
この口絵写真は、ロダンの「地獄の門」
文化会館でのオペラ鑑賞の合間に、隣の西洋美術館で、撮った写真で、最初に見たのは、この像だが、世界に三つしかないと言われていた(実際は7つで静岡にもある)ので、留学中にフィラデルフィアで、その後のヨーロッパ旅行でパリで見た時には、いたく感激した。
それに、上部中央に、「考える人」があって、鏤められている人間の群像の多くが、「パオロとフランチェスカ」や「ウゴリーノと息子たち」を含めて、ロダンの有名な作品で、物語を読んでいるような鑑賞の楽しみがあって、見飽きなかったのである。
ダンテの「神曲」地獄篇第3歌の冒頭に登場する「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記さた地獄への入口の門に想を得てロダンが制作した巨大な彫刻だが、最近、ダンテの「神曲」地獄篇を読み、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」をビデオ聴講して、少しずつ、地獄に興味を持ち始めた。
このダンテの「神曲」地獄篇第3歌の詩だが、岩波の山川丙三郎訳を借りると、
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛、我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
三位一体の神が、正義を守るために、地獄をお創りになり、この地獄への門を通れば、憂いの都、永遠の苦患、滅亡の民、(平川訳だと、憂いの国、永劫の呵責、破滅の人に伍す、)の世界に入ることとなり、一切出てこれなくなる。この門を潜る者は、(今道先生の説明では、)一切の希望は、ここへ置いて行け。と言うことである。
私は、この一生涯脱出不可能だと言う話で、ベネチアのため息橋を思い出した。サン・マルコ広場に面して建っている壮麗なドゥカーレ宮殿は、細い運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれているのだが、この小さな渡り橋のことで、この橋を渡って牢獄に入った罪人は、一生涯太陽を拝めないと言う悲しい運命の橋なのである。(右手の暗い渡り橋)

ミケランジェロが、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描いたフレスコ画「最後の審判」を描くのに、この絵の右手および下層の地獄絵の構想に、ダンテの地獄篇を借用している。
3回ほど、この絵の前に立って眺めていたが、凄い作品である。
右下の水面に浮かんだ舟の上で、三途の川の渡し守カロン(下記絵の下方キリスト像の右上)が、地獄行きの死者たちに櫂を振り上げている絵が描かれているが、ダンテによると、このアケローン川を渡った者たちは、この後、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達した地獄の世界、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される地獄へ、罪の軽重に応じて各階層へと振り分けられて行く。
最も重い罪は、裏切を行った者で、弟アベルを殺したカイン、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダと言った者で、永遠に氷漬けとなっている。と言う。

ダンテの地獄にも、日本の地獄のように三途の川が流れていると言うのも興味深い。
日本にも凄い地獄絵が沢山描かれていて、地獄へ落ちる恐ろしさを説いているが、その代わり、狂言や落語などで、笑い飛ばす話もあって面白い。
落語では、結構、地獄話があるようだが、面白いのは、やはり、米朝の「地獄八景亡者戯」。鯖を食って死んだ男が、三途の川、六道の辻、賽の河原、閻魔庁へと、しかし、今様庶民旅行とも言うべき全くのバカ話で、、閻魔庁での裁き、後半は、地獄に落とされた山伏・軽業師・歯抜き師・医者の四人がそれぞれの特技を生かして地獄の責めを逃れると言う噺。とにかく、あほらしいが面白い。
また、落語「死ぬなら今」は、閻魔庁の鬼たちが地獄入りの死者から賄賂を取って天国行きに変えるなど汚職が蔓延し、その悪事が露見して、地獄の鬼たちお偉方は、すべて、天国にしょっ引かれて、地獄は空っぽ。「死ぬなら今」だと言う噺。
狂言では、仏教信仰の発展で極楽へ行く死者が多くなって、財政的に困窮を極めた閻魔大王が、自ら客引きのために、六道の辻に出かけて死者を待つ話で、閻魔大王が、連れて来た博打打ちの亡者に負けると言うのが「博打十王」で、その死者が八尾の男で、八尾の鬼である閻魔大王が、昔は、八尾の地蔵と良い仲であった艶話を思い出して涙ぐみ天国へ送ると言う話、いずれも、今の官庁のようで締まらない話である。
厳粛高尚なダンテの「神曲」の話に、狂言や落語の笑話で気が引けるのだが、あまりにも落差が激しくて、次元の違いが気になるのだが、普通の人間には、特別な事情がない限り、どちらであっても、気にはならない話であろう。
Youetubeあればこそであろうが、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」を聴いた後で、米朝の「地獄八景亡者戯」を聴いて笑い、ルネサンス絵画集を開いて、ミケランジェロの「最後の審判」を眺めながら、ダンテの「神曲」の影響を受けた宗教画を観ていて、結構、楽しめているのであるから、私も、まだ、あの世へは、大分間があるのであろうと、変な安心をしている。
文化会館でのオペラ鑑賞の合間に、隣の西洋美術館で、撮った写真で、最初に見たのは、この像だが、世界に三つしかないと言われていた(実際は7つで静岡にもある)ので、留学中にフィラデルフィアで、その後のヨーロッパ旅行でパリで見た時には、いたく感激した。
それに、上部中央に、「考える人」があって、鏤められている人間の群像の多くが、「パオロとフランチェスカ」や「ウゴリーノと息子たち」を含めて、ロダンの有名な作品で、物語を読んでいるような鑑賞の楽しみがあって、見飽きなかったのである。
ダンテの「神曲」地獄篇第3歌の冒頭に登場する「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記さた地獄への入口の門に想を得てロダンが制作した巨大な彫刻だが、最近、ダンテの「神曲」地獄篇を読み、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」をビデオ聴講して、少しずつ、地獄に興味を持ち始めた。
このダンテの「神曲」地獄篇第3歌の詩だが、岩波の山川丙三郎訳を借りると、
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛、我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
三位一体の神が、正義を守るために、地獄をお創りになり、この地獄への門を通れば、憂いの都、永遠の苦患、滅亡の民、(平川訳だと、憂いの国、永劫の呵責、破滅の人に伍す、)の世界に入ることとなり、一切出てこれなくなる。この門を潜る者は、(今道先生の説明では、)一切の希望は、ここへ置いて行け。と言うことである。
私は、この一生涯脱出不可能だと言う話で、ベネチアのため息橋を思い出した。サン・マルコ広場に面して建っている壮麗なドゥカーレ宮殿は、細い運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれているのだが、この小さな渡り橋のことで、この橋を渡って牢獄に入った罪人は、一生涯太陽を拝めないと言う悲しい運命の橋なのである。(右手の暗い渡り橋)

ミケランジェロが、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描いたフレスコ画「最後の審判」を描くのに、この絵の右手および下層の地獄絵の構想に、ダンテの地獄篇を借用している。
3回ほど、この絵の前に立って眺めていたが、凄い作品である。
右下の水面に浮かんだ舟の上で、三途の川の渡し守カロン(下記絵の下方キリスト像の右上)が、地獄行きの死者たちに櫂を振り上げている絵が描かれているが、ダンテによると、このアケローン川を渡った者たちは、この後、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達した地獄の世界、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される地獄へ、罪の軽重に応じて各階層へと振り分けられて行く。
最も重い罪は、裏切を行った者で、弟アベルを殺したカイン、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダと言った者で、永遠に氷漬けとなっている。と言う。

ダンテの地獄にも、日本の地獄のように三途の川が流れていると言うのも興味深い。
日本にも凄い地獄絵が沢山描かれていて、地獄へ落ちる恐ろしさを説いているが、その代わり、狂言や落語などで、笑い飛ばす話もあって面白い。
落語では、結構、地獄話があるようだが、面白いのは、やはり、米朝の「地獄八景亡者戯」。鯖を食って死んだ男が、三途の川、六道の辻、賽の河原、閻魔庁へと、しかし、今様庶民旅行とも言うべき全くのバカ話で、、閻魔庁での裁き、後半は、地獄に落とされた山伏・軽業師・歯抜き師・医者の四人がそれぞれの特技を生かして地獄の責めを逃れると言う噺。とにかく、あほらしいが面白い。
また、落語「死ぬなら今」は、閻魔庁の鬼たちが地獄入りの死者から賄賂を取って天国行きに変えるなど汚職が蔓延し、その悪事が露見して、地獄の鬼たちお偉方は、すべて、天国にしょっ引かれて、地獄は空っぽ。「死ぬなら今」だと言う噺。
狂言では、仏教信仰の発展で極楽へ行く死者が多くなって、財政的に困窮を極めた閻魔大王が、自ら客引きのために、六道の辻に出かけて死者を待つ話で、閻魔大王が、連れて来た博打打ちの亡者に負けると言うのが「博打十王」で、その死者が八尾の男で、八尾の鬼である閻魔大王が、昔は、八尾の地蔵と良い仲であった艶話を思い出して涙ぐみ天国へ送ると言う話、いずれも、今の官庁のようで締まらない話である。
厳粛高尚なダンテの「神曲」の話に、狂言や落語の笑話で気が引けるのだが、あまりにも落差が激しくて、次元の違いが気になるのだが、普通の人間には、特別な事情がない限り、どちらであっても、気にはならない話であろう。
Youetubeあればこそであろうが、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」を聴いた後で、米朝の「地獄八景亡者戯」を聴いて笑い、ルネサンス絵画集を開いて、ミケランジェロの「最後の審判」を眺めながら、ダンテの「神曲」の影響を受けた宗教画を観ていて、結構、楽しめているのであるから、私も、まだ、あの世へは、大分間があるのであろうと、変な安心をしている。