伊勢物語だが、源氏物語や平家物語などと比べれは、何となく親しみがわかず、「むかし、おとこありけり。」と言った文章で始まり、多少の差はあっても殆ど短編で完結しており、125段もある物語で、それほど、興味を感じなかったので読む機会を逸していた。
しかし、この主役のおとこが、在原業平と言う東西きっての色男で和歌の名手と言うことで、能では、杜若、隅田川、井筒、雲林院、小塩など、有名曲となって蘇っており、注意を払わざるを得なくなった。
何冊か「伊勢物語」の解説本を持っていて、能鑑賞の度毎に、読んでは予習しているのだが、もう一つ、ぴんと来ない。
ところが、この日本芸術院会員であり歌人でもある著者の”理想の「いろごのみ」を知る多感な貴人、在原業平の歌で紡がれる恋の絵巻「伊勢物語」。奔放に生きる「むかしおとこ」に託された、日本の恋の伝承を見る。「昔の人は、こんあふうに心のはげしい風雅な恋をしたことなんだなー」”と言うだけあって、面白い。
全段ではないが、相当数の興味深い物語をピックアップして、原文と対訳を併記して、その後で、関連する話題や和歌を引きながら、興味深い逸話を開陳するなど、ストーリーに膨らみがでて興味深い。
この「伊勢物語」は、主題が「いろごのみ」で、その理想形を書いたと言われているので、「源氏物語」など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えたと言うことであり、それなりに詳しく解説されると、確かに、豊かな恋の物語が髣髴として面白い。
「伊勢物語」は、業平の和歌を中心にしながら、古今の歌をその上に共鳴させ、業平の上に重層して浮かび上がってくる数限りない神話・物語の男女の面影を、ほのかによみがえらせながら、多くの人の参加を得てなったものだ。と言うことで、紫式部も、大いに恋の物語に触発されて、業平の上を行く高貴でいろごのみの貴公子光源氏を主人公とした雅で爛熟した「源氏物語」を著わしたのであろう。
業平と二条の后の恋の物語を主題とした能は、雲林院と小塩だが、纏まった段ではなく、例えば、4,5、6、65等の段に跨っており、激しくも悲しい恋のイメージが作り上げられていて、興味深い。
墨田川は、東下りの九段(3)から想を得ている感じである。
それに比べて、杜若は、九段(1)、井筒は、二十三段(1)を夫々底本にしているので、分かり易い。
いずれにしろ、伊勢物語からのバリエーションが興味深い。
さて、業平の和歌は、下記が『古今和歌集』に勅撰されていて、和歌音痴の私でも知っているのだが、これらが、格段の物語にすっぽりと収載されていてストーリーに溶け込んでいて、非常に興味深かった。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
ところで、在原業平は、「容姿うるわしく、性格は奔放、あまり漢学の才はなく、和歌が上手であった」と記録されているようだが、この「伊勢物語」は、岡野先生によると、
業平ならぬ業平を主人公にして、心が純粋で、外来の教養よりも伝統的な和歌に激しい情熱を凝縮させてうたい、権威にもおもねらず、ひたすらな思いを常に燃え立たせて恋焦がれる、平安時代の人々にとって理想的な男の姿を描いているのだと言う。
いずれにしろ、業平は実在の人物。
さすれば、紫式部の描いたフィクションの光源氏は、平安時代の人々にとっては、どうであったのであろうか。
しかし、この主役のおとこが、在原業平と言う東西きっての色男で和歌の名手と言うことで、能では、杜若、隅田川、井筒、雲林院、小塩など、有名曲となって蘇っており、注意を払わざるを得なくなった。
何冊か「伊勢物語」の解説本を持っていて、能鑑賞の度毎に、読んでは予習しているのだが、もう一つ、ぴんと来ない。
ところが、この日本芸術院会員であり歌人でもある著者の”理想の「いろごのみ」を知る多感な貴人、在原業平の歌で紡がれる恋の絵巻「伊勢物語」。奔放に生きる「むかしおとこ」に託された、日本の恋の伝承を見る。「昔の人は、こんあふうに心のはげしい風雅な恋をしたことなんだなー」”と言うだけあって、面白い。
全段ではないが、相当数の興味深い物語をピックアップして、原文と対訳を併記して、その後で、関連する話題や和歌を引きながら、興味深い逸話を開陳するなど、ストーリーに膨らみがでて興味深い。
この「伊勢物語」は、主題が「いろごのみ」で、その理想形を書いたと言われているので、「源氏物語」など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えたと言うことであり、それなりに詳しく解説されると、確かに、豊かな恋の物語が髣髴として面白い。
「伊勢物語」は、業平の和歌を中心にしながら、古今の歌をその上に共鳴させ、業平の上に重層して浮かび上がってくる数限りない神話・物語の男女の面影を、ほのかによみがえらせながら、多くの人の参加を得てなったものだ。と言うことで、紫式部も、大いに恋の物語に触発されて、業平の上を行く高貴でいろごのみの貴公子光源氏を主人公とした雅で爛熟した「源氏物語」を著わしたのであろう。
業平と二条の后の恋の物語を主題とした能は、雲林院と小塩だが、纏まった段ではなく、例えば、4,5、6、65等の段に跨っており、激しくも悲しい恋のイメージが作り上げられていて、興味深い。
墨田川は、東下りの九段(3)から想を得ている感じである。
それに比べて、杜若は、九段(1)、井筒は、二十三段(1)を夫々底本にしているので、分かり易い。
いずれにしろ、伊勢物語からのバリエーションが興味深い。
さて、業平の和歌は、下記が『古今和歌集』に勅撰されていて、和歌音痴の私でも知っているのだが、これらが、格段の物語にすっぽりと収載されていてストーリーに溶け込んでいて、非常に興味深かった。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
ところで、在原業平は、「容姿うるわしく、性格は奔放、あまり漢学の才はなく、和歌が上手であった」と記録されているようだが、この「伊勢物語」は、岡野先生によると、
業平ならぬ業平を主人公にして、心が純粋で、外来の教養よりも伝統的な和歌に激しい情熱を凝縮させてうたい、権威にもおもねらず、ひたすらな思いを常に燃え立たせて恋焦がれる、平安時代の人々にとって理想的な男の姿を描いているのだと言う。
いずれにしろ、業平は実在の人物。
さすれば、紫式部の描いたフィクションの光源氏は、平安時代の人々にとっては、どうであったのであろうか。