
紺地に白の鳳凰丸と木挽町「きょうげんづくし」歌舞伎座と染め抜かれた大きな櫓が正面玄関に掲げられ歌舞伎座の顔見世興行がスタートした。
10月の名古屋御園座に始まった顔見世興行が江戸にやってきて、12月の京都南座で年末の華やかさを見せるのだが、やはり、歌舞伎公演のシーズンの始まりを告げるのであるから、11月の歌舞伎座はサービス満点で、舞台も活気を呈していて面白い。
清元と囃子連中の華やかな楽の音に乗せて梅玉の三番叟と孝太郎の千歳の晴れやかな「種蒔三番叟」で昼の部の幕が開き、仁左衛門の御所五郎蔵の昼の部はこれでおしまいの挨拶で終わる。
「傾城反魂香」の「土佐将監閑居の場」は、吉右衛門の独壇場で、吃音があだで卑屈だった絵師が、自分を取り戻して師匠将監(歌六)に認められて男になって行くくだりを感動的に演じる。
人知れず修行を続け、腕がありながら認められない絵師浮世又平(吉右衛門)の姿は、幸田露伴の「五重塔」の「のっそり十兵衛」にダブルのだが、前半の冴えない田舎男から、師匠の役に立って認められたい一心になって、さらわれた「銀杏の前」を取り戻す危険な仕事を志願する所から転機が訪れる。
それまでは、師匠夫妻への挨拶や説明は、口達者な女房おとく(芝雀)がぺらぺら喋るのを横で小さくなって相槌を打っていただけだったのだが、このチャンスを逃せば先はないと思って、必死の形相になって自ら進み出て「お、お、お願い!」と涙ながらに訴えるが、先を越されて土佐の名字を得た弟弟子修理之助(錦之助)に命が下る。代わってくれと行く手を邪魔をして争うが、とうとう師匠に刀に手をかけられて、武功ではなく絵で功を立てよと諭され、自害する決意をする。
自分には絵の実力が十分にあり絵画への情熱が燃え滾っていることは百も承知でありながら、大津絵を描いて糊口を凌いでいる様では功を立てるチャンスもない。そんな又平が、おとくに促されて、この世の描き納めと、死を覚悟して手水鉢に精魂込めて自画像を描く。
水杯をしようとおとくが手水鉢に近付くと、先の自画像が石を突き抜けて反対側に現われている。放心状態で近付いて、移し絵に気付いた又平は「抜けた!」と狂喜する。
吃音の為に十分に自分の思いを伝えられないもどかしさに、手や口を交えて悲しくも必死になって大形に喋ろうともがく悲痛な姿。最初の言葉はとちるが、その後はそれとなく普通に言葉をつなぐ吉右衛門の台詞回しに工夫があり、それだけに又平の切ない心の葛藤が響いてくる。
最初の卑屈な出から、修羅場の師匠との葛藤と自害への思い、そして、意気揚々として大頭の舞を一指し舞って下の醍醐へ向かう最後までの、ほんのわずかな時間帯だが、緩急自在、中身の詰まった大きく振幅の激しい心の動きを、吉右衛門は、実に丁寧に感動的に演じていた。
前に観た吉右衛門の舞台では、おとくを雀右衛門が実に味のある素晴らしい女房ぶりで演じていたが、今回は息子の芝雀が演じていて、若くて溌剌としている分、瑞々しさが新鮮で、やはり蛙の子は蛙と言うか、中々吉右衛門とも呼吸の合った楽しい舞台を見せてくれた。
歌六の格調のある将監、ピッタリと言うか実に上手い将監北の方の吉之丞。
控え目だが品があり存在感のある錦之助、一寸出だが、爽やかで凛々しい狩野雅楽之助の歌昇と言った脇役も揃っていて、非常に素晴らしい舞台を見せてくれた。
「素襖落」は、幸四郎の太郎冠者、魁春の姫御寮、左團次の大名某、高麗蔵の次郎冠者、金吾の三郎吾、彌十郎の鈍太郎。
幸四郎の太郎冠者が、極めて真面目に惚けた味を出していて面白い。
どうしても、幸四郎の舞台については、ラマンチャの男やオセロー、王様と私等と言った歌舞伎とは違った舞台での印象が結構私には強くて、どちらかといえば、欧米風の理知的で理詰めの世界から考えてしまうのだが、やはり、流石に大役者で、このような狂言の世界においても、日本的な滑稽さとウイットに富んだおかしみを、さらりと演じていて共感を感じて面白かった。
最後の「御所五郎蔵」だが、仁左衛門の粋な(?)男伊達が目を引く舞台。
私自身、このような切った張ったの任侠の世界そのものに興味がないので、何故、男伊達が歌舞伎で人気が高いのか良く分からない。
火事と喧嘩は江戸の華と言うのだが、この感覚自体理解に苦しむと言うと、そんな野暮な話をする奴は、歌舞伎を見るなと言われる。
近松の心中ものは好きになれないと言ったお嬢さんがいたが、人それぞれ、そんな所かも知れないと思う。
しかし、舞台としては、最初の両花道の出だとか、最後の五郎蔵が、自分を捨てた傾城皐月(福助)だと思って、主筋の傾城逢州(孝太郎)を殺害する錦絵のような色彩豊かで美しい舞台だとか、色々工夫があって視覚的には良く出来た舞台だとは思っている。
仁左衛門は、中々颯爽としていて良い味を出していたが、星影土右衛門の左團次も、特に巧まずして敵役の憎らしさを滲み出させるあたりは年季のなせる技であろうか。
両者の喧嘩の仲裁に入る甲屋与五郎の菊五郎だが、たったこれだけの一寸出で、舞台をきゅっと引き締めるのは人間国宝のなせる格調と風格であろうか。
陰のある福助の傾城、威厳を示した孝太郎の傾城、夫々に、場の雰囲気を盛り立てていてそれなりに魅せてくれた。
とにかく、豪華なアラカルト芝居の連続で、30分弱の休憩だけで、夜の部につながると消化不良を起こしそうである。
10月の名古屋御園座に始まった顔見世興行が江戸にやってきて、12月の京都南座で年末の華やかさを見せるのだが、やはり、歌舞伎公演のシーズンの始まりを告げるのであるから、11月の歌舞伎座はサービス満点で、舞台も活気を呈していて面白い。
清元と囃子連中の華やかな楽の音に乗せて梅玉の三番叟と孝太郎の千歳の晴れやかな「種蒔三番叟」で昼の部の幕が開き、仁左衛門の御所五郎蔵の昼の部はこれでおしまいの挨拶で終わる。
「傾城反魂香」の「土佐将監閑居の場」は、吉右衛門の独壇場で、吃音があだで卑屈だった絵師が、自分を取り戻して師匠将監(歌六)に認められて男になって行くくだりを感動的に演じる。
人知れず修行を続け、腕がありながら認められない絵師浮世又平(吉右衛門)の姿は、幸田露伴の「五重塔」の「のっそり十兵衛」にダブルのだが、前半の冴えない田舎男から、師匠の役に立って認められたい一心になって、さらわれた「銀杏の前」を取り戻す危険な仕事を志願する所から転機が訪れる。
それまでは、師匠夫妻への挨拶や説明は、口達者な女房おとく(芝雀)がぺらぺら喋るのを横で小さくなって相槌を打っていただけだったのだが、このチャンスを逃せば先はないと思って、必死の形相になって自ら進み出て「お、お、お願い!」と涙ながらに訴えるが、先を越されて土佐の名字を得た弟弟子修理之助(錦之助)に命が下る。代わってくれと行く手を邪魔をして争うが、とうとう師匠に刀に手をかけられて、武功ではなく絵で功を立てよと諭され、自害する決意をする。
自分には絵の実力が十分にあり絵画への情熱が燃え滾っていることは百も承知でありながら、大津絵を描いて糊口を凌いでいる様では功を立てるチャンスもない。そんな又平が、おとくに促されて、この世の描き納めと、死を覚悟して手水鉢に精魂込めて自画像を描く。
水杯をしようとおとくが手水鉢に近付くと、先の自画像が石を突き抜けて反対側に現われている。放心状態で近付いて、移し絵に気付いた又平は「抜けた!」と狂喜する。
吃音の為に十分に自分の思いを伝えられないもどかしさに、手や口を交えて悲しくも必死になって大形に喋ろうともがく悲痛な姿。最初の言葉はとちるが、その後はそれとなく普通に言葉をつなぐ吉右衛門の台詞回しに工夫があり、それだけに又平の切ない心の葛藤が響いてくる。
最初の卑屈な出から、修羅場の師匠との葛藤と自害への思い、そして、意気揚々として大頭の舞を一指し舞って下の醍醐へ向かう最後までの、ほんのわずかな時間帯だが、緩急自在、中身の詰まった大きく振幅の激しい心の動きを、吉右衛門は、実に丁寧に感動的に演じていた。
前に観た吉右衛門の舞台では、おとくを雀右衛門が実に味のある素晴らしい女房ぶりで演じていたが、今回は息子の芝雀が演じていて、若くて溌剌としている分、瑞々しさが新鮮で、やはり蛙の子は蛙と言うか、中々吉右衛門とも呼吸の合った楽しい舞台を見せてくれた。
歌六の格調のある将監、ピッタリと言うか実に上手い将監北の方の吉之丞。
控え目だが品があり存在感のある錦之助、一寸出だが、爽やかで凛々しい狩野雅楽之助の歌昇と言った脇役も揃っていて、非常に素晴らしい舞台を見せてくれた。
「素襖落」は、幸四郎の太郎冠者、魁春の姫御寮、左團次の大名某、高麗蔵の次郎冠者、金吾の三郎吾、彌十郎の鈍太郎。
幸四郎の太郎冠者が、極めて真面目に惚けた味を出していて面白い。
どうしても、幸四郎の舞台については、ラマンチャの男やオセロー、王様と私等と言った歌舞伎とは違った舞台での印象が結構私には強くて、どちらかといえば、欧米風の理知的で理詰めの世界から考えてしまうのだが、やはり、流石に大役者で、このような狂言の世界においても、日本的な滑稽さとウイットに富んだおかしみを、さらりと演じていて共感を感じて面白かった。
最後の「御所五郎蔵」だが、仁左衛門の粋な(?)男伊達が目を引く舞台。
私自身、このような切った張ったの任侠の世界そのものに興味がないので、何故、男伊達が歌舞伎で人気が高いのか良く分からない。
火事と喧嘩は江戸の華と言うのだが、この感覚自体理解に苦しむと言うと、そんな野暮な話をする奴は、歌舞伎を見るなと言われる。
近松の心中ものは好きになれないと言ったお嬢さんがいたが、人それぞれ、そんな所かも知れないと思う。
しかし、舞台としては、最初の両花道の出だとか、最後の五郎蔵が、自分を捨てた傾城皐月(福助)だと思って、主筋の傾城逢州(孝太郎)を殺害する錦絵のような色彩豊かで美しい舞台だとか、色々工夫があって視覚的には良く出来た舞台だとは思っている。
仁左衛門は、中々颯爽としていて良い味を出していたが、星影土右衛門の左團次も、特に巧まずして敵役の憎らしさを滲み出させるあたりは年季のなせる技であろうか。
両者の喧嘩の仲裁に入る甲屋与五郎の菊五郎だが、たったこれだけの一寸出で、舞台をきゅっと引き締めるのは人間国宝のなせる格調と風格であろうか。
陰のある福助の傾城、威厳を示した孝太郎の傾城、夫々に、場の雰囲気を盛り立てていてそれなりに魅せてくれた。
とにかく、豪華なアラカルト芝居の連続で、30分弱の休憩だけで、夜の部につながると消化不良を起こしそうである。