
日本の歴史を革命的に変えた人物が何人かいるが、織田信長は、聖徳太子等と並んで、その最右翼の1人であろう。
その信長を、市川海老蔵が、実に生き生きと感動的に、新橋演舞場で演じている。
舞台は、うつけスタイルの信長が、小高い丘の上で舞台を背にして瞑想、「敵は本能寺にあり」と言うナレーションで始まり、同じスタイルで、「何故生まれてきたのか・・・何処へ行くのか・・・」と言う信長の独白で幕が下りる。
父織田信秀の葬儀と一族との争いから始まり、斎藤道三と濃姫との出会い、桶狭間の合戦、地球儀を前にしたルイス・フロイスとの神や科学問答、延暦寺焼き討ち、安土城での信長等を経て本能寺の変で終わるが、これに、濃姫、お市、藤吉郎、光秀などが絡んで話が進み、正味2時間40分の華やかで美しい舞台が展開される。
信長については諸説あるが、私は、正に革命的な異端児と言うべき為政者で、歴史的にもアレキサンダー大王やジンギスカンにも匹敵する英雄で、イタリアを統一したガルバルジーのように日本統一の端緒を開き、唐天竺を越えてローマまでを視野に置いたその凄さに圧倒される。
海老蔵は、「明智光秀に殺されていなければ、日本は変わっていた。」と言っているが、この点は、スターターとしての信長の使命は既に終わっていたと思っているので、長生きしていても歴史はそう変わらなかったと思う。
しかし、「大うつけと言われているが、当時の人が彼の考え方について行けなかっただけで、本質は衝いている。」当時の人間がその頭脳と精神を理解できなかったので、自分もそんな理解を超えた信長を演じたいと言っているのには同感である。
天才的な英雄の思想と行動は、人智を超えており、それが天才の天才たる所以であるのであるから、舞台では、感動と感激だけで十分なのである。
父親の葬儀で、位牌をタダの板切れではないかと僧侶に詰め寄るあたり、迷信と因習どっぷりの当時にあって科学的合理的思考と精神の持ち主であった信長の面目躍如たる所であるが、これが、ポルトガル人ロイス・フロイス等バテレンに会って、西洋の科学や文化に接して、信長の合理的科学的な思考と精神が一挙に開花する。
そして、天命を受けた選ばれし者としての自覚が、自分自らの神格化と世界への挑戦を目指させるのだが、悲しいかな、人生僅か50年、時間がなくなってしまって焦るあまりに、自分を見失い周囲を敵にまわして自滅して行く。
選ばれし者の狂気と撞着と言うが、決してそうではない、信長には醒めた理性の裏打ちがあり、あまりにも時代に先駆けすぎた悲劇があっただけである。
この天才的な不世出の英雄信長を、海老蔵は自己撞着しながら自分自身の限りなき情熱と思いを籠めて演じている。
前の武蔵の時には、極めて精神性を要求されるので若い海老蔵には無理なような気がしたが、この信長は、海老蔵の等身大で行ける。
しかし、寅さんを演じた渥美清のように、海老蔵が地で行っているようにみせかけながら、実際は、地ではない芸の深さを追求しながら新しい信長像の創造に邁進しているのである。
海老蔵は、かって演じた祖父版ではない海老蔵自身のために書き下ろされた新作信長版で、自分自身の信長像に真っ向から挑戦した。
海老蔵の信長は、立ち居振る舞い、その芸が実に優雅で流れるように美しい。
やはり、市川團十郎家成田屋の御曹司で、歴史と伝統、そして、日本の伝統芸術を糾合した歌舞伎での大変な精進が海老蔵の舞台に息づいていて、並みの役者の信長でないことを痛いほど感じさせてくれる。
ところで、濃姫を演じる純名りさであるが、レ・ミゼラブルのコゼットしか見ていないので、可愛くて綺麗な舞台しか知らなかった。
しかし、今回は、流石に宝塚の大スター、可憐さとしたたかさ、正室としての風格と威厳に加えて揺れ動く儚い女の弱さ等心のひだまで演じていて新境地を開いた純名りさを観た。
コミカルで芸達者な藤吉郎の甲本雅裕、理知的で気弱な光秀の田辺誠一、可愛くてきりっとしたお市の小田茜など脇役陣も健闘していて魅力的な舞台を作り出していた。
その信長を、市川海老蔵が、実に生き生きと感動的に、新橋演舞場で演じている。
舞台は、うつけスタイルの信長が、小高い丘の上で舞台を背にして瞑想、「敵は本能寺にあり」と言うナレーションで始まり、同じスタイルで、「何故生まれてきたのか・・・何処へ行くのか・・・」と言う信長の独白で幕が下りる。
父織田信秀の葬儀と一族との争いから始まり、斎藤道三と濃姫との出会い、桶狭間の合戦、地球儀を前にしたルイス・フロイスとの神や科学問答、延暦寺焼き討ち、安土城での信長等を経て本能寺の変で終わるが、これに、濃姫、お市、藤吉郎、光秀などが絡んで話が進み、正味2時間40分の華やかで美しい舞台が展開される。
信長については諸説あるが、私は、正に革命的な異端児と言うべき為政者で、歴史的にもアレキサンダー大王やジンギスカンにも匹敵する英雄で、イタリアを統一したガルバルジーのように日本統一の端緒を開き、唐天竺を越えてローマまでを視野に置いたその凄さに圧倒される。
海老蔵は、「明智光秀に殺されていなければ、日本は変わっていた。」と言っているが、この点は、スターターとしての信長の使命は既に終わっていたと思っているので、長生きしていても歴史はそう変わらなかったと思う。
しかし、「大うつけと言われているが、当時の人が彼の考え方について行けなかっただけで、本質は衝いている。」当時の人間がその頭脳と精神を理解できなかったので、自分もそんな理解を超えた信長を演じたいと言っているのには同感である。
天才的な英雄の思想と行動は、人智を超えており、それが天才の天才たる所以であるのであるから、舞台では、感動と感激だけで十分なのである。
父親の葬儀で、位牌をタダの板切れではないかと僧侶に詰め寄るあたり、迷信と因習どっぷりの当時にあって科学的合理的思考と精神の持ち主であった信長の面目躍如たる所であるが、これが、ポルトガル人ロイス・フロイス等バテレンに会って、西洋の科学や文化に接して、信長の合理的科学的な思考と精神が一挙に開花する。
そして、天命を受けた選ばれし者としての自覚が、自分自らの神格化と世界への挑戦を目指させるのだが、悲しいかな、人生僅か50年、時間がなくなってしまって焦るあまりに、自分を見失い周囲を敵にまわして自滅して行く。
選ばれし者の狂気と撞着と言うが、決してそうではない、信長には醒めた理性の裏打ちがあり、あまりにも時代に先駆けすぎた悲劇があっただけである。
この天才的な不世出の英雄信長を、海老蔵は自己撞着しながら自分自身の限りなき情熱と思いを籠めて演じている。
前の武蔵の時には、極めて精神性を要求されるので若い海老蔵には無理なような気がしたが、この信長は、海老蔵の等身大で行ける。
しかし、寅さんを演じた渥美清のように、海老蔵が地で行っているようにみせかけながら、実際は、地ではない芸の深さを追求しながら新しい信長像の創造に邁進しているのである。
海老蔵は、かって演じた祖父版ではない海老蔵自身のために書き下ろされた新作信長版で、自分自身の信長像に真っ向から挑戦した。
海老蔵の信長は、立ち居振る舞い、その芸が実に優雅で流れるように美しい。
やはり、市川團十郎家成田屋の御曹司で、歴史と伝統、そして、日本の伝統芸術を糾合した歌舞伎での大変な精進が海老蔵の舞台に息づいていて、並みの役者の信長でないことを痛いほど感じさせてくれる。
ところで、濃姫を演じる純名りさであるが、レ・ミゼラブルのコゼットしか見ていないので、可愛くて綺麗な舞台しか知らなかった。
しかし、今回は、流石に宝塚の大スター、可憐さとしたたかさ、正室としての風格と威厳に加えて揺れ動く儚い女の弱さ等心のひだまで演じていて新境地を開いた純名りさを観た。
コミカルで芸達者な藤吉郎の甲本雅裕、理知的で気弱な光秀の田辺誠一、可愛くてきりっとしたお市の小田茜など脇役陣も健闘していて魅力的な舞台を作り出していた。
海老蔵が、どんな風に信長を演じているのか?
歌舞伎以外のかたとどんな絡み方してるのかな?と
読ませていただいて、ますます楽しみになりました。
そして生まれたあたらしい「信長」。
海老蔵ワールド!面白かったです。
雪降る中、補助席もあり、団体さんが、群馬や栃木ナンバーの観光バスでやってきていたことにびっくりいたしました。