
蜷川演出の舞台が、ギリシャ悲劇をアテネでやり、シェイクスピア戯曲をロンドンでやって、本場の聴衆を感動させ熱狂させるのは、やはり、蜷川の人間の本質を追求しようとする普遍性のような気がする。
シェイクスピア戯曲の本拠地・ロイヤル・ナショナル・シアターで「マクベス」を、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの当時のロンドンのメイン劇場・バービカンで「テンペスト」を演じて、ロンドンの聴衆の拍手喝さいを浴びるのは、至難の業、大変なことをしでかしていたのである。
国際的な指揮者・小林研一郎氏が言っていたが、ロンドンの聴衆は一番怖い、聴いてやろうじゃないかと言って待ち構えている、と言う。悪ければ、何時でも叩き落してやると言うことである。
栗原小巻のマクベス夫人が、ロンドンであれだけ高く評価され認められたのは、蜷川演出のみならず、栗原の女優としての研鑽と卓越した芸術性の賜物であろう。
松本幸四郎が、「王様と私」をサドラーウエールズ劇場で演じ、華麗な舞台で聴衆を引き付けていたが、ユル・ブリンナーの亡霊が余りにも強くて、ロンドン公演では恐らく孤独であっただろうと思う。(蛇足ながら、晩年のユル・ブリンナーの王様と私の舞台をブロードウエイで観たが、幸四郎の方が遥かに輝いていた気がした。)
それだけ、演劇の本場、英国の舞台芸術を見る目は厳しく、ここで喝采を浴びるのは大変なことなのである。
6代目菊五郎が、ロンドンで鏡獅子を演じて聴衆を唸らせたいと熱望しながら、船旅4ヶ月の為諦めたと言う、その思いは良く分かる。
余談ながら、コベントガーデンのロイヤル・オペラに通っていて、ロンドンのオペラは、流石シェイクスピアの国だけに違う、演劇性があり役者としても上手い、と感じたことがある。イギリス人オペラ歌手(多くはウエールズ人)には、舞台俳優としての素質がきわめて濃厚であるのみならず、演出にも、聴衆の要求にも、舞台芸術としての面白さが求められるからであろうと思った。歌が上手いだけの大根オペラ歌手は嫌われると言うことであろうか。ギネス・ジョーンズやトマス・アレン等は、正に秀逸。
DVDで、ロイヤル・オペラとメトロポリタン・オペラを見比べれば、何となくそれが分かる。
もう一つ、ハリウッドの有名な映画俳優の相当多くはイギリス出身・シェイクスピア役者出身者であることを付記しておきたい。
その蜷川が、著書「千のナイフ、千の目」で、1991年グローブ座の準芸術監督になる話が出た時、日本のシェイクスピア学者がロンドンに抗議レターを出したのを英人が笑っていた、と書いている。
蜷川への日本での評論家の悪評は可なり辛らつなようだが、舞台芸術での日本人の世界的芸術家に対する評価については、何時も疑問に思っている。
極端な例が、ウイーン国立歌劇場監督の小澤征爾に対する日本の評価。
私は何十年も前に、フィラデルフィアで聴いたボストン交響楽団とのブラームスに涙してフアンになったのでバイアスが掛かっているが、頂点に上り詰めた小澤に対して、いまだに、全くオペラをクラシック音楽を分からない輩(これが結構、その道の権威者とか有名音楽評論家であったり日本の音楽エスタブリッシュメント)が、悪意に満ちたとしか思えない評論や物言いをしている。
小澤のイギリスでの評価の一例を紹介しよう。
ロイヤル・フェスティバル・ホールでのロンドン交響楽団の演奏会でのこと。当日、小澤がボストンから来られなくなって代役指揮者で演奏会を行うことになった。ソリストは、世界的チェリスト・ロストロポービッチ。
演奏会当日、チケット捥ぎりの係員が、入場者の一人一人に、詫びながら「マエストロ・オザワが来られません。ご希望なら払い戻しいたしますが如何でしょうか?」と聴いていた。50センチしか離れていない後の家内にも言っていた。
指揮者やソリストの変更は日常茶飯事でオペラやクラシック・コンサートの宿命、5年以上ロンドンの劇場に通ったが、後にも先にも、こんな光景は見たことがない。
打っても打たなくても嬉々としてイチローや松井の事を放送しているNHKのアナウンサーを見ていると、舞台芸術の世界は、何故、こんなに陰湿なのかと思うが、如何であろうか。
余談ながら、実際にあった面白い話。
コバケンが、ある日、演奏会当日プログラムを変えて演奏した。
翌日のコンサート評には、元のプログラムの曲の評が出ていた。
評論家先生、コンサートに来ずに、あてずっぽうに評論したのである。
シェイクスピア戯曲の本拠地・ロイヤル・ナショナル・シアターで「マクベス」を、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの当時のロンドンのメイン劇場・バービカンで「テンペスト」を演じて、ロンドンの聴衆の拍手喝さいを浴びるのは、至難の業、大変なことをしでかしていたのである。
国際的な指揮者・小林研一郎氏が言っていたが、ロンドンの聴衆は一番怖い、聴いてやろうじゃないかと言って待ち構えている、と言う。悪ければ、何時でも叩き落してやると言うことである。
栗原小巻のマクベス夫人が、ロンドンであれだけ高く評価され認められたのは、蜷川演出のみならず、栗原の女優としての研鑽と卓越した芸術性の賜物であろう。
松本幸四郎が、「王様と私」をサドラーウエールズ劇場で演じ、華麗な舞台で聴衆を引き付けていたが、ユル・ブリンナーの亡霊が余りにも強くて、ロンドン公演では恐らく孤独であっただろうと思う。(蛇足ながら、晩年のユル・ブリンナーの王様と私の舞台をブロードウエイで観たが、幸四郎の方が遥かに輝いていた気がした。)
それだけ、演劇の本場、英国の舞台芸術を見る目は厳しく、ここで喝采を浴びるのは大変なことなのである。
6代目菊五郎が、ロンドンで鏡獅子を演じて聴衆を唸らせたいと熱望しながら、船旅4ヶ月の為諦めたと言う、その思いは良く分かる。
余談ながら、コベントガーデンのロイヤル・オペラに通っていて、ロンドンのオペラは、流石シェイクスピアの国だけに違う、演劇性があり役者としても上手い、と感じたことがある。イギリス人オペラ歌手(多くはウエールズ人)には、舞台俳優としての素質がきわめて濃厚であるのみならず、演出にも、聴衆の要求にも、舞台芸術としての面白さが求められるからであろうと思った。歌が上手いだけの大根オペラ歌手は嫌われると言うことであろうか。ギネス・ジョーンズやトマス・アレン等は、正に秀逸。
DVDで、ロイヤル・オペラとメトロポリタン・オペラを見比べれば、何となくそれが分かる。
もう一つ、ハリウッドの有名な映画俳優の相当多くはイギリス出身・シェイクスピア役者出身者であることを付記しておきたい。
その蜷川が、著書「千のナイフ、千の目」で、1991年グローブ座の準芸術監督になる話が出た時、日本のシェイクスピア学者がロンドンに抗議レターを出したのを英人が笑っていた、と書いている。
蜷川への日本での評論家の悪評は可なり辛らつなようだが、舞台芸術での日本人の世界的芸術家に対する評価については、何時も疑問に思っている。
極端な例が、ウイーン国立歌劇場監督の小澤征爾に対する日本の評価。
私は何十年も前に、フィラデルフィアで聴いたボストン交響楽団とのブラームスに涙してフアンになったのでバイアスが掛かっているが、頂点に上り詰めた小澤に対して、いまだに、全くオペラをクラシック音楽を分からない輩(これが結構、その道の権威者とか有名音楽評論家であったり日本の音楽エスタブリッシュメント)が、悪意に満ちたとしか思えない評論や物言いをしている。
小澤のイギリスでの評価の一例を紹介しよう。
ロイヤル・フェスティバル・ホールでのロンドン交響楽団の演奏会でのこと。当日、小澤がボストンから来られなくなって代役指揮者で演奏会を行うことになった。ソリストは、世界的チェリスト・ロストロポービッチ。
演奏会当日、チケット捥ぎりの係員が、入場者の一人一人に、詫びながら「マエストロ・オザワが来られません。ご希望なら払い戻しいたしますが如何でしょうか?」と聴いていた。50センチしか離れていない後の家内にも言っていた。
指揮者やソリストの変更は日常茶飯事でオペラやクラシック・コンサートの宿命、5年以上ロンドンの劇場に通ったが、後にも先にも、こんな光景は見たことがない。
打っても打たなくても嬉々としてイチローや松井の事を放送しているNHKのアナウンサーを見ていると、舞台芸術の世界は、何故、こんなに陰湿なのかと思うが、如何であろうか。
余談ながら、実際にあった面白い話。
コバケンが、ある日、演奏会当日プログラムを変えて演奏した。
翌日のコンサート評には、元のプログラムの曲の評が出ていた。
評論家先生、コンサートに来ずに、あてずっぽうに評論したのである。