熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「舟渡聟」・能「半蔀」

2017年06月10日 | 能・狂言
   今日の国立能楽堂の「普及公演」は、次の通り。
   解説・能楽あんない  「半蔀」のドラマトゥルギー
               ―夕顔巻からの反照― 河添 房江(東京学芸大学教授)  
   狂言 舟渡聟(ふなわたしむこ)  野村 又三郎(和泉流)
   能  半蔀(はしとみ)  今井 清隆(金剛流)

   狂言の「舟渡聟」は、2年前に、大蔵流と和泉流の両派の舞台が上演されて、その違いを知って、非常に興味深いと思った。
   大蔵流では、聟入りするために行く道中、聟が途中で川に差しかかり渡し舟に乗るのだが、無類の酒好きの船頭に、聟が舅への土産に持ってきた酒を所望されて断りきれず、自らも飲んで酒樽を空にしてしまう。舅の家に着くと、盃事にその酒が使われることになり、樽が空であることを太郎冠者に見破られて聟は面目を失うと言う話。
   今回の和泉流では、船頭(松田高義)と舅が同一人物という設定で、舟の上で聟(野村又三郎)に無理強いして酒を飲ませた船頭は、帰宅してそれが自分の聟であることが分かって大慌てする話。妻(奥津健太郎)に事情を話して面目ないので会えないと話すと、妻が、船頭自慢の大髭を剃って容貌を変えさせ、仕方なく、顔を袖に隠して盃事に臨むが、結局、見破られて恥をかく。どうせ舅のために持ってきた酒であるからと言って、別れを惜しみ、陽気に謡いながら扇を開いて舞って、ガッシ止め。
   船頭夫婦のほのぼのとした味や、舅と聟の人間的な触れ合いが、笑い+alphaとなっていて、面白い。

   解説の河添さんの話は、源氏物語の夕顔の巻から、能「半蔀」の作劇術の話。
   源氏物語では、和歌を通して源氏にアタックしたのは夕顔だが、この能「半蔀」では、源氏の和歌を詞章に取り入れて源氏主体に変えていること、そして、この能では、夕顔の供養成仏は主題どおりではなく夕顔は成仏していないようだ。と言った話が興味深かった。
   夕顔の女(霊)は、成仏よりも、機会を見ては霊として登場して、源氏との至高の愛の思い出を舞いながら反芻することに、むしろ、幸せを感じていたと言うことであろうか。

   この能は、源氏物語の夕顔にイメージを得てはいるが、六条御息所らしき怨霊に祟られて儚くなった話や頭中将の正妻に脅迫されて隠れ住んだ話など暗い話題は一切触れずに、源氏との愛の物語のみで構成されていて、次のようなストーリー。
   京都、北山の雲林院に住む僧・安居の僧(ワキ/大日方博史が、安居の修行で、立花供養を行っていると、夕暮れ時に女がひとり現れ、一本の白い花を供える。僧が、美しく可憐なその花の名は聞くと、女は夕顔の花であると告げ、僧が女の名を尋ねると、その女は、名乗らずに五条あたりに住んでいる、と言い残して、花の中に消えてゆく。
所の者(アイ/野口隆行)から、光源氏と夕顔の君の恋物語を聞いた僧は、五条のあたりを訪ねると、、昔のままの佇まいで半蔀に夕顔が咲く寂しげな家があり、僧が菩提を弔うと、半蔀を上げて夕顔の霊が現れる。夕顔の霊は、光源氏との恋の思い出を語り、優雅に舞を舞って、僧に弔いを頼んで、夜が明けきらないうちに半蔀の中へ消えてゆく。

   後シテ夕顔の女の序ノ舞の優雅さ、美しさ。

   六条御息や正妻葵との愛に息苦しさを感じていた源氏にとっては、紫の上に会うまでは、夕顔は最高のベターハーフであったのであろう。
   老いの迫った源氏が、年甲斐もなく、夕顔の娘玉鬘にモーションをかけながら、黒髭にさらわれて、涙を飲んだ話などを克明に書くなど、紫式部も意地が悪いのだが、儚く逝った夕顔にはファンが多いと聞く。
   ところで、夕顔の花は、朝顔に似て、それなりに風情があるのだが、瓢箪や瓜に似た厳つい大きな干瓢の実がなるところが、ムードぶっ壊しと言えば、そう言えないこともないのが面白い。
   
   
   
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