
現在、東京芸術劇場中ホールで、来日中のロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)が、「夏の夜の夢」の素晴しい公演を行っている。
随分多くのRSCの舞台を見ているが、これほど素晴しい視覚的に豊かな舞台を見るのは久しぶりである。
演出は、RSCの副芸術監督のグレゴリー・ドーランで、前回は、サー・アントニー・シャー(恋に落ちたシェイクスピアで、恋人にこの腕輪を与えれば戯曲の着想が湧くとシェイクスピアに言ったイカサマ占い師)を起用した「オテロ」で、日本でも御馴染みである。
舞台は、床を鏡様の反射板を使用して登場人物の影絵をバックに投影したり、背景や中空に浮いた月をスクリーン様に使って映像を変化させて舞台設定を変えたり、星のきらめく夜景や森の幻想的な風景が美しい。
夢のある喜劇に仕上げている。
この「夏の夜の夢」の筋書きは次のとおり。
恋人との結婚を許されず、死か尼寺かと追い詰められた娘が恋人と森へ駆け落ち。それを許婚が追いかけて森へ、その彼に恋する乙女がまたこれを追って森に行き、4人の若者が森に入る。
森を支配する妖精の王オベロンと女王ティターニアとが、インド人の子どもをめぐって仲違い。王は、要請のパックに命令して、起きた時に最初に見たものを恋すると言う惚れ薬を取りに行かせて、王女と仲違いの恋人達に振りかけるよう指示する。
パックは、公爵の結婚祝いの祝典劇の練習の為に来た職人ボトムの頭をロバの頭に変えたが、ティターニアはこの怪物を見て恋に落ちる。
一方、若者の方は、間違って媚薬を振り掛けたので、恋愛関係が逆転して、相手にされなかった乙女が二人の男に追いかけられてドタバタ喜劇。
王が、媚薬解凍用の薬を振り掛けて各々正常な恋愛関係に戻ってめでたしめでたし。
公爵と2組の結婚式の祝宴に、職人達がドタバタ悲劇を演じて祝福して幕。
森に入って妖精たちに翻弄されて夢の中を彷徨い、目覚めて正気に戻って吾に返る。しかし、夢かウツツか幻か、とにかく、仮想か現実か、分からないことがこの世の中には多すぎる。
ドイツの森は、あの「黒い森」のように一歩踏み込むと外に出られないグリム童話の世界のように恐ろしい所だが、イングランドの森はどうなのか、外国には行ったことのないシェイクスピアのイメージする森を知りたくて、故郷ストラトフォード・アポン・エイボン近くの森を少し歩いたことがある。
イギリスの田園地帯は何処もなだらかで美しくウオーリックシャーの森も牧歌的で美しかった。
一歩森に入ると、結界を越えて非現実の世界に入り込む、実際の現実世界と隔離された森が非日常の夢を叶えてくれるかもしれない、シェイクスピアにとっては、変身して別の世界を現出させてくれる恰好の舞台なのだと思った。
「人生は劇場」と言わせた「お気に召すまま」の森も、「ウインザーの陽気な女房たち」でファルスタッフを降参させた森も、シェイクスピア劇では重要な舞台で、夫々美しい演出の森の風景を見られる機会が多い。
蜷川は、この森を竜安寺の石庭に変えて「夏の夜の夢」を演出し、ティターニアに白石加代子を起用して素晴しい舞台を作った。
俄か仕立てのようなベニサン・ピットで見たが、その後、エイドリアン・ノーブル演出のRSCの「夏の夜の夢」をこれも東京で鑑賞したが、起死回生で打った蜷川版の方が本場で人気が高かったと言う。
今回の舞台は、文楽を見て感激したドーランが、インド人の子どもの代わりに実物大の裸の男の子の人形を使った。
主遣いは、後頭部に差し込んだ棒を操作し、手遣い、足遣い等複数の人形遣いが器用に人形を操って実にリアルであった。文楽人形ともパペットとも違う、不思議な人形である。
ボトムは、座頭俳優が演じるのだが、マルコム・ストーリーは緩急自在で、喜劇ながらしみじみした演技で実に上手い。頭には、大きなロバの縫ぐるみを被っていた。
ティターニア役のアマンダ・ハリスは、前回、「オテロ」の時のエミリア役で御馴染み、妖艶な怪しげな役も上手い。
妖精のパックだが、蜷川は京劇の俳優を起用して飛び跳ねるなど動きの早い妖精を使ったが、今回の妖精ジョナサン・スリンガーは、どこかのどら息子風の道化に近い妖精で、一寸人間味のあるイギリス本来の小悪魔ロビン・グッドフェローを演出したのであろう。
大男のジョー・ディクソンだが、重厚なオベロンを演じて存在感十分。
若い4人の恋人達は、女性陣が妖精役の若い俳優と代わって居たので少し経験不足ながら、まずまずの舞台。
ところで、数年前に、20世紀フォックスが、素晴しい映画「夏の夜の夢」を作った。ティターニアを演じたミッシェル・ファイファーの妖艶な魅力に圧倒されて見ていた。
ソフィー・マルソーが、ヒポリタ役で、一寸端役。森の中の泥沼での二人の乙女の喧嘩は凄まじい。
メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の素晴しい音楽が聞こえてくるような楽しいRSCの舞台であった。
(追記)開演前、フラッシュが激しかったが、皇太子殿下がご観覧。
随分多くのRSCの舞台を見ているが、これほど素晴しい視覚的に豊かな舞台を見るのは久しぶりである。
演出は、RSCの副芸術監督のグレゴリー・ドーランで、前回は、サー・アントニー・シャー(恋に落ちたシェイクスピアで、恋人にこの腕輪を与えれば戯曲の着想が湧くとシェイクスピアに言ったイカサマ占い師)を起用した「オテロ」で、日本でも御馴染みである。
舞台は、床を鏡様の反射板を使用して登場人物の影絵をバックに投影したり、背景や中空に浮いた月をスクリーン様に使って映像を変化させて舞台設定を変えたり、星のきらめく夜景や森の幻想的な風景が美しい。
夢のある喜劇に仕上げている。
この「夏の夜の夢」の筋書きは次のとおり。
恋人との結婚を許されず、死か尼寺かと追い詰められた娘が恋人と森へ駆け落ち。それを許婚が追いかけて森へ、その彼に恋する乙女がまたこれを追って森に行き、4人の若者が森に入る。
森を支配する妖精の王オベロンと女王ティターニアとが、インド人の子どもをめぐって仲違い。王は、要請のパックに命令して、起きた時に最初に見たものを恋すると言う惚れ薬を取りに行かせて、王女と仲違いの恋人達に振りかけるよう指示する。
パックは、公爵の結婚祝いの祝典劇の練習の為に来た職人ボトムの頭をロバの頭に変えたが、ティターニアはこの怪物を見て恋に落ちる。
一方、若者の方は、間違って媚薬を振り掛けたので、恋愛関係が逆転して、相手にされなかった乙女が二人の男に追いかけられてドタバタ喜劇。
王が、媚薬解凍用の薬を振り掛けて各々正常な恋愛関係に戻ってめでたしめでたし。
公爵と2組の結婚式の祝宴に、職人達がドタバタ悲劇を演じて祝福して幕。
森に入って妖精たちに翻弄されて夢の中を彷徨い、目覚めて正気に戻って吾に返る。しかし、夢かウツツか幻か、とにかく、仮想か現実か、分からないことがこの世の中には多すぎる。
ドイツの森は、あの「黒い森」のように一歩踏み込むと外に出られないグリム童話の世界のように恐ろしい所だが、イングランドの森はどうなのか、外国には行ったことのないシェイクスピアのイメージする森を知りたくて、故郷ストラトフォード・アポン・エイボン近くの森を少し歩いたことがある。
イギリスの田園地帯は何処もなだらかで美しくウオーリックシャーの森も牧歌的で美しかった。
一歩森に入ると、結界を越えて非現実の世界に入り込む、実際の現実世界と隔離された森が非日常の夢を叶えてくれるかもしれない、シェイクスピアにとっては、変身して別の世界を現出させてくれる恰好の舞台なのだと思った。
「人生は劇場」と言わせた「お気に召すまま」の森も、「ウインザーの陽気な女房たち」でファルスタッフを降参させた森も、シェイクスピア劇では重要な舞台で、夫々美しい演出の森の風景を見られる機会が多い。
蜷川は、この森を竜安寺の石庭に変えて「夏の夜の夢」を演出し、ティターニアに白石加代子を起用して素晴しい舞台を作った。
俄か仕立てのようなベニサン・ピットで見たが、その後、エイドリアン・ノーブル演出のRSCの「夏の夜の夢」をこれも東京で鑑賞したが、起死回生で打った蜷川版の方が本場で人気が高かったと言う。
今回の舞台は、文楽を見て感激したドーランが、インド人の子どもの代わりに実物大の裸の男の子の人形を使った。
主遣いは、後頭部に差し込んだ棒を操作し、手遣い、足遣い等複数の人形遣いが器用に人形を操って実にリアルであった。文楽人形ともパペットとも違う、不思議な人形である。
ボトムは、座頭俳優が演じるのだが、マルコム・ストーリーは緩急自在で、喜劇ながらしみじみした演技で実に上手い。頭には、大きなロバの縫ぐるみを被っていた。
ティターニア役のアマンダ・ハリスは、前回、「オテロ」の時のエミリア役で御馴染み、妖艶な怪しげな役も上手い。
妖精のパックだが、蜷川は京劇の俳優を起用して飛び跳ねるなど動きの早い妖精を使ったが、今回の妖精ジョナサン・スリンガーは、どこかのどら息子風の道化に近い妖精で、一寸人間味のあるイギリス本来の小悪魔ロビン・グッドフェローを演出したのであろう。
大男のジョー・ディクソンだが、重厚なオベロンを演じて存在感十分。
若い4人の恋人達は、女性陣が妖精役の若い俳優と代わって居たので少し経験不足ながら、まずまずの舞台。
ところで、数年前に、20世紀フォックスが、素晴しい映画「夏の夜の夢」を作った。ティターニアを演じたミッシェル・ファイファーの妖艶な魅力に圧倒されて見ていた。
ソフィー・マルソーが、ヒポリタ役で、一寸端役。森の中の泥沼での二人の乙女の喧嘩は凄まじい。
メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の素晴しい音楽が聞こえてくるような楽しいRSCの舞台であった。
(追記)開演前、フラッシュが激しかったが、皇太子殿下がご観覧。