熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

半世紀ぶりに名古屋城を訪れる

2017年05月28日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   急用ができて名古屋に行くことになり、寸暇を惜しんで、学生時代以降だから、半世紀ぶりに名古屋城を訪れた。
   学生の頃は、京都や奈良の古社寺を訪れる歴史散策に明け暮れていたので、日本の城も好きで、良く訪れたり、勉強もした。
   真っ先に訪れたのは、近くの大阪城や二条城で、その後、姫路城や彦根城、犬山城や熊本城、松山城や松本城、と言った調子で歩き始めて、北海道の五稜郭から、沖縄の首里城まで、結構、日本の城を巡って歩いた。
   その一つが、名古屋城であった。
   
   

   残念ながら、大阪城も熊本城も名古屋城も、立派なお城の大天守はコンクリート製の再建で、昔の面影は、模した外観と石垣などの遺構くらいなので、やはり、姫路城を筆頭にオリジナルが残っている古城の素晴らしさは、何ものにも代え難いと思っている。

   名古屋城は、木造のオリジナルに近い再建の計画があると言うことだが、今回、立派に再建された本丸御殿を見ていて、やはり、そうあるべきだと感じている。
   戦争で焼失した元の写真がディスプレイされていたが、狩野派の襖絵で蘇った素晴らしい御殿の内部を見ていて、どれだけ凄かったのかが分かる。
   
   
   

   私が一番注目したのは、城内に展示されていた焼失前の名古屋城の写真である。
   昭和6年、昭和15年の航空写真だが、明治時代まで使用されていたと言うから、夫々、その写真の威容は、素晴らしい。
   しかし、この素晴らしい天守は、大地震など多くの震災や明治維新の廃城の危機にも耐えたのだが、1945年の空襲で焼失した。ウィキペディアによると、焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火したといわれている。と言う。
   焼ける天守の写真も展示されていて、実に痛々しいが、馬鹿な戦争をしてしまったことを悔いる以外に仕方がない。
   
   
   

   京都・奈良・鎌倉など、貴重な文化財の残る古都が米軍の空襲を免れたのは、その価値をアメリカが認めてくれたからだと、ウォーナー博士やスチムソンの恩人説が流布した一方、それに対して出鱈目だと論じられるなど両論が出ているが、いずれにしろ、名古屋城は米軍の爆撃で消失したが、京都・奈良・鎌倉の多くの日本の貴重な文化遺産が守り抜かれたことは事実であり、不幸中の幸いだと言うことであろう。
   
   先の熊本大地震で、直撃を受けた熊本城の石垣が辛うじて支えて櫓の崩壊を免れた姿を見て感激したのだが、美しくて見栄えのする天守や櫓と比べて、目立たず地味な石垣、岩組が如何に貴重かと言うことが良く分かって、この頃、しみじみと石垣の微妙な姿を眺めている。
   以前、ペルーのマチュピチュやクスコのインカの建物の石垣が、剃刀一枚入り込めない程、ピッタリと積み上げられているのを見て感激したのだが、日本の石垣は、大小多くの石が無造作に嵌め込まれて積まれているように見えるが、はるかに強いことを知って、その知恵と技にいたく感服している。
   天守の石垣を積んだ加藤清正の石曳きの像が、重文の東南隅櫓の対面に立っているが、城は、縄張や石組が大変重要なのであろう。
   
   
   

   今回、ホテルの窓から、遠く、名古屋城が遠望できた。
   コンパクトデジカメで、望遠が利かないのでピンボケだが、その写真を。
   
   
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