
39年ぶりと言う全段通しての通し狂言「摂州合邦辻」が、半蔵門の国立劇場で藤十郎の玉手御前で演じられている。
「天王寺万代池の場」や、大詰の「合邦庵室の場」などはしばしば舞台にかかるのでなじみであるが、通し狂言だと、冒頭から若くて美しい継母玉手御前が世継ぎの俊徳丸に迫る場があり、お家乗っ取りを策す妾腹の異母兄次郎丸(片岡進之介)などの悪巧みが展開されるなど話の筋が良く分かって非常に面白い。
心なしか空席が目立つが、関西歌舞伎の役者たちに、俊徳丸の三津五郎や、高安左衛門尉通俊の彦三郎たちの加わった非常に密度の高い意欲的な舞台が展開されていて楽しめる。
この歌舞伎だが、後妻に入った玉手御前が、兄弟の世継ぎ争いを治める為に自己犠牲を策して継子の命を助けると言う至高の愛と、若い継母が義理の息子を愛すると言う禁断の恋を描いた非常に錯綜した物語である。
筋の大半を継子に邪恋を仕掛ける玉手に脚光を当てて展開し、最後に、この禁断の恋は俊徳丸の命を助けんが為の偽りの策であったとどんでん返しとなるのだが、藤十郎は、本当に玉手御前が、俊徳丸に心底惚れ抜いていると言う心で演じているのであろう、愛の証として鮑の貝を死ぬまで傍においておくのだと言う。
現実的にも、ミイラがミイラ取りになると言う話以前に、虚実皮膜の世界で、かりそめの恋だと偽ってアプローチしても、次第に溺れこんで本当に心底惚れ込んでしまうと言うのが人間ではないであろうか。
俊徳丸とその許婚浅香姫(扇雀)の中に割って入って、凄い剣幕で浅香姫を追い回し蹴飛ばし、睨み付ける藤十郎玉手御前の鬼気迫る迫力は大変なもので、その嫉妬の炎に焼けつくして、俊徳丸に迫る邪恋が常軌を逸すれば逸するほど、合邦は、わが娘でありながら、激昂して、
娘が髪引っ掴み、ぐっと差し込む氷の切っ先・・・「憎うて憎うてどうもこうもたまらぬ故、十年以来蚤一匹殺さぬ手で現在の子を殺す・・・」断末魔の悲劇に突き進む。
山田庄一氏の演出が丸本重視なので、大詰の合邦庵室の場での父親合邦と玉手御前の台詞回しなど、2月に聴いた文楽での住大夫の浄瑠璃にダブって、合邦の我當と藤十郎の迫真の舞台の感動を更に増幅する。
この合邦庵室の場での、頭巾を被った玉手御前の花道の出から、悲劇の伏線を暗示するような決意と放心を綯交ぜにした藤十郎の芸は冴えていて、戸口に幽霊のように立ちすくみながら「かかさん、かかさん、ここあけて」・・・
父親を激怒の頂点に追い詰めて、自分を殺害させようとするまでの、激しい心の起伏をこれ程までに、迫真の演技で観客の心に叩き込める役者は、稀有に等しいと思う。
藤十郎の動きは激しいけれど、心の振幅は陰に籠もってもっと激しく渦巻いていて豊かで、それに、動きが実に優雅で美しい。
最後の、自分の肝の生血を鮑の貝に受ける為の一刃さえ何度も宙を泳がせて呼吸を整えるなど、随所に細心の心配りを払いながら演技をしていて、その計算し尽くされた芸の細かさにビックリする。
人間国宝で関西歌舞伎の至宝としての藤十郎の極めつけの玉手御前であることには間違いないであろうが、難を言えば、やはり舞台芸術であり演じる役者を観ながら鑑賞するので、藤十郎のイメージが即そのまま玉手御前のイメージにマッチするかのかどうかには、多少の疑問が残ると言わざるを得ないであろう。
2月に文雀の素晴らしい玉手御前を見て感激したが、いくら年を取っても姿形が変わっても文楽は人形が役を演じるので人形遣いには関係ないが、歌舞伎は良くも悪くも役者そのものが演じるので、そのイメージも重要な役割を果たすのである。
俊徳丸の三津五郎だが、限りなく抑制された優雅な演技が藤十郎の玉手御前と対照的で、主役然として何時も輝いている舞台姿には程遠い印象の舞台であるが、私には非常に新鮮な感じで興味深かった。
合邦の我當は、はまり役と言った感じで、出家して毒気を抜かれた好々爺が激情しながら玉手御前と対峙するあたりの心の揺れをみごとに演じていて、住大夫の浄瑠璃と相通じる台詞回しが心に迫ってきた。
実に風格があって上手いと思ったのは、秀太郎の誉田妻羽曳野で、玉手御前に対して一歩も引かない凛とした女丈夫ぶりは特筆もので、やはり、関西歌舞伎の大黒柱の風格であろうか、出るだけで舞台が引き締まる。
夫主税之助の養子・愛之助は、仁左衛門似の風格ながら一寸力み過ぎが気になったが、貴重な存在である。
藤十郎の息子達だが、翫雀の奴入平、扇雀の浅香姫とも本来の持ち役を地で行っている感じで、伸び伸びと演じていて、父藤十郎の舞台を支える重要な役回りだが、夫々が、父とは違った道に新境地を開いていくような予感を感じて興味深かった。
何と言っても、歌舞伎は、国立劇場の通し狂言スタイルの方が良い。
「天王寺万代池の場」や、大詰の「合邦庵室の場」などはしばしば舞台にかかるのでなじみであるが、通し狂言だと、冒頭から若くて美しい継母玉手御前が世継ぎの俊徳丸に迫る場があり、お家乗っ取りを策す妾腹の異母兄次郎丸(片岡進之介)などの悪巧みが展開されるなど話の筋が良く分かって非常に面白い。
心なしか空席が目立つが、関西歌舞伎の役者たちに、俊徳丸の三津五郎や、高安左衛門尉通俊の彦三郎たちの加わった非常に密度の高い意欲的な舞台が展開されていて楽しめる。
この歌舞伎だが、後妻に入った玉手御前が、兄弟の世継ぎ争いを治める為に自己犠牲を策して継子の命を助けると言う至高の愛と、若い継母が義理の息子を愛すると言う禁断の恋を描いた非常に錯綜した物語である。
筋の大半を継子に邪恋を仕掛ける玉手に脚光を当てて展開し、最後に、この禁断の恋は俊徳丸の命を助けんが為の偽りの策であったとどんでん返しとなるのだが、藤十郎は、本当に玉手御前が、俊徳丸に心底惚れ抜いていると言う心で演じているのであろう、愛の証として鮑の貝を死ぬまで傍においておくのだと言う。
現実的にも、ミイラがミイラ取りになると言う話以前に、虚実皮膜の世界で、かりそめの恋だと偽ってアプローチしても、次第に溺れこんで本当に心底惚れ込んでしまうと言うのが人間ではないであろうか。
俊徳丸とその許婚浅香姫(扇雀)の中に割って入って、凄い剣幕で浅香姫を追い回し蹴飛ばし、睨み付ける藤十郎玉手御前の鬼気迫る迫力は大変なもので、その嫉妬の炎に焼けつくして、俊徳丸に迫る邪恋が常軌を逸すれば逸するほど、合邦は、わが娘でありながら、激昂して、
娘が髪引っ掴み、ぐっと差し込む氷の切っ先・・・「憎うて憎うてどうもこうもたまらぬ故、十年以来蚤一匹殺さぬ手で現在の子を殺す・・・」断末魔の悲劇に突き進む。
山田庄一氏の演出が丸本重視なので、大詰の合邦庵室の場での父親合邦と玉手御前の台詞回しなど、2月に聴いた文楽での住大夫の浄瑠璃にダブって、合邦の我當と藤十郎の迫真の舞台の感動を更に増幅する。
この合邦庵室の場での、頭巾を被った玉手御前の花道の出から、悲劇の伏線を暗示するような決意と放心を綯交ぜにした藤十郎の芸は冴えていて、戸口に幽霊のように立ちすくみながら「かかさん、かかさん、ここあけて」・・・
父親を激怒の頂点に追い詰めて、自分を殺害させようとするまでの、激しい心の起伏をこれ程までに、迫真の演技で観客の心に叩き込める役者は、稀有に等しいと思う。
藤十郎の動きは激しいけれど、心の振幅は陰に籠もってもっと激しく渦巻いていて豊かで、それに、動きが実に優雅で美しい。
最後の、自分の肝の生血を鮑の貝に受ける為の一刃さえ何度も宙を泳がせて呼吸を整えるなど、随所に細心の心配りを払いながら演技をしていて、その計算し尽くされた芸の細かさにビックリする。
人間国宝で関西歌舞伎の至宝としての藤十郎の極めつけの玉手御前であることには間違いないであろうが、難を言えば、やはり舞台芸術であり演じる役者を観ながら鑑賞するので、藤十郎のイメージが即そのまま玉手御前のイメージにマッチするかのかどうかには、多少の疑問が残ると言わざるを得ないであろう。
2月に文雀の素晴らしい玉手御前を見て感激したが、いくら年を取っても姿形が変わっても文楽は人形が役を演じるので人形遣いには関係ないが、歌舞伎は良くも悪くも役者そのものが演じるので、そのイメージも重要な役割を果たすのである。
俊徳丸の三津五郎だが、限りなく抑制された優雅な演技が藤十郎の玉手御前と対照的で、主役然として何時も輝いている舞台姿には程遠い印象の舞台であるが、私には非常に新鮮な感じで興味深かった。
合邦の我當は、はまり役と言った感じで、出家して毒気を抜かれた好々爺が激情しながら玉手御前と対峙するあたりの心の揺れをみごとに演じていて、住大夫の浄瑠璃と相通じる台詞回しが心に迫ってきた。
実に風格があって上手いと思ったのは、秀太郎の誉田妻羽曳野で、玉手御前に対して一歩も引かない凛とした女丈夫ぶりは特筆もので、やはり、関西歌舞伎の大黒柱の風格であろうか、出るだけで舞台が引き締まる。
夫主税之助の養子・愛之助は、仁左衛門似の風格ながら一寸力み過ぎが気になったが、貴重な存在である。
藤十郎の息子達だが、翫雀の奴入平、扇雀の浅香姫とも本来の持ち役を地で行っている感じで、伸び伸びと演じていて、父藤十郎の舞台を支える重要な役回りだが、夫々が、父とは違った道に新境地を開いていくような予感を感じて興味深かった。
何と言っても、歌舞伎は、国立劇場の通し狂言スタイルの方が良い。