞伎役者のようなこわもてのエゲツナサはなくて、かなり淡泊な遣い方なのだが、それが、不思議にも、もだえ苦しむ千松(玉勢)の悲哀をいや増す。
菓子を蹴散らす千松を即座に抑え込んで脇差を突きつけるところなどは、毒菓子であることを匂わせる歌舞伎と違うのだが、このあたりも直截明確な文楽ならの演出であろうか、
これ程、モーションを切り詰めて感情表現を抑制して、非情の限りを人形に語らせる簔助の芸の冴えに感激して観ていた。
八汐の大きな丁々発止の挑戦がなければ、政岡が生きてこないことは当然で、簔助を尊敬する紋寿にとっては、最高の舞台であったのだろうと思う。
もう一つ感激であったのは、文雀の栄御前であるが、威厳と風格は勿論のことだが、悪の女ボスと言ったニュアンスと、一寸単細胞的な雰囲気が高貴さと綯い交ぜに滲み出ていて面白かった。
いずれにしろ、人間国宝ふたりを相手にして、主役政岡を遣った紋寿の晴れ舞台であろうが、簔助と文雀が共演する舞台を見るのは初めてだし、女形のトップ3人の共演を見るのも初めてだったが、とにかく、人形が、生身の役者以上に語り演じる舞台の凄さを見たような気がしている。
飯炊きの場で、政岡と鶴喜代君と千松と言う、全く性格と役割の違った、それも、ハイクラスのレイディと若君と言う高貴な子供とわが子と言う途轍もないキャラクターの差をものともせず、単調になりがちな長丁場を、感動的に語り切った嶋大夫の語りと團七の三味線の素晴らしさは格別である。
非常に良質な「伽羅先代萩」の舞台を見て、次の歌舞伎の舞台を見るのが楽しみになってきた。
最後の「近頃河原の達引」だが、勘十郎の猿廻し与次郎が実に良かった。
貧しい京都の裏長屋を舞台にした世話物で、妹と母思いのしがない猿回しをしみじみと演じる勘十郎は、やはり、大阪人、あの与次郎は、典型的な人情の厚い掛け値なしの真剣勝負で生きている大阪人で、あのニュアンスと、ほろり、しんみりとさせる心の底から滲み出る人間味と温かさは格別なのである。
門出を祝う猿回しは泣かせるが、演じる題材は、「曽根崎心中」だと言う。