
秀山祭の目玉の一つは、吉右衛門が南方十次兵衛を演じる「双蝶々曲輪日記」の「引窓」で、親子兄弟の愛情を描いた、今でも新鮮な感動を呼び起こす素晴らしい歌舞伎である。
訳ありで人を殺めた大関・濡髪長五郎(富十郎)が、暇乞いに実母お幸(吉之丞)を訪れる。
後妻に入ったお幸の義理の息子南方十次兵衛が亡父の跡を継いで代官に任命されたその日、濡髪の捕縛を命じられる。
自宅に濡髪がいることを十次兵衛は気付くが、ことの次第を知ったお幸と女房お早(芝雀)が必死に庇うのでいぶかるが、5歳で養子に出された自分の異母兄弟であることを知る。
捕縛されることを願う濡髪を説得して、放生会にかこつけて落ち延びさせる。
この「引窓」は、昨年十月に歌舞伎座で演じられて、このブログの2005年10月10日に書いたのだが、十次兵衛が菊五郎、濡髪が左團次、お幸が田之助、お早が魁春で、これも非常に感動的な舞台であった。
4年ほど前に、国立劇場で、吉右衛門が濡髪で、富十郎が十次兵衛を逆に演じた公演があったようだが、今回の公演を観て興味を感じた。
代官に任命されて帰って来る十次兵衛の登場が面白い。町人であったのが急に父親の跡を継いで代官に任命されたのであるから、羽織袴も刀も、ただ今支給されたばかりの新品で、一張羅を初めて着て帰って来たので身についていおらず至ってぎこちない。
濡髪を兄弟の仇と狙う同輩の侍2人を従えて帰ってくる道中も、町人の癖が直らずに揉み手スタイル。
門口で、鬢に唾をつけて威儀を正して、「ただ今立ち帰った」と大仰に格好をつけて入る吉右衛門、これからの武士と町人を行き来する緩急自在の演技が筋を味わい深くしている。
この十次兵衛だが、元々立派な武士でありながら、父の死後生活が荒んで色町通いでその時遊女だった都と結婚しこれが今の女房お早、やがて改心して代官の任命を受けるのだが、人生酸いも辛いも知り尽くしており、この苦労人としての十次兵衛が、義母の純愛に感動して、折角得た自分の栄達を棒に振ってでも異母兄弟を助けて逃がそうとする。
義母が、鳥が粟を一粒一粒拾い集めて貯めたような永代供養の為の金子を一枚一枚並べながら、十次兵衛にお尋ね者濡髪の人相書きを売ってくれと伏し拝むのを見て、すべてを悟った十次兵衛は、刀を投げ出し「両腰差せば南方十次兵衛、丸腰なれば今までどおりの南与平衛、相変わらずの八幡の町人」と言って人相書きを渡す。
探索の為に出かけようとして、二階に隠れている濡髪に聞こえるように、
「おおかた、河内へ越える抜け道は、狐川を左に取り、右へ渡って山越しに、サ右に渡って・・・山越にィ・・・あぁいゃ、めったにそうは参りますまい。」と逃げ道を教えて家を出て行く。
大詰めの、放生会に事寄せて濡髪を逃がす十次兵衛の台詞が切々と胸に迫る。
吉右衛門の人情の機微に感動する熱いヒューマニズムが迸り出るような素晴らしい演技が胸を打つ。
富十郎の濡髪は堂々とした威丈夫で重厚。囚われの身を覚悟しているのだが、暇乞いに来ていながらそれを言い出せない心の葛藤、それに、母親の盲目に近い愛情と義兄弟夫婦の深い思いやりに感動して揺れ動く心の襞を、僅かな身体の動きと顔の表情、そして、台詞に籠めて表現していて心憎いほど上手い。
吉之丞だが、このお幸を襲名の時に演じた記念すべき役であり播磨屋の重要な脇役でもあり、流石に上手い。
5歳の時に分かれた吾が子濡髪に、罪の意識と錯綜して盲目的な愛情を注いで助けたい一心だが、濡髪に吾が子を助ける為に義理の吾が子を罪に陥れるのは義理が立たないのではないかと説得されて正気に返って濡髪を引窓の紐で縛る。この決然とした心の触れなど、全編を通じて極めて重要な心理描写を実に感動的に演じている。
お早の芝雀だが、初々しい。元色町の遊女だと言う色気と、町人の女房と言う落ち着きを、武士の妻になった喜びとを交えて実に初々しく演じている。
母親思い一徹で、主人に適わぬ口答えをしながらも右往左往するが、引窓を明け下げする機転など一幅の清涼剤である。
罪を憎んで人を憎まずと言う言葉がある。
殺生を戒める仏教の放生会、旧暦の8月15日には生き物を放つという法会である。
実力・人気共に最高の大関・濡髪だが、自分の贔屓筋の若旦那とその恋人を救う為に、四人の乱暴者の侍を殺して、お尋ね者になってしまった。
動物だって放してやるのに、何故、濡髪を逃がしてはならないのかと言う庶民の気持ちが根底にある。
人間として生まれて来た以上、色々な運命に遭遇して、悲しい時も嬉しい時も心の底から迸り出るような情に揺り動かされて、泣き笑いの人生を生きているが、この歌舞伎は、善意ばかりの人々の良心の塊のような心の触れ合いの世界である。
竹やぶの多い八幡の明り取り・引窓を小道具にして、その開閉によって月の光の輝きに託して夜昼を入れ替えて人間ドラマを作り上げる、なんと乙な芸術であることか。
丁度先日は中秋の名月が美しかった。ヒグラシがまだ激しく鳴いているが、少し冷気を含んだ秋の夜風に虫の声が清清しい。
萩の花が咲き乱れている。もう、秋である。
訳ありで人を殺めた大関・濡髪長五郎(富十郎)が、暇乞いに実母お幸(吉之丞)を訪れる。
後妻に入ったお幸の義理の息子南方十次兵衛が亡父の跡を継いで代官に任命されたその日、濡髪の捕縛を命じられる。
自宅に濡髪がいることを十次兵衛は気付くが、ことの次第を知ったお幸と女房お早(芝雀)が必死に庇うのでいぶかるが、5歳で養子に出された自分の異母兄弟であることを知る。
捕縛されることを願う濡髪を説得して、放生会にかこつけて落ち延びさせる。
この「引窓」は、昨年十月に歌舞伎座で演じられて、このブログの2005年10月10日に書いたのだが、十次兵衛が菊五郎、濡髪が左團次、お幸が田之助、お早が魁春で、これも非常に感動的な舞台であった。
4年ほど前に、国立劇場で、吉右衛門が濡髪で、富十郎が十次兵衛を逆に演じた公演があったようだが、今回の公演を観て興味を感じた。
代官に任命されて帰って来る十次兵衛の登場が面白い。町人であったのが急に父親の跡を継いで代官に任命されたのであるから、羽織袴も刀も、ただ今支給されたばかりの新品で、一張羅を初めて着て帰って来たので身についていおらず至ってぎこちない。
濡髪を兄弟の仇と狙う同輩の侍2人を従えて帰ってくる道中も、町人の癖が直らずに揉み手スタイル。
門口で、鬢に唾をつけて威儀を正して、「ただ今立ち帰った」と大仰に格好をつけて入る吉右衛門、これからの武士と町人を行き来する緩急自在の演技が筋を味わい深くしている。
この十次兵衛だが、元々立派な武士でありながら、父の死後生活が荒んで色町通いでその時遊女だった都と結婚しこれが今の女房お早、やがて改心して代官の任命を受けるのだが、人生酸いも辛いも知り尽くしており、この苦労人としての十次兵衛が、義母の純愛に感動して、折角得た自分の栄達を棒に振ってでも異母兄弟を助けて逃がそうとする。
義母が、鳥が粟を一粒一粒拾い集めて貯めたような永代供養の為の金子を一枚一枚並べながら、十次兵衛にお尋ね者濡髪の人相書きを売ってくれと伏し拝むのを見て、すべてを悟った十次兵衛は、刀を投げ出し「両腰差せば南方十次兵衛、丸腰なれば今までどおりの南与平衛、相変わらずの八幡の町人」と言って人相書きを渡す。
探索の為に出かけようとして、二階に隠れている濡髪に聞こえるように、
「おおかた、河内へ越える抜け道は、狐川を左に取り、右へ渡って山越しに、サ右に渡って・・・山越にィ・・・あぁいゃ、めったにそうは参りますまい。」と逃げ道を教えて家を出て行く。
大詰めの、放生会に事寄せて濡髪を逃がす十次兵衛の台詞が切々と胸に迫る。
吉右衛門の人情の機微に感動する熱いヒューマニズムが迸り出るような素晴らしい演技が胸を打つ。
富十郎の濡髪は堂々とした威丈夫で重厚。囚われの身を覚悟しているのだが、暇乞いに来ていながらそれを言い出せない心の葛藤、それに、母親の盲目に近い愛情と義兄弟夫婦の深い思いやりに感動して揺れ動く心の襞を、僅かな身体の動きと顔の表情、そして、台詞に籠めて表現していて心憎いほど上手い。
吉之丞だが、このお幸を襲名の時に演じた記念すべき役であり播磨屋の重要な脇役でもあり、流石に上手い。
5歳の時に分かれた吾が子濡髪に、罪の意識と錯綜して盲目的な愛情を注いで助けたい一心だが、濡髪に吾が子を助ける為に義理の吾が子を罪に陥れるのは義理が立たないのではないかと説得されて正気に返って濡髪を引窓の紐で縛る。この決然とした心の触れなど、全編を通じて極めて重要な心理描写を実に感動的に演じている。
お早の芝雀だが、初々しい。元色町の遊女だと言う色気と、町人の女房と言う落ち着きを、武士の妻になった喜びとを交えて実に初々しく演じている。
母親思い一徹で、主人に適わぬ口答えをしながらも右往左往するが、引窓を明け下げする機転など一幅の清涼剤である。
罪を憎んで人を憎まずと言う言葉がある。
殺生を戒める仏教の放生会、旧暦の8月15日には生き物を放つという法会である。
実力・人気共に最高の大関・濡髪だが、自分の贔屓筋の若旦那とその恋人を救う為に、四人の乱暴者の侍を殺して、お尋ね者になってしまった。
動物だって放してやるのに、何故、濡髪を逃がしてはならないのかと言う庶民の気持ちが根底にある。
人間として生まれて来た以上、色々な運命に遭遇して、悲しい時も嬉しい時も心の底から迸り出るような情に揺り動かされて、泣き笑いの人生を生きているが、この歌舞伎は、善意ばかりの人々の良心の塊のような心の触れ合いの世界である。
竹やぶの多い八幡の明り取り・引窓を小道具にして、その開閉によって月の光の輝きに託して夜昼を入れ替えて人間ドラマを作り上げる、なんと乙な芸術であることか。
丁度先日は中秋の名月が美しかった。ヒグラシがまだ激しく鳴いているが、少し冷気を含んだ秋の夜風に虫の声が清清しい。
萩の花が咲き乱れている。もう、秋である。