熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

八月納涼歌舞伎・・・三津五郎と福助の「吉原狐」

2006年08月13日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   日本の歴史は、教科書や学術書を読んで学んだ以外は、日本美術関連で勉強したことぐらいで、歴史小説や剣豪ものは勿論小説等も読んだこともないので、この「吉原狐」の作者村上元三にも馴染みはない。
   外国ものの歴史小説は読むこともあり、映画やテレビでは結構日本の歴史ものを楽しむのだが、不思議なもので、その方面の読書の習慣がないと、吉川栄治や司馬遼太郎さえ縁がなくなってしまう。
   勿論、こんなことは観劇とは何の関係もないことかもしれないが、この頃、日本の小説を読んでこなかったことが、案外、人生の機微や人の触れ合いの微妙な感触などに感受性が不足して、歌舞伎を観ていても十分に理解出来ていないのではないかと反省している。

   この「吉原狐」は、吉原随一の売れっ子でありながら早とちり故に失敗が多く落ち目の男に惚れてしまう泉屋芸者おきち(福助)を中心に、枯れて人生を達観したようなおきちの父親三五郎(三津五郎)や仲働きお杉(扇雀)、モラルに欠ける旗本貝塚采女(染五郎T)等を巻き込みながら描かれる、ある時期の江戸の街角の人情劇。

   おきちは、年季開けの花魁誰ヶ袖(孝太郎)を父の良い人と勘違いして纏めようとし、一方父親の方は実質的な妻お杉との関係を言い出せなくて巻き起こす悲喜劇。公金の使い込みがばれて手配書が回って駆け込んできた采女にゾッコン入れ込むが、直ぐに飽きてしまって巻き起こす刃傷沙汰。
   父親とのしっとりとした父娘の会話や最後には寄り添いながら朝湯に向かう二人の晴れやかな道行等、おきちの巻き起こすどたばた騒動が激しければ激しいほど余韻を残して清清しい。

   とにかく、この気風が良くて威勢の良い吉原芸者を福助は、胸の透くような小気味の良いテンポで演じながら、早とちりで惚れっぽい、しかし、しっとりとした何とも言えない人情味豊かな江戸女を、実に、巧みに演じていて素晴らしい。

   ビックリしたのは、女形など殆ど経験したことがないと言う橋之助の小松屋芸者おえんで、見方によっては、福助より遥かにしっとりとした美人で良い女。
   舞台で、実の兄福助のおきちと派手な喧嘩を演じて、実に、面白くて楽しいのだが、おきちに突き飛ばされて転げるところ等、受け身の構えで、それに、裾が割れるあたりは、やはり、立ち役の橋之助である。

   一線を引いてひっそりと裏町に住む好々爺然とした父親三五郎の三津五郎は流石に上手い。福助とのしんみりとした掛け合いなど秀逸である。それに、自暴自棄になった采女を自分の生き様を語りながら説得するが心に響く。
   第一部のたのきゅうもそうだが、とにかく芸域が広くて、それに、何でも上手くやりこなす。
   私が、最初に感激したのは蜷川の樋口可南子との舞台「近松心中物語」であるが、功名が辻での明智光秀も素晴らしかったし、年末の山田洋次監督の「武士の一分」も楽しみである。

   扇雀のお杉だが、苦労ばかりで表舞台に立てない女の泣き笑いを、上手く演じているが、これは、やはり大阪女に近い故であろうか。
   最近、歌舞伎座での出番が増えているようだが、色々な役を演じながら、中々、ユニークな役作りで、脇役ながら存在感を増しているような気がする。
   染五郎の旗本貝塚采女は、いわば、地で行っている様な役柄で、存在感十分。

   ところで、この「吉原狐」は、先代勘三郎の芸者舞台を見て村上元三が創作した歌舞伎で、三五郎は、先代の幸四郎だったと言う。
   45年も前の初演で、今回は2回目だと言うから、イメージが湧かないが、所詮時代が移り変わっていて、演出も演技も変わってしかるべきであるが、長い間再演されなかったのが面白い。
   
   
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