
「なんとなく、日本人」と言う小笠原泰氏のPHP新書の序文を見ていて、考えさせられた。
シカゴ大大学院で教育を受け、マッキンゼーやフォルクスワーゲン、カーギル等々欧米の会社でキャリアーを積み、海外生活の長い典型的なの国際人である小笠原氏が、久しぶりに日本生活に復帰した時に、「帰国子女のワイフとともども実感としたのは、「やはり楽だな」であった。これは言葉の問題ではない。社会に漂うエートスの問題である。」と言うことである。
いくら国際人を気取っても日本人であることの個性を否定できない、論理・言語を超えた子宮の中の羊水に浮かぶような安著を感じ「やはり、自分は日本人だな」と実感したと言うのである。
私などのように、遥かに海外経験も浅く短い人間ならもっと実感できることで、本当にそう思うし、話は違うが、大学を出て就職し、すぐに関西を離れて東京と外国暮らしをしてしまったて関西とは縁が切れてしまったが、それでも、やはり、「なんとなく関西人」である。
小笠原氏の論点は、
人間生きるためには、「活動としてのグローバル化」と「軸足としてのローカル化」の両視点が必要である。
しかし、急激な「活動としてのグローバル化」の中で、日本人自身のアイデンティティの危機と言うべきか、日本的なるものの物理的・心理的境界が曖昧になって「なんとなく日本人」を楽観的に維持し辛くなってきた。
日本人がグローバル社会で生きてゆくためには、異文化と自国文化の差異を問うこと、「日本的なるもの」の本質を見極める必要がある、と言うことである。
文明には、グローバライゼーションに通じる普遍的な側面「近代の普遍的な思想・価値観を生み出した顔」とローカライゼーションに通じる差異的な側面「民族と宗教に立脚する固有の思想・価値観を主張してやまない顔」の二つの顔がある。
ところで、グローバライゼーションは、ローカル・コミュニティから人々をグローバルな世界へ放り込むと同時に、ローカル・コミュニティのアイデンティティの主張とその維持(自律分散化)を可能とし多様性を許容する」(アンソニー・ギデンス)と言う相反する要素を包含する、所謂、グローバル・パラドックスを持つ。
欧米人はこのパラドックスの中に生きているので問題はないが、日本人には馴染みの薄い世界で、現在は、普遍的なグローバライゼーションに幻惑されて、日本人としてのローカル性・アイデンティティを失いつつあり危機的な状態にある、と言う認識である。
さて、どうであろうか。
小泉首相の靖国神社参拝は、公約であるから実行すると言うが、このことは日本固有のローカル性の発露なのか、それとも、普遍的なエートスなのか。
中曽根元首相は、宮司が分祀すれば済む、と言うし、麻生大臣は非宗教法人化し任意解散して国立の追悼施設にすれば良い、と言うのだが、日本の神道とは、その程度のものなのであろうか。
宮司が決めれば分祀出来、国会で簡単に非宗教法人化出来る様な宗教なら、何故、国論を真っ二つにしてアジアの平安を乱し、人類の平和と安寧のための崇高な努力を妨げるのか、悲しいかな、宰相小泉オトドは差し詰めピエロである。
それ程、「日本的なるもの」を再発見することは難しい。
シカゴ大大学院で教育を受け、マッキンゼーやフォルクスワーゲン、カーギル等々欧米の会社でキャリアーを積み、海外生活の長い典型的なの国際人である小笠原氏が、久しぶりに日本生活に復帰した時に、「帰国子女のワイフとともども実感としたのは、「やはり楽だな」であった。これは言葉の問題ではない。社会に漂うエートスの問題である。」と言うことである。
いくら国際人を気取っても日本人であることの個性を否定できない、論理・言語を超えた子宮の中の羊水に浮かぶような安著を感じ「やはり、自分は日本人だな」と実感したと言うのである。
私などのように、遥かに海外経験も浅く短い人間ならもっと実感できることで、本当にそう思うし、話は違うが、大学を出て就職し、すぐに関西を離れて東京と外国暮らしをしてしまったて関西とは縁が切れてしまったが、それでも、やはり、「なんとなく関西人」である。
小笠原氏の論点は、
人間生きるためには、「活動としてのグローバル化」と「軸足としてのローカル化」の両視点が必要である。
しかし、急激な「活動としてのグローバル化」の中で、日本人自身のアイデンティティの危機と言うべきか、日本的なるものの物理的・心理的境界が曖昧になって「なんとなく日本人」を楽観的に維持し辛くなってきた。
日本人がグローバル社会で生きてゆくためには、異文化と自国文化の差異を問うこと、「日本的なるもの」の本質を見極める必要がある、と言うことである。
文明には、グローバライゼーションに通じる普遍的な側面「近代の普遍的な思想・価値観を生み出した顔」とローカライゼーションに通じる差異的な側面「民族と宗教に立脚する固有の思想・価値観を主張してやまない顔」の二つの顔がある。
ところで、グローバライゼーションは、ローカル・コミュニティから人々をグローバルな世界へ放り込むと同時に、ローカル・コミュニティのアイデンティティの主張とその維持(自律分散化)を可能とし多様性を許容する」(アンソニー・ギデンス)と言う相反する要素を包含する、所謂、グローバル・パラドックスを持つ。
欧米人はこのパラドックスの中に生きているので問題はないが、日本人には馴染みの薄い世界で、現在は、普遍的なグローバライゼーションに幻惑されて、日本人としてのローカル性・アイデンティティを失いつつあり危機的な状態にある、と言う認識である。
さて、どうであろうか。
小泉首相の靖国神社参拝は、公約であるから実行すると言うが、このことは日本固有のローカル性の発露なのか、それとも、普遍的なエートスなのか。
中曽根元首相は、宮司が分祀すれば済む、と言うし、麻生大臣は非宗教法人化し任意解散して国立の追悼施設にすれば良い、と言うのだが、日本の神道とは、その程度のものなのであろうか。
宮司が決めれば分祀出来、国会で簡単に非宗教法人化出来る様な宗教なら、何故、国論を真っ二つにしてアジアの平安を乱し、人類の平和と安寧のための崇高な努力を妨げるのか、悲しいかな、宰相小泉オトドは差し詰めピエロである。
それ程、「日本的なるもの」を再発見することは難しい。