今回は、ペンギン評伝双書のシャーウィン・B. ヌーランド著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」
とにかく、アメリカの第一人者が著したコンパクトな巨人の評伝であるから面白いのだが、この本は、イエール大医学部教授の著作なので、かなり解剖学にも言及しているので、普通のダ・ヴィンチ論と少し変っている。
やはり、気になるのは、何回か観ていて脳裏に焼き付いているダ・ヴィンチの代表作に関する記述。
まず、「モナリザ」であるが、ウォルター・ペイターの、創造性が最高度に発揮された雰囲気を理解することが困難な感情の状態、超自然的な感覚に浸った賛美論で、ダ・ヴィンチにしか聞こえない秘密の知恵の声の調子を体現した最高の例だという。
モナリザの顔について、「それは内側からつくりだされ肉体上に表わされた美であり、知られざる思想や精妙な情熱が小さな細胞の一つ一つに堆積したものである。この世のありとあらゆる思想と経験とがそこに刻まれ、形作られたのである」と言うのである。
また、ケネス・クラークが言う如く、「モナリザの微笑み」が、人の複雑な内面を永続的な素材に刻印定着させることの最高の例だと言うのなら、一体だれの内面なのか。
高貴な女性の肖像画の依頼を蹴って、平凡な女性のラ・ジョコンダの肖像を、歌や演奏をさせたり冗談を言ったり彼女を楽しませながら描き、未完成だからと言って、死ぬまで手元においていたのは何故なのか。
著者は、フロイトやキールの論を引いて、モナリザは、レオナルドの理想的な母親像に捧げられているという説に、いやむしろ、自分が母親という空の中でただ一つの星であった幼年期を取り戻したいという無意識の願いに捧げられている、と言う説に与する、と述べている。
「モナリザ」が理想化された母親像を表し、レオナルドのデーモンに満ちているとするなら、最も偉大な芸術は、「その動きにより魂の情熱を尤も良く表すという」という命題に従って生きた男の内面を究極的に表現するのは、ラ・ジョコンダであるという結論は動かしがたい。と言う。
更に興味深いのは、レオナルドの理想化された母親像である「モナリザ」は、また、レオナルドでもある。と述べていることで、「ある知られざる秘密の智慧を有する者」であり、それ故にあの謎めいた微笑みを浮かべている者であり、芸術家自身がその芸術の対象なのである。彼は、母親を描くと同時に、自分をを描いたのだ。作者は、伝記と自伝とを同時に生み出していたのだ。と結論付けている。
私が、初めてモナリザを観たのは、1973年のクリスマス、
その時には、今のように警護は厳しくなくて、普通の額に収容されていて、前に、申しわけ程度に、1㍍くらいのロープ状の衝立が立っている程度で,人も少なくて直近で写真が撮れた。
それから、パリに出かけて何度か観ているが、いつも、「謎の微笑み」には魅了されてはいたが、少し福与かな感じで決して美人ではない肖像画であることを不思議に思っていたのだが、ダ・ヴィンチ村の正妻ではない女性をイメージすれば、何となく納得できる。
幼くして母と切り離されて庶子として辛酸を嘗めたレオナルドが、同性愛者だったと言うのも不思議だが、歪な女性観を抱きながらも、終生理想の母親像を追い求め続けたということが、痛いほど伝わってくる。
最初に観たレオナルドの作品は1972年にワシントン、それから、8年前のロシアのエルミタージュまで、レオナルド行脚を続けて、殆ど観てきた。
印象深いのは、修復期を挟んで、前後3回観たミラノの「最後の晩餐」、
この本でも触れているが、今回は、モナリザだけに留める。
とにかく、アメリカの第一人者が著したコンパクトな巨人の評伝であるから面白いのだが、この本は、イエール大医学部教授の著作なので、かなり解剖学にも言及しているので、普通のダ・ヴィンチ論と少し変っている。
やはり、気になるのは、何回か観ていて脳裏に焼き付いているダ・ヴィンチの代表作に関する記述。
まず、「モナリザ」であるが、ウォルター・ペイターの、創造性が最高度に発揮された雰囲気を理解することが困難な感情の状態、超自然的な感覚に浸った賛美論で、ダ・ヴィンチにしか聞こえない秘密の知恵の声の調子を体現した最高の例だという。
モナリザの顔について、「それは内側からつくりだされ肉体上に表わされた美であり、知られざる思想や精妙な情熱が小さな細胞の一つ一つに堆積したものである。この世のありとあらゆる思想と経験とがそこに刻まれ、形作られたのである」と言うのである。
また、ケネス・クラークが言う如く、「モナリザの微笑み」が、人の複雑な内面を永続的な素材に刻印定着させることの最高の例だと言うのなら、一体だれの内面なのか。
高貴な女性の肖像画の依頼を蹴って、平凡な女性のラ・ジョコンダの肖像を、歌や演奏をさせたり冗談を言ったり彼女を楽しませながら描き、未完成だからと言って、死ぬまで手元においていたのは何故なのか。
著者は、フロイトやキールの論を引いて、モナリザは、レオナルドの理想的な母親像に捧げられているという説に、いやむしろ、自分が母親という空の中でただ一つの星であった幼年期を取り戻したいという無意識の願いに捧げられている、と言う説に与する、と述べている。
「モナリザ」が理想化された母親像を表し、レオナルドのデーモンに満ちているとするなら、最も偉大な芸術は、「その動きにより魂の情熱を尤も良く表すという」という命題に従って生きた男の内面を究極的に表現するのは、ラ・ジョコンダであるという結論は動かしがたい。と言う。
更に興味深いのは、レオナルドの理想化された母親像である「モナリザ」は、また、レオナルドでもある。と述べていることで、「ある知られざる秘密の智慧を有する者」であり、それ故にあの謎めいた微笑みを浮かべている者であり、芸術家自身がその芸術の対象なのである。彼は、母親を描くと同時に、自分をを描いたのだ。作者は、伝記と自伝とを同時に生み出していたのだ。と結論付けている。
私が、初めてモナリザを観たのは、1973年のクリスマス、
その時には、今のように警護は厳しくなくて、普通の額に収容されていて、前に、申しわけ程度に、1㍍くらいのロープ状の衝立が立っている程度で,人も少なくて直近で写真が撮れた。
それから、パリに出かけて何度か観ているが、いつも、「謎の微笑み」には魅了されてはいたが、少し福与かな感じで決して美人ではない肖像画であることを不思議に思っていたのだが、ダ・ヴィンチ村の正妻ではない女性をイメージすれば、何となく納得できる。
幼くして母と切り離されて庶子として辛酸を嘗めたレオナルドが、同性愛者だったと言うのも不思議だが、歪な女性観を抱きながらも、終生理想の母親像を追い求め続けたということが、痛いほど伝わってくる。
最初に観たレオナルドの作品は1972年にワシントン、それから、8年前のロシアのエルミタージュまで、レオナルド行脚を続けて、殆ど観てきた。
印象深いのは、修復期を挟んで、前後3回観たミラノの「最後の晩餐」、
この本でも触れているが、今回は、モナリザだけに留める。