熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

第63回式能を鑑賞してきた

2023年02月21日 | 能・狂言
   2月19日、国立能楽堂で、「第63回式能」が開催された。
   コロナ騒ぎで2回ほど行けなかったが、これまで、結構続けて行っているので、慣れてはいるが、やはり重量級の観劇である。
   今回のプログラムは次の通り、

   第一部 10:00開演(公演時間4時間20分)
能 金春流「翁」金春憲和
能 金春流「鶴亀」辻井八郎
狂言 和泉流「夷毘沙門」野村萬斎
能 宝生流「巴」金井雄資
狂言 大蔵流「寝音曲」山本

   第二部 15:20開演(公演時間3時間55分)
能 金剛流「雪 雪踏拍子」豊嶋彌左衛門
狂言 和泉流「水汲」野村万蔵
能 喜多流「葵上」長島茂
狂言 大蔵流「長光」善竹十郎
能 観世流「鵜飼 真如之月」観世喜正

   いつものように、第一部第二部通しで鑑賞しているので、朝10時から夜の7時過ぎまで能の公演は続いた。
   私の席は、脇正面の中程の真ん中よりやや目付柱よりで、幸い前の席の人が小柄な婦人であったので、殆ど視界を遮るものがなくて幸いであった。
   開演冒頭の「翁」では入出場がシャットアウトされるので、結局、その後連続して演じられた能「鶴亀」と狂言「戎毘沙門」が終るまで、席を立たずに12時半まで鑑賞を続けていたのだが、別に苦にもならなかった。

   今回公演の能は、「翁」に続く「鶴亀」は、玄宗皇帝の大宮殿での壮大なお祝いの節会が舞台で、鶴と亀が、皇帝の長寿を寿いで舞い、荘厳な舞楽が奏されると皇帝も舞うと言う、特別なストーリーがあるわけではなく、新年を迎えた目出度い宮殿での祝祭劇である。
   また、「雪」も、雪の精がシテで、何故、雪が迷いを感じて成仏を願うのか分からないのだが、全く世俗臭を感じさせない能で、説明では、無常、輪廻など人間本来の素朴な疑問に対して、この雪の精への共感と、加えて世俗臭を覆い尽くす雪への憧れがこの能を清浄無垢の美しい能に仕立てていると言える、と言う。雪の精が、純白の衣を翻して舞う、序の舞の清楚な美しさ、金剛家には秀吉拝領の秘蔵の面「雪ノ小面」があると言うが、今回は、これが使われたのであろうか。
   この2曲の能は、[式能」あっての演目であろうか、愉しませて貰った。
   「巴」は平家物語、「葵上」は源氏物語を題材にしたお馴染みの能で、何度か観ていて、私にとっては、能は良く分からなくても、物語への展開はいくらでも増幅できるので、それなりに愉しんでいる。

   さて、最後の「鵜飼」は、非常に意欲的な舞台で素晴しかった。
   銕仙会によると、
   生き物の命を取ることで生計を立てていた漁師/猟師が、死後その罪によって苦しむ有り様を見せるという能には、他に〈阿漕(あこぎ)〉〈善知鳥(うとう)〉があり、本作とあわせて「三卑賤」と称されています。いずれの作品も、殺生を生業とする中でそこに楽しみを見出してしまうという狂気や、死後罪の報いに苦しむ様子を描く、重いテーマの能となっています。鵜舟に焚かれた篝火がゆらめきながら水面に映り、老人の使う鵜はバサバサと音を立てて魚を追い回す。殺生の面白さに取り憑かれてしまった人間の、業(ごう)のかたち。だと言う。
   後場は、シテ(観世喜正)が、前シテ鵜飼の老翁から、後シテ地獄の鬼にかわる。
   全身を金銀の甲冑で固めた地獄の鬼(後シテ)が、僧たちの眼前に現れて、「鵜飼は地獄の底に沈めることに定まっていたが、僧侶を一晩泊めた功徳によって、浄らかな世界へと送られることになった」と告げる。罪人も女人も草木も、この世のあらゆる存在が、全てを包み込み救いとる法華経の功徳によって救われる。
いかなる罪人であっても、慈悲の心を起こして僧を供養することで、解脱の道が開かれる。これこそが、仏から私たちに差し伸べられた、救いの手なのだ。と高らかに宣言して終る。
   この舞台では、「真如之月」の小書がついているので、シテは、中入りせずに後見座前で物着して閻魔大王として登場したが、早装束の見事さ鮮やかさ。
   この能は、ワキが、安房の清澄の僧だと言っていて、法華経の功徳について語っているので、この清澄寺で立宗宣言した日蓮大聖人を意図しているようで興味深いと感じた。
   ところで、厳つい小癋見出立で舞台狭しと勇壮に舞う地獄の鬼が、何故、法華経の使いなのかと言うことだが、同じく 銕仙会では、
   この後場の鬼は、世阿弥の父・観阿弥が得意としていた「融の大臣の能」に登場する鬼の演技を取り入れたものであることが、世阿弥の芸談集『申楽談義』には記されていて、この鬼の演技は、世阿弥たちの出身母胎である大和猿楽が得意としていた芸で、こちらも、能が上流階級向けの優美な芸能として洗練されてゆく以前の、古い形をのこす演出となっていて、古態の能が宿す躍動感と、その中で描き出される残忍なまでの人間の内面性を、お楽しみ下さいと言うことのようである。

   さて、能の間に演じられた狂言、「夷毘沙門」、「寝音曲」、「水汲」、「長光」
   一度は観た舞台だが、毒にも薬にもならないストーリィで、くすりと意表を突きアイロニーでくすぐる、ほろりとさせる余韻が、堪らなく嬉しい。

   何時もの定例能舞台よりも、若人や外人客が少し多かったように思う。
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