
ルネ・フレミングの艶姿に再びめぐり合えた幸せについては、ゆっくり後で書くとして、このオペラの素晴らしさの魅力の一つは、フランコ・ゼッフィレッリの目を奪うような美しく華麗な演出とその舞台である。
1989年10月16日に、METで初演されたこの舞台は、ヴィオレッタがE.グルベローバ、アルフレートはN.シコフ、ジェルモンはW.ブレンデルで、指揮はカルロス・クライバーと言う豪華版で大変な人気だったと言う。
私は、その前に一度だけ、1981年に、METで椿姫を観ているが、ヴィオレッタはキャサリン・マルフィターノで、ジェルモンはレナート・ブルソンであった。
私は、1983年にゼッフィレッリが演出監督した「椿姫」の映画を、パリのオペラ座の近くの小さな劇場で見たのがゼッフィレッリとの遭遇の始まりだったが、テレサ・ストラタスのヴィオレッタとプラシド・ドミンゴのアルフレートの夢のように美しいオペラ映画を観て感激した。
その後、このビデオをニューヨークで見つけて長く楽しんだが、ベータ版なので今は処分してなくしてしまった。この時、METで、やはり、ゼッフィレッリ演出の目の覚めるような美しい「ボエーム」を見てゼッフィレッリのファンになってしまった。
あの当時でも、少しづつオペラの演出がモダンになり始めて、よき時代の歴史的で華麗な舞台設定は少しづつ後退し始めていたが、それだけに、ゼッフィレッリの華麗な舞台が貴重であった。
その後、ロンドンで観たゼッフィレッリの「オテロ」の舞台も、ドミンゴやキリ・テ・カナワやゲルグ・ショルティの思い出とともに記憶の中に深く残っている。
手元に、1986年ロンドン版の「The Autobiography of Franco Zeffirelli」があるが、時々、引き出して読んでいる。
今回の椿姫の舞台は3幕だが、第2幕は2場あるので、全部で4場で、第1幕のヴィオレッタの邸宅の宴会の広間と第2幕2場のフローラの邸宅の宴会広間は実に華麗で、第2幕1場のパリ郊外の二人の田舎家も瀟洒で美しく、第3幕のヴィオレッタの病室の質素だがその落ち着きと品の良さは、それぞれに一幅の絵画を眺めているような感じにさせてくれる。
さて、ルネ・フレミングであるが、丁度1年前に、ロンドンのコベントガーデンで、オテロのデズデモーナを聴いて、その後、劇場2階のフローラル・ルームで、自伝「The Inner Voice」とプログラムにサインを貰って、二言三言喋っている。
綺麗なアメリカ婦人であることには間違いないが気さくなヤンキー気質を一寸垣間見て親しみを感じたのだが、幕が開くと、その彼女が、華麗なイブニングドレスを纏って颯爽と舞台に立っている。
出だしは少し声がこもったが、乾杯の歌を歌い終える頃には、素晴らしく美しい声に変り、あの品のある優雅な立ち居振る舞いからほとばしり出るヴェルディの珠玉のようなアリアが胸に響く。
あれだけ美しい声でボリュームたっぷりに隅々まで歌いこめる歌手は稀有だと思って聴いているが、一頃、良く聴いたロイヤル・オペラでのキリ・テ・カナワを思い出した。
フレミングは、1991年3月に「フィガロの結婚」の伯爵夫人でMETにデビューして、ドミンゴの「オテロ」でデズデモーナを歌い、「ばらの騎士」のマルシャリンも演じる等モーツアルトを筆頭にかなり幅のあるレパートリーをMETで歌っているが、「椿姫」については1998年にヴィオレッタの話があった時に、一度キャンセルして2003年まで延期している。
自伝によると、ヴィオレッタは異常に要求の厳しい複雑な役柄で、これまでに多くの卓越した歌い手が解釈し尽くしており、歌うからには、人生の最も難しい時期に失敗したくないので全身全霊で打ち込みたかったからだと言う。
このオペラは、ヴィオレッタ歌いに3種の違った声を要求する、リリック・コロラトゥーラ、リリコ・スピント、リリック・ソプラノ。良く分からないが、私は、鶯が囀るようなフレミングの一幕のアリア「ああ、そは彼の人か」が天国からの歌声のように響いて心地好かった。
METの公演の前に、幸いヒューストンの舞台があり、レナータ・スコットから教えを受けて舞台に立ったが、この時のキャストは、NHKホールの舞台と同じで、アルフレードにラモン・ヴァルガス、ジェルモンにディモトリー・ホロストフスキーであった。
マリア・カラスのスタジオ録音版は嫌いだがジュリーニとのスカラ座版は良いとか、グレタ・ガルボの映画やイレアーナ・コトルバスのクライバー版が良いとかフレミングがコメントしているが、椿姫への並々ならぬ意欲が伝わってくる。
ところで、第2幕だが、ヴィオレッタの心の落差が大きくて、実に切ない胸に響く舞台であるが、この場でのフレミングも素晴らしい。
パリ郊外の田舎家での幸せな生活が、父親ジェルモンの来訪によって引き裂かれて暗転する。
ヴィオレッタとジェルモンの二重唱「ヴァレリー嬢ですね。そうですわ。」で始まり、「天使のように清らかな娘を」でジェルモンにかき口説かれて、ヴィオレッタは涙を呑む。
フレミングは、嬉々として幸せの絶頂にあった象徴の、アルフレードから貰って髪に挿していたピンクのバラを手にとって、静かに握りつぶす。床に花びらが広がる。死を悟り死を決心する瞬間であり、ヴィオレッタにとっては総てが終わる。
ジェルモンのロシアのバリトン・ホロストフスキーは、殆ど演技らしい演技をせずに、心を歌いながら無常を語る。
昨年、コベントガーデンで観た「リゴレット」も、殆ど朴訥と思えるくらいに演技を抑えていたが、もともと、不器用と言うか演技が嫌いなのか、しかし、浪々と響き胸に染み渡るようなヴォイスの迫力は凄い。
アルフレードのラモン・ヴァルガスでが、何となく田舎男と言う風貌に親しみが湧く。
定番のヴィオレッタとのアリアも実に上手いが、2幕のヴィオレッタへの復讐を決意する所や「この女をご存知ですか」などのパンチの効いた歌も中々良い。
指揮者のパトリック・サマーズについては、初めての経験なので良く分からないが、本当に素晴らしい舞台であったことが総てを物語っているような気がする。
METでは、これまで、フレミングのヴィオレッタで、東京を入れて16回公演を行っているが、殆どギルギエフが振っている。
1989年10月16日に、METで初演されたこの舞台は、ヴィオレッタがE.グルベローバ、アルフレートはN.シコフ、ジェルモンはW.ブレンデルで、指揮はカルロス・クライバーと言う豪華版で大変な人気だったと言う。
私は、その前に一度だけ、1981年に、METで椿姫を観ているが、ヴィオレッタはキャサリン・マルフィターノで、ジェルモンはレナート・ブルソンであった。
私は、1983年にゼッフィレッリが演出監督した「椿姫」の映画を、パリのオペラ座の近くの小さな劇場で見たのがゼッフィレッリとの遭遇の始まりだったが、テレサ・ストラタスのヴィオレッタとプラシド・ドミンゴのアルフレートの夢のように美しいオペラ映画を観て感激した。
その後、このビデオをニューヨークで見つけて長く楽しんだが、ベータ版なので今は処分してなくしてしまった。この時、METで、やはり、ゼッフィレッリ演出の目の覚めるような美しい「ボエーム」を見てゼッフィレッリのファンになってしまった。
あの当時でも、少しづつオペラの演出がモダンになり始めて、よき時代の歴史的で華麗な舞台設定は少しづつ後退し始めていたが、それだけに、ゼッフィレッリの華麗な舞台が貴重であった。
その後、ロンドンで観たゼッフィレッリの「オテロ」の舞台も、ドミンゴやキリ・テ・カナワやゲルグ・ショルティの思い出とともに記憶の中に深く残っている。
手元に、1986年ロンドン版の「The Autobiography of Franco Zeffirelli」があるが、時々、引き出して読んでいる。
今回の椿姫の舞台は3幕だが、第2幕は2場あるので、全部で4場で、第1幕のヴィオレッタの邸宅の宴会の広間と第2幕2場のフローラの邸宅の宴会広間は実に華麗で、第2幕1場のパリ郊外の二人の田舎家も瀟洒で美しく、第3幕のヴィオレッタの病室の質素だがその落ち着きと品の良さは、それぞれに一幅の絵画を眺めているような感じにさせてくれる。
さて、ルネ・フレミングであるが、丁度1年前に、ロンドンのコベントガーデンで、オテロのデズデモーナを聴いて、その後、劇場2階のフローラル・ルームで、自伝「The Inner Voice」とプログラムにサインを貰って、二言三言喋っている。
綺麗なアメリカ婦人であることには間違いないが気さくなヤンキー気質を一寸垣間見て親しみを感じたのだが、幕が開くと、その彼女が、華麗なイブニングドレスを纏って颯爽と舞台に立っている。
出だしは少し声がこもったが、乾杯の歌を歌い終える頃には、素晴らしく美しい声に変り、あの品のある優雅な立ち居振る舞いからほとばしり出るヴェルディの珠玉のようなアリアが胸に響く。
あれだけ美しい声でボリュームたっぷりに隅々まで歌いこめる歌手は稀有だと思って聴いているが、一頃、良く聴いたロイヤル・オペラでのキリ・テ・カナワを思い出した。
フレミングは、1991年3月に「フィガロの結婚」の伯爵夫人でMETにデビューして、ドミンゴの「オテロ」でデズデモーナを歌い、「ばらの騎士」のマルシャリンも演じる等モーツアルトを筆頭にかなり幅のあるレパートリーをMETで歌っているが、「椿姫」については1998年にヴィオレッタの話があった時に、一度キャンセルして2003年まで延期している。
自伝によると、ヴィオレッタは異常に要求の厳しい複雑な役柄で、これまでに多くの卓越した歌い手が解釈し尽くしており、歌うからには、人生の最も難しい時期に失敗したくないので全身全霊で打ち込みたかったからだと言う。
このオペラは、ヴィオレッタ歌いに3種の違った声を要求する、リリック・コロラトゥーラ、リリコ・スピント、リリック・ソプラノ。良く分からないが、私は、鶯が囀るようなフレミングの一幕のアリア「ああ、そは彼の人か」が天国からの歌声のように響いて心地好かった。
METの公演の前に、幸いヒューストンの舞台があり、レナータ・スコットから教えを受けて舞台に立ったが、この時のキャストは、NHKホールの舞台と同じで、アルフレードにラモン・ヴァルガス、ジェルモンにディモトリー・ホロストフスキーであった。
マリア・カラスのスタジオ録音版は嫌いだがジュリーニとのスカラ座版は良いとか、グレタ・ガルボの映画やイレアーナ・コトルバスのクライバー版が良いとかフレミングがコメントしているが、椿姫への並々ならぬ意欲が伝わってくる。
ところで、第2幕だが、ヴィオレッタの心の落差が大きくて、実に切ない胸に響く舞台であるが、この場でのフレミングも素晴らしい。
パリ郊外の田舎家での幸せな生活が、父親ジェルモンの来訪によって引き裂かれて暗転する。
ヴィオレッタとジェルモンの二重唱「ヴァレリー嬢ですね。そうですわ。」で始まり、「天使のように清らかな娘を」でジェルモンにかき口説かれて、ヴィオレッタは涙を呑む。
フレミングは、嬉々として幸せの絶頂にあった象徴の、アルフレードから貰って髪に挿していたピンクのバラを手にとって、静かに握りつぶす。床に花びらが広がる。死を悟り死を決心する瞬間であり、ヴィオレッタにとっては総てが終わる。
ジェルモンのロシアのバリトン・ホロストフスキーは、殆ど演技らしい演技をせずに、心を歌いながら無常を語る。
昨年、コベントガーデンで観た「リゴレット」も、殆ど朴訥と思えるくらいに演技を抑えていたが、もともと、不器用と言うか演技が嫌いなのか、しかし、浪々と響き胸に染み渡るようなヴォイスの迫力は凄い。
アルフレードのラモン・ヴァルガスでが、何となく田舎男と言う風貌に親しみが湧く。
定番のヴィオレッタとのアリアも実に上手いが、2幕のヴィオレッタへの復讐を決意する所や「この女をご存知ですか」などのパンチの効いた歌も中々良い。
指揮者のパトリック・サマーズについては、初めての経験なので良く分からないが、本当に素晴らしい舞台であったことが総てを物語っているような気がする。
METでは、これまで、フレミングのヴィオレッタで、東京を入れて16回公演を行っているが、殆どギルギエフが振っている。