
玉三郎の「天守物語」を見るのは2度目である。
この泉鏡花の「天守物語」は、「雨月物語」の系譜にある妖の世界の物語で、怪奇的ではあるが、玉三郎が積極的に演出・主演、そして、監督をして、歌舞伎や映画、芝居などのパーフォーマンス芸術の華とも言うべき実に幻想的で美しい舞台を創造しており、正に芝居そのものと言った感じの素晴らしい舞台である。
姫路城の天守の最上階に棲み付いた妖怪たちの主人である美しい天守夫人富姫(玉三郎)が主人公だが、消えた鷹を追って禁断の天守へ紛れ込んで来た姫路藩の鷹匠・姫川図書之助(海老蔵)と恋に落ちると言う異界と人間界の人間の恋物語である。
めしいとなった玉三郎の富姫が、「お顔が見たい、唯一度。千歳百歳に唯一度、たった一度の恋だのに。」と、図書之助にすがり付いて、激しい恋に咽び泣く。ハッピーエンドで終わるのだが、盲目を解くのも、日本古来の仙人のような翁・老工の近江之丞桃六(我當)であり、日本の説話物語を髣髴とさせる。
キリスト教徒であり、尾崎紅葉の弟子としてのバックグラウンドを持ちながら、一方では江戸文学の影響を色濃く受けており、今回の天守物語は、その怪奇趣味とロマンティシズムを強烈に体現した泉鏡花の典型のような小説だが、先回、同じく玉三郎と海老蔵が共演した「高野聖」の舞台空間と同じく、心の中にずっしりと沈んだいぶし銀のように何時までも余韻を引く不思議な作品である。
父君の團十郎自身が弁解これ努めているドンファン・イメージの海老蔵だが、この玉三郎との泉鏡花の舞台に関する限り、実に古風で素直な理想的な日本の男を演じており、この天守物語での図書之助などを見ていると、光源氏とは大分違った人物像を作り上げていて、新境地と言うか爽やかささえ感じる。
この泉鏡花の作品は、舞台を前提として書かれており、舞台設定など詳しく書き込まれているので、玉三郎たちが、鏡花の意図をどのように解釈して演出を考えて、この歌舞伎の舞台を創り上げようとしたのか、その背景が分かって面白い。
富姫たち妖怪の生きている縁は、天守の中央に鎮座まします金の目の獅子頭なのだが、この目を播磨藩の武士に射抜かれて中に入っていた富姫と図書之助がめしいになると言う設定で、重要な役割を果たす。
天守閣の最上階の広間が舞台となる一幕ものであるから、それほど複雑にはならないのだが、冒頭の、暗い背景から3人の女童が輪になって歌う「とおりゃんせ」の懐かしさといい、5人の侍女たちが天守の欄干から露を餌に秋草を釣るために糸を垂れている風景からして詩情豊かで美しく、その後の豊かで劇的な舞台展開を考えれば、実に良く出来ている。
玉三郎の富姫は、打見は二十七八と言うことだが、手毬遊びに猪苗代から雲間を飛んでくる亀姫(勘太郎)が二十ばかりと言う年齢設定だから、丁度良いのかも知れないが、風格と貫禄が勝ちすぎて一寸イメージが違ってくるが、とにかく、優雅で美しく、図書之助との恋の初々しさには華がある。
ところが、美しくて素晴らしい姫たちだが、そこは妖怪の世界。亀姫の手土産が、猪苗代の城主の首で、血が滴って見苦しいので、連れて来た舌長姥(門之助)に舐めさせるのだが、富姫は、気を使わなくても良い、血だらけなは、尚おいしかろうと言う鬼気迫る会話をさらりとやってのける。
勘太郎の女形が続いているが、祖父芝翫が見込んだだけあって、中々、さらりとした色気と品があって素晴らしい。やはり、気の所為か、玉三郎と並ぶと、随分、若くて初々しい。
亀姫が同道した家来の朱の盤坊の獅童の赤面姿も堂に入っていて良かったが、この舞台も、猿弥休演で、小田原修理を代演した市蔵が好演していた。
やはり、このような舞台では、獅子頭の目を再び開ける役作りの老工には、好々爺で仙人のような風格のある我當が最も適役なのであろうか、控えめながら、最後のカーテンコールにも登場していた。
侍女頭の薄を演じた吉弥の好演は流石で、何故、あんなに良い男の図書之助を、抵抗しても、あなたの御容色(ごきりょう)とそのお力で無理にも引き留めておくべきなのに返してしまったのかと詰問するあたりの呼吸など素晴らしい。
ここらあたりのモダンな発想は、泉鏡花らしくて中々面白い。
モダンついでだが、富姫の言葉を通して、泉鏡花の文明観と言うか人生観が滲み出ていて面白いと思った箇所が、これ以外にいくらかある。
まず、最初は、鷹狩に家来を沢山引き連れて出かける播磨の守の騒々しさに我慢がならず、夜叉が池の白雪姫に頼みに行き嵐を起こして蹴散らすと言う場面である。
今の政治と何処か似ていて、子供の遊びにしか見えないのかも知れない。
次に興味深いのは、その鷹を魔術で引き寄せて捕らえて、その鷹を追ってきた図書之助に、殿様の鷹だと言われて、鷹は誰のものでもないと一蹴する言葉である。
鷹には鷹の世界がある。決して人間の持ち物ではありません。と言って、大名の思い上がった行き過ぎを、鷹を唯一人じめにして自分のものだとつけ上がっていると糾弾し、図書之助に、あなたは然う思いませんかと問い詰めるのである。
鷹の世界だと言って、露霜の清い林、朝嵐夕風の爽やかな空があると言うくだりなど、私は聞いていて感動した。
特に、私など、日頃から、人間の地球環境に対する傍若無人な態度に疑問を感じており、共生すべき筈の動植物の生きる権利を大切に守るべきだと思っているので、ほろりとしたのかも知れない。
泉鏡花は、怪しく揺れているが、冴えているのである。
この泉鏡花の「天守物語」は、「雨月物語」の系譜にある妖の世界の物語で、怪奇的ではあるが、玉三郎が積極的に演出・主演、そして、監督をして、歌舞伎や映画、芝居などのパーフォーマンス芸術の華とも言うべき実に幻想的で美しい舞台を創造しており、正に芝居そのものと言った感じの素晴らしい舞台である。
姫路城の天守の最上階に棲み付いた妖怪たちの主人である美しい天守夫人富姫(玉三郎)が主人公だが、消えた鷹を追って禁断の天守へ紛れ込んで来た姫路藩の鷹匠・姫川図書之助(海老蔵)と恋に落ちると言う異界と人間界の人間の恋物語である。
めしいとなった玉三郎の富姫が、「お顔が見たい、唯一度。千歳百歳に唯一度、たった一度の恋だのに。」と、図書之助にすがり付いて、激しい恋に咽び泣く。ハッピーエンドで終わるのだが、盲目を解くのも、日本古来の仙人のような翁・老工の近江之丞桃六(我當)であり、日本の説話物語を髣髴とさせる。
キリスト教徒であり、尾崎紅葉の弟子としてのバックグラウンドを持ちながら、一方では江戸文学の影響を色濃く受けており、今回の天守物語は、その怪奇趣味とロマンティシズムを強烈に体現した泉鏡花の典型のような小説だが、先回、同じく玉三郎と海老蔵が共演した「高野聖」の舞台空間と同じく、心の中にずっしりと沈んだいぶし銀のように何時までも余韻を引く不思議な作品である。
父君の團十郎自身が弁解これ努めているドンファン・イメージの海老蔵だが、この玉三郎との泉鏡花の舞台に関する限り、実に古風で素直な理想的な日本の男を演じており、この天守物語での図書之助などを見ていると、光源氏とは大分違った人物像を作り上げていて、新境地と言うか爽やかささえ感じる。
この泉鏡花の作品は、舞台を前提として書かれており、舞台設定など詳しく書き込まれているので、玉三郎たちが、鏡花の意図をどのように解釈して演出を考えて、この歌舞伎の舞台を創り上げようとしたのか、その背景が分かって面白い。
富姫たち妖怪の生きている縁は、天守の中央に鎮座まします金の目の獅子頭なのだが、この目を播磨藩の武士に射抜かれて中に入っていた富姫と図書之助がめしいになると言う設定で、重要な役割を果たす。
天守閣の最上階の広間が舞台となる一幕ものであるから、それほど複雑にはならないのだが、冒頭の、暗い背景から3人の女童が輪になって歌う「とおりゃんせ」の懐かしさといい、5人の侍女たちが天守の欄干から露を餌に秋草を釣るために糸を垂れている風景からして詩情豊かで美しく、その後の豊かで劇的な舞台展開を考えれば、実に良く出来ている。
玉三郎の富姫は、打見は二十七八と言うことだが、手毬遊びに猪苗代から雲間を飛んでくる亀姫(勘太郎)が二十ばかりと言う年齢設定だから、丁度良いのかも知れないが、風格と貫禄が勝ちすぎて一寸イメージが違ってくるが、とにかく、優雅で美しく、図書之助との恋の初々しさには華がある。
ところが、美しくて素晴らしい姫たちだが、そこは妖怪の世界。亀姫の手土産が、猪苗代の城主の首で、血が滴って見苦しいので、連れて来た舌長姥(門之助)に舐めさせるのだが、富姫は、気を使わなくても良い、血だらけなは、尚おいしかろうと言う鬼気迫る会話をさらりとやってのける。
勘太郎の女形が続いているが、祖父芝翫が見込んだだけあって、中々、さらりとした色気と品があって素晴らしい。やはり、気の所為か、玉三郎と並ぶと、随分、若くて初々しい。
亀姫が同道した家来の朱の盤坊の獅童の赤面姿も堂に入っていて良かったが、この舞台も、猿弥休演で、小田原修理を代演した市蔵が好演していた。
やはり、このような舞台では、獅子頭の目を再び開ける役作りの老工には、好々爺で仙人のような風格のある我當が最も適役なのであろうか、控えめながら、最後のカーテンコールにも登場していた。
侍女頭の薄を演じた吉弥の好演は流石で、何故、あんなに良い男の図書之助を、抵抗しても、あなたの御容色(ごきりょう)とそのお力で無理にも引き留めておくべきなのに返してしまったのかと詰問するあたりの呼吸など素晴らしい。
ここらあたりのモダンな発想は、泉鏡花らしくて中々面白い。
モダンついでだが、富姫の言葉を通して、泉鏡花の文明観と言うか人生観が滲み出ていて面白いと思った箇所が、これ以外にいくらかある。
まず、最初は、鷹狩に家来を沢山引き連れて出かける播磨の守の騒々しさに我慢がならず、夜叉が池の白雪姫に頼みに行き嵐を起こして蹴散らすと言う場面である。
今の政治と何処か似ていて、子供の遊びにしか見えないのかも知れない。
次に興味深いのは、その鷹を魔術で引き寄せて捕らえて、その鷹を追ってきた図書之助に、殿様の鷹だと言われて、鷹は誰のものでもないと一蹴する言葉である。
鷹には鷹の世界がある。決して人間の持ち物ではありません。と言って、大名の思い上がった行き過ぎを、鷹を唯一人じめにして自分のものだとつけ上がっていると糾弾し、図書之助に、あなたは然う思いませんかと問い詰めるのである。
鷹の世界だと言って、露霜の清い林、朝嵐夕風の爽やかな空があると言うくだりなど、私は聞いていて感動した。
特に、私など、日頃から、人間の地球環境に対する傍若無人な態度に疑問を感じており、共生すべき筈の動植物の生きる権利を大切に守るべきだと思っているので、ほろりとしたのかも知れない。
泉鏡花は、怪しく揺れているが、冴えているのである。